旅の途中

にいがた単身赴任時代に綴り始めた旅の備忘録。街道を歩いたり、酒肴をもとめてローカル線に乗ったり、時には単車に跨って。

年の瀬の情景 上野界隈にて

2016-12-31 | 日記・エッセイ・コラム

 年末年始の読み物を漁りに丸善を訪ねた帰り道、御徒町に途中下車してみる。アメ横の年の瀬の情景は、地方出身の自分にだって大晦日のNHKニュースなどで小さい頃からお馴染だ。 

     

まずは 「厄を除き、福を招き、運を開く」下谷摩利支天へ。寛永年間に創建された徳大寺は、関東大震災と戦災で二度にわたって灰燼に帰したけど、摩利支天像は焼失を免れて上野広小路の賑わいを見つめてきたと云う。

 

例年に比べて多いのか少ないのか判らないのだけど、とにかくすごい人出で活況を呈している。鮮魚や練り物を扱う店の前ではビールケースに乗ったお兄さんの濁声が飛び、呼びかけに呼応するお客さん。売り手も買い手も笑顔笑顔なのだ。 

     

この辺り “せんべろ居酒屋” の聖地であり、むろん昼呑みOKである。休日の昼間は、若いカップルや小さな子ども連れだって、なんかこうカフェテラス感覚でチョイ呑みするんですね。焼トンの匂いに誘われて大衆酒場「かのや」へ、カウンターで一杯やってきました。“おでん” とお約束の “ハムカツ” が肴です。今年もあちらこちらへ出掛けてずいぶんと呑みました。

 
 

 いい気分で丸井脇の小路を抜けると正面は上野駅だ。新幹線は東京発着となり、北へ向かう夜行列車も全廃してしまったけど、きっと今なお多くの東京人にとって「暮れの帰省」 のイメージは上野駅だと思う。駅舎は戦前から様々な年の瀬の情景と人々の織りなすドラマを見つめてきたはずだ。

 皆さまには拙い「呑み話し」にお付き合いただき、ほんとうに有難うございました。来る年もよろしくお付き合いください。


旧中山道碓氷峠を越えて

2016-12-30 | 日記・エッセイ・コラム

吾妻(あずま)はやとし日本武(やまとたけ) 嘆(なげ)き給(たま)ひし碓氷山(うすいやま) 

穿(うが)つトンネル二十六 夢にも越ゆる汽車の道

『信濃の国』が七五調で謳い上げる碓氷峠、中山道の旧碓氷峠は、碓氷バイパスや国道18号線と離れた山道を、熊除けの鈴を鳴らしながらゆく。横川の標高が387m、峠頂上の標高が1,200m、その標高差800mが旅人に大きな負担であったことは想像に難くない。と云うか実際に厳しい登山のような行程だった。

日本武尊が遠くの海を眺め、相模灘で荒波を静める為に海中に身を投じた最愛の妻、弟橘姫(オトタチバナナヒメ)を偲び「ああ、いとしき我が妻よ」と嘆いたと伝えられている碓氷峠頂上には「熊野神社」が鎮座し、参道の中央部が県境になっていて、長野県側が「熊野皇大神社」、群馬県側が「熊野神社」と2社に分かれている。

「元祖力餅しげの屋」もまた店舗の中央を県境が貫いている。まさに “峠の茶屋” だ。おろし醤油の力餅と缶ビールで一息ついたら先を急ごう。西へと峠を下ると爽やかな薫風が吹き抜ける旧軽井沢だ。

2012.05.20


ノスタルジックな平溪線を往く

2016-12-28 | 日記・エッセイ・コラム

 瑞芳駅に降り立つとディーゼルカーが唸りを上げている。 基隆河を遡る平溪線は三貂嶺駅から菁桐駅まで延びるローカル線だ。すべての列車は自強号が停車する瑞芳駅を始発し、東部幹線を一区間走ってこの支線に入る。瑞芳駅の月台で平渓線一日乗車券を購入すると良い。

大正時代に鉱物運搬の目的で敷設された平溪線沿線には炭鉱跡、神社跡、工場跡などが残り、日本のノスタルジーを感じるローカル線なのだ。休日のディーゼルカーは若いグループやカップルで満員、台北っ子には手軽な日帰りデートスポットなのだろう。

旅番組なんかで見たことがある商店の軒先を列車が走って往く風景は十分老街、お馴染の願い事を記したランタンを飛ばせるスポットでもある。お嬢さんが飛ばそうとしているピンク色のランタン、♡マークが描かれているのは恋の行方を占っているからだろうか。

やがて彼女たちの手から離れて舞い上がったピンク色のランタン、少し南風に流されながらも雨上がりの空に吸い込まれるように上昇していった。いつまでも視線でランタンを追うふたり、願い事適うといいね。


名湯「鯖湖湯」に浸かる 福島交通飯坂線を完乗!

2016-12-24 | 呑み鉄放浪記 私鉄編

 「鯖湖湯」は、奥の細道の途中、飯坂に立ち寄った松尾芭蕉が浸かっている。元禄二年(1689年)のことだ。飯坂温泉街には9つの共同浴場があるが、鯖湖湯は最も古くからある湯、ビバ造りの立派な共同浴場は、地元住民や観光客に親しまれる飯坂温泉のシンボルだ。

飯坂温泉へは、福島駅で福島交通・飯坂線のローカル電車『いい電』に乗り換えて、ガタゴト23分走って往く。福島交通では、飯坂温泉共同浴場入湯券がついた「1日フリーきっぷ」800円を発売しているので利用すると良い。

電車は2両編成、名産の「桃」をイメージしているのだろうか、シルバーステンレスの車体にピンクのラインと花弁を散らしている。福島駅を発車した2両編成は、暫く東北本線と並走した後、右から左へとオーバーパスしていく。車窓には福島市郊外の住宅地が流れていくが、ほどなく左右に果樹園が広がってくる。

左手に見下ろす扇状地の広がりには、もも、なし、りんご、さくらんぼ、ぶどう等の果樹園が広がる。きっと花咲くころはキレイに彩られることだろう。医王寺駅を過ぎて松小川鉄橋を渡ると終点の飯坂温泉まではあと少しだ。

飯坂温泉駅では、ブレーストリア・アーチが美しい十綱橋を背景にして芭蕉翁が迎えてくれる。奥の細道の頃の「飯塚」(芭蕉はこう記している)は、温泉宿4軒の小さな温泉街だったそうだ。芭蕉翁は苫屋のような宿に泊まったため好意的な感想を記していない。

 

 拾遺和歌集にも「あかずして わかれし人のすむさとは さばこのみゆる 山のあなたか」と詠まれている鯖湖湯を訪ねる。アルカリ性単純泉、泉温は51.0度、湯舟の中で動いたら熱くて耐えられそうもないので、じっと浸かってみる。ヒバの香りに包まれて、時間がゆっくり流れていく。

 

 冷えたビールを求めてかつ丼の店「十綱食堂」の暖簾を潜る。わずか8席、調理場には老夫婦、時代から外れたちょっと寂れたお店。でも今までの経験からこの手のお店、味は間違いない。昔なつかしい “ソースかつ丼” にかぶりつく至福の時間を過ごす。

 “青春18きっぷ” で久しぶりの「呑み鉄」の旅は、各駅停車で往復11時間、福島滞在は3時間の少々強引な旅になった。

福島交通飯坂線  福島〜飯坂温泉  9.2km 完乗

フィーリング / ハイ・ファイ・セット 1976


台湾啤酒を抱えて自強号で往く

2016-12-21 | 日記・エッセイ・コラム

 台北駅07時00分発、自強105号の指定券を窓口で求めたあと、臺鐵便當本舖を物色する。もっともポピュラーな「八角排骨便當」を手に取る。骨付きの豚肉に衣を付けて揚げた「排骨(パイグー)」、台湾式の煮卵「滷蛋(ルーダン)」が温かご飯にのっている。台湾の駅弁は美味い。あとは缶ビールの2本もあれば良い。

台湾を旅するのに新幹線は味気ない。第二の都市・高尾までは在来線特急の自強号で4時間30分、車窓を流れる田園風景を眺めながら「台湾啤酒」を呷り、「八角排骨便當」に舌鼓を打てば、ご機嫌な台湾 “呑み鉄” の旅なのだ。

高尾ではフェリーで旗津半島を訪ねたのだが、結局は海鮮料理屋でビールを飲んだに過ぎない。復路は左営駅から台灣高鐵の新幹線に乗車する。台北駅までは1時間40分で駆け抜ける。実は往路の4時間30分、ほとほとお尻が痛くて辛かったのだ。


Cabo da Roca にて

2016-12-17 | 日記・エッセイ・コラム

 北緯38度47分、西経9度30分、ロカ岬はユーラシア大陸最西端に位置する。岬の突端に立つ十字架の塔には詩人カモンイスの一節「ここに地終わり、海始まる」が刻まれている。大航海時代に新大陸を目指した冒険家たちの夢と希望を描写しているかのようだ。高さ140mの断崖から見下ろす大西洋、よろめく程の強風と切り立った岩に打ち寄せる荒波が作る飛沫は、まさに “最果て感” たっぷりだ。

ロカ岬にはヨーロッパのバイク野郎が集まってくる。カウルを装備したツアラータイプのオートバイ、カラフルなレザースーツにフルフェイスがヨーロピアンスタイルだ。いつかこの岬をめざしてユーラシア大陸を走ったらご機嫌だろうなと思ったりする...... で何処から走り出せば良いのだろうか。まさか「深夜特急」よろしく、香港からスタートと云う訳にはいくまい。 


End of the Trail にて

2016-12-14 | 日記・エッセイ・コラム

Well it winds from Chicago to L.A.
More than two thousands miles all the way
Get your kicks on Route66
ナット・キング・コールが西へと向かう旅に誘っている。

サンタモニカを訪ねた際、ここがシカゴからLAサンタモニカを結ぶ全長3755kmの一本道、
アメリカのマザーロードの終点であることを知る。いつの日にか走ってみたいね「ルート66」。


和田峠-古峠を越えて

2016-12-10 | 日記・エッセイ・コラム

 街道を歩く旅をはじめて、いくつかの峠を徒歩越えしてきた。なかでも中山道最大の難所といわれる和田峠-古峠は標高1,605mと群を抜いて高い。実際に歩いてみるとなかなか急峻な山道で、関ヶ原へと向かう秀忠の大軍や、江戸へ降嫁する和宮の行列が本当にここを通ったの?と訝しく思われる。

 江戸方からの和田峠の登り口である男女倉口までは、上田駅から長久保乗り換えで1日数本のバス路線があるが、東京を朝発っても到着は午後1時を過ぎてしまうので現実的ではない。私たちは前日ここまで歩いて、送迎をしていただける長和町の民宿に投宿、翌朝ふたたびの男女倉口から登りはじめた。リュックの中には民宿で作ってくれたおにぎり弁当が入っている。

 峠への山道はR142に沿って旧道を歩くことができる。もっとも峠のはるか下を貫く新和田トンネルが通じているので、R142自体が忘れ去られた旧国道という感じだ。この道沿いピークの手前に東餅屋という所がある。中山道の時代には4軒の茶屋があったそうだが、今でも1軒が古びたドライブインとして営業していて昔ながらの “力餅” を食べることができる。

 東餅屋を発つと頂上までは僅か。ビーナスラインが走る越えるべき尾根筋は中央分水嶺で、手前に流れる沢はやがて日本海に注ぎ、峠の反対側に流れ出す沢は遠州灘に行き着く。左右の樹木も低くなり徐々に視界が開けていく。ラスト10分を喘ぎ喘ぎ登ると、正面に真っ白な頂の御嶽山3,067mが目に飛び込んできた。和田峠-古峠だ。“御嶽山坐王権現”の石塔が建っている。江戸を発った御嶽信仰の人たちはこの峠で初めて御嶽山を拝んだのである。


六十里越峠を越えて

2016-12-07 | 日記・エッセイ・コラム

 峠越えは旅のアクセントだ。

ピークを越えた途端、或いは長い長いトンネルを抜けると、突然、眼の前が開けて、さっきまで喘ぎ喘ぎ上ってきた路とはまったく違った世界が広がる。景色だけではない。まぶたに感じる陽光の暖かさであったり、ほほを撫でる風の優しさや厳しさだったり、びこうを擽る草木の匂いであったり、からだ全体で飛び込んだ別世界を感じる醍醐味が峠にはある。

とは云っても、新幹線や高速道路は峠のはるか下を長大トンネルで駆け抜けてしまうし、スイッチバックで上って越えるローカル線だって最近は冷房が効いているから窓を開けるのは憚られる。せめて峠へと続くワインディングロードはエアコンをOFFにして少し窓を開けよう。歩いて峠を越える旅もたくさんしたけれど、峠を堪能するのにはやっぱり単車が一番だ。

峠越えを堪能するには、どちら側から走るかが重要なポイントだ。越える山の断面は必ずしも二等辺三角形ではないからだ。新潟県小出から福島県只見へと越える国道252号線の六十里越峠に関して云えば、断然新潟県側からのアプローチが良い。入広瀬からいつ果てるでもない長く緩い勾配が続く。並走するJR只見線がトンネルに吸い込まれる辺りからつづら折りとなる。自然のなりゆきで潜ったトンネルが意外と長いなと感じていると......

トンネルの出口はまるで道路が空に飛びだすかのように広がった。眼下には雪解け水を満々と湛えたエメラルドグリーンのダム湖が横たわっている。新緑が芽吹くころ、久しぶりに単車で旅に出たいと思う。

 


甲州道中紀行12 金沢宿~上諏訪宿~下諏訪宿

2016-12-03 | 甲州道中紀行

 

09:40 「金沢宿」 
 曹洞宗金鶏山泉長寺の山門前に「おてつき石」がある。
参勤交代の大名に役人が、この石に手をついて口上を述べたそうだ。 

 

明治時代のものであるが、人馬が一緒に泊まれた横棟造りの「馬宿」が残っている。
軒先には「馬繋ぎ石」を見ることができる。

     

承応三年(1654年)建立の金山大権現を祀っている権現の森。
この手前が高遠道との追分になっている。高遠道は高遠藩、飯田藩の参勤道でだ。
ってことは、この先の甲州道中を通ったのはいよいよ高島藩くらいになってしまう。

稲刈りを終えた田圃に稲ワラが敷かれ、等間隔に木材を並べる作業を見かけた。
多分、寒天の干し場の準備だと思われる。
所狭しと寒天が並べられる風景は、冬の諏訪地方で見ることができる風物詩なのだ。

     

10:10 「金沢一里塚」
 諏訪までのお付き合いになる宮川沿いを往く。
日本橋から49番目の金沢一里塚は、R20対岸のホテル脇に標石のみがぽつんと在る。
塚は崩れてしまって原形を留めていない。 

     

10:45 「酒室神社」
 坂室地区になんとも興味をそそる名前の神社がある。
諏訪大社の祭礼のひとつである御射山祭の際、濁酒を造り、山の神の供える。
この前夜祭をとりおこなう神聖な地に祀られたのがこの酒室神社だ。

坂室を過ぎると眼前が開けて諏訪盆地が確認できる。
中央道越しに雪を被っているのは木曽駒ケ岳か、標高2,956m、中央アルプスの最高峰だ。

 

11:05 「茅野一里塚」
 日本橋から50番目の茅野一里塚も標石のみが在る。塚木は松であったという。
ここに鎮座する「三輪神社」、久寿年間(1154~56年)の創建で、大和の三輪神社から迎えた。
神社に隣接する豪壮な三階建ての土蔵は、寒天を保存する使われた「宮川寒天蔵」だ。
現在はイベントスペースとして使われている。

     

11:20 「諏訪大社上社大鳥居」
 茅野駅前交差点に大鳥居が在る。諏訪大社上社は本宮と前宮の二社が鎮座している。
多くの旅人がここを左手に折れて参詣の道を進んだことだろう。

 

街道は湖岸に向かうことなく山際の高台を往く。R20、中央本線を見下ろす感じだ。
神戸地区辺りから温泉の給湯所や共同浴場を見かけるようになる。

 

12:00 「神戸一里塚」
  日本橋から51番目の神戸一里塚は跡碑が建つのみ。ここは片塚で、塚木は槻だった。
街道が往く高台は眺望は良いものの、家々に遮られてまだ湖面は見えない。

     

12:40 「秋葉神社」と「大清水」
 清水1・2丁目交差点から街道を外れて細い路地を上ること数分、
巨木の根元に四つの社が祀られた秋葉神社が在る。
石鳥居の傍らには、明治十三年の巡幸の際に供された「明治天皇御膳水」が湧く。 

  

参道を下って行くと高島藩主が使用した「殿様御膳水」が湧き、
下りきった街道脇には庶民用の「大清水」が湧いている。
身分の高いものがより上水を使用する、時代の様子がよく表れている。

 

左手に「かねさ呉服店」、街道を隔てて「染一染物店」と旧い商家が向かい合う。

12:45~13:25 「諏訪五蔵」
 街道沿いに霧ヶ峰の伏流水を仕込み水に、旧くから酒を醸し続ける5軒の酒蔵が並ぶ。
江戸口から入るとまずは「真澄」の宮坂酒造、大好きな酒だ。
寛文2年(1662年)創業の蔵は高島藩の御用酒屋を勤めていた。
先週、新酒 “あらばしり” を出荷したばかりで酒林が青々としている。
純米あらばしり、山廃ひやおろし、奥殿寒造り、とテイスティングしてご機嫌なのだ。 

 

宮坂酒造を後にすると、左手に「横笛」の伊藤酒造、昭和33年創業の新しい蔵だ。
街道を挟んで「本金」の酒ぬのや本金酒造が向かい合う。創業は宝暦6年(1756年)と旧い。
「本金」とは「本当の一番(金)の酒」という意味だそうだ。 

 

屋根に雀おどりを載せた本棟造りは「麗人」の麗人酒造、寛政元年(1789年)の創業だ。
最近ではビール「諏訪浪漫」も醸造している。
その並びに舞姫酒造、味噌・醤油を醸造していた亀源醸造から分家した新しい蔵だ。

 

13:30~14:05 「上諏訪宿」
 高島藩3万石の城下町に栄えた上諏訪宿は、本陣1、問屋1、旅籠14軒の規模。
小平本陣跡は広大な駐車場になっている。並びには温泉共同浴場「精進湯」がある。
西方の桝方になるのだろうか諏訪1丁目交差点で右手に直角に折れる。
ここには高島藩主専用の「虫湯」があった。

 

さて、上諏訪宿での昼食は “みそ天丼”、「れすとらん割烹いずみ屋」を訪ねる。
全国有数の味噌の産地である諏訪の味噌をベースにした「みそダレ」をかけた丼だ。
投網をイメージした蕎麦の素揚げ、ワカサギ、川海老、野沢菜のかき揚、しめじ等がのる。

 

14:10 「下桑原一里塚」
 上諏訪宿では長居をしてしまったので、残り6kmは1時間少々で歩きたい。
歩きはじめてほどなく左手に明治初期の純日本家屋を一部改装した喫茶店が現れる。
そして日本橋から52番目の下桑原の一里塚跡には碑と解説が在る。

14:40 「茶屋本陣跡」
 上諏訪から下諏訪への行程半ばに茶屋本陣跡が在る。
鯉料理が名物で高島藩主も賞味した。立派な門は、高島城三の丸門を移築したものだ。

藩主も旅人もこの眺望を楽しんだはずだ。湖面の向こうに上諏訪の市街地が見える。

 

14:50 「富部一里塚」
 旅人が湖面に向かって石投げに興じた「南信八名所石投場」が在る。
昔は琵琶湖が真下まで迫って、明治天皇もここから漁師たちの投網をご覧になっている。
甲州道中最後の富部一里塚は、榎を塚木とした両塚が在ったそうだ。
江戸日本橋より五十三里目、ゴールは近い。

15:05 「諏訪大社下社秋宮」
 旅の終わりは呆気なくやって来た。
住宅街の緩やかな勾配を上ると、突然視界が開けて下社秋宮の鳥居前の広場にぶつかる。
日本最古の神社のひとつ、七年に一度の「御柱祭」有名な神社も、冬は閑散としている。

 

15:15 「下諏訪宿」
 下諏訪宿は中心部の本陣岩波家辺りが丁字路になっている。
江戸方から歩いて来ると、左手に折れると木曽路を経て京都へ向かう中山道。
直進もやはり中山道で和田峠、碓氷峠をへて江戸へと逆戻りとなる。
ここが甲州道中・中山道合流之地であり、甲州道中紀行の終着点だ。
金沢宿から宮川に沿って諏訪盆地へと下り、上諏訪宿で信州の銘酒を堪能し、
諏訪湖の眺望を楽しみながら下諏訪宿までは、18.8km、5時間35分の行程となった。

下諏訪の湯に浸かる。息子と中山道を歩いた3年前と同じ「児湯」だ。
酒蔵と温泉に巡りあう行程はご機嫌だ。でも一人旅は本当は少し寂しい。
日本橋を発って延べ12日、213.5km、ここに甲州道中の旅を終える。
次はどこを歩くかは未だ思案中だ。