旅の途中

にいがた単身赴任時代に綴り始めた旅の備忘録。街道を歩いたり、酒肴をもとめてローカル線に乗ったり、時には単車に跨って。

東海道紀行13 見付宿~浜松宿~舞阪宿

2019-05-05 | 東海道紀行

06:30「善導寺(大クス)」
 磐田駅前にあった善導寺(駅前再開発で移転)の樹齢700年と云われる大クスが繁る。
街道を行き交う旅人にも目印になったろう。あるいは木陰を提供しただろうか。
"東海道を歩く旅" 第13日目は、磐田駅前から天竜川を渡って浜松、そして舞阪をめざす。 


Navi67 ABホテル磐田(右折) → <市道> → 磐田化学工業前Y字路 1.2km


Navi68 磐田化学工業前Y字路(左折) → <県道261号> → 天竜川西交差点 4.5km

袋井宿でもレポートしたが、秋葉信仰が盛んな遠州では、集落毎に秋葉灯籠を建てた。
文政十一年(1828年)建立の常夜燈は、竜の彫り物が施され「竜頭」とも呼ばれる。
日本橋から六十三里目の宮之一色一里塚はこの辺りになる。 


Navi68-2 森下Y字路(斜め左) 900m


Navi68-3 長森の信号(右折) 県道262号を300m


Navi68-4 ゴールドモンキー豊田店(パチンコ)を左折 300m


Navi68-5 天竜川堤防(右折)を130mで県道261号に戻る 

07:40「天竜川舟橋」 01:10:00
 信州諏訪湖を流れ出た暴れ天竜は219kmを旅して、間もなく遠州灘に注ぐ。
東海道はここを舟橋で渡る。武士は無料、民百姓は六文、伊勢参詣者は三文だったと云う。
県道261号の天竜川橋は歩道が無いので、並行する国道1号の新天竜川橋を渡ると良い。 


Navi69 天竜川西交差点(左折) → <県道314号> → 安間川橋東詰 1.4km


Navi69-2 舟橋・木橋跡標柱から右手階段を降りる

 

08:05「六社神社」 01:35:00
 県道314号がZ字に土手を降りると天竜川渡しの守護神・六社神社がある。
道筋には鰻屋と餃子店が現れて浜松を感じさせる。昼の営業にむけ香ばしい匂いする。

松林寺には徳川家光が建立した薬師堂がある。
この辺りは中ノ町といって花柳界だった。天竜川の木材の集積地として栄えたからだ。 


Navi70 安間川橋東詰(斜め左) → <県道312号~国道152号> → 連尺交差点 6.3km

日本橋から六十四里目の安間一里塚は、この橋のたもとに榎を塚木として在ったはずだ。

09:10「馬込一里塚」
 日本橋から六十五番目の馬込一里塚(案内板は見落とした)を過ぎると馬込橋が架かる。
東詰には外木戸が、西詰には番所が設けられていた。ここからが浜松宿になる。 

09:30~10:30「浜松宿」 03:00:00
 広重は「冬枯れの図」として、焚き火で暖をとる旅人を浜松城を遠景に冬景色を描いた。
浜松宿は本陣6、脇本陣0、旅籠94軒と道中最大規模。空襲により旧い遺構は皆無だ。

少々寄り道をして浜松城公園を訪ねる。
自然石を上下に組み合わせて積む堅固な「
野面積み」の石垣上に聳える浜松城、
家康の「出世城」は北に三方ヶ原古戦場、南に遠州灘、西に浜名湖を望める。 


Navi71 連尺交差点(左折) → <国道257号> → エンシュウ本社工場前 6.3km

 

連尺交差点を左に折れて、連尺町・伝馬町に本陣が並んだ。今では案内板が立つのみだ。
その先はその名も旅籠町、街道の左右には90軒を超す旅籠が軒を並べ賑やかだったろう。


Navi71-2 成子交差点(右折)  200km


Navi71-3 菅原町交差点(左折)  200km

10:55「若林一里塚」 03:25:00
 街道は緩やかに右カーブして真西に方向を変える辺り、若林一里塚跡の標柱が立つ。
この先東西の神社が並び立つ。其々の郷がどういった経緯で勧請したのか興味深い。

先ずは旧可美村の諏訪神社。大永四年(1524年)建立、社殿の青色が印象的だ。

11:35「浜松領界石」 04:05:00
 「従是東濱松領」、浜松藩と旗本大沢家の堀江領の境を示す傍示石はGU駐車場に残る。 

続いて熊野神社。熊野本宮の神主が、諸国行脚の途中でこの地で祭祀したと伝えられる。
延久年間(1069~1073年)に創建されたと伝わる。


Navi72 エンシュウ本社工場前Y字路(斜め右) → <県道316号~49号~市道> → 舞阪宿本雁木跡 6.2km

旧篠原村の東神明宮。建暦二年(1212年)に浜名湖の小島神明島に鎮祀したものを移転。

そして旧馬郡村の春日神社。応永二年(1395年)に勧請されたという。赤い本殿が美しい。

 

社殿前では、狛犬ではなく、雌雄一対の狛鹿が迎えてくれる。なるほど春日神社だ。

12:45「長池松並木」 05:15:00
 松阪宿に向けて見事な松並木が続いている。
正徳二年(1712年)に植樹された1,420本のうち、残った340本が700m続く。
青々とした松の道が美しい。

 松並木が途切れ、国道1号線を横切ると舞阪宿東見附跡、左右に石垣を残している。

舞阪宿に入って直ぐに一里塚跡がある。日本橋からは六十八番目を数える。
傍らに在る新町常夜燈は文化十二年(1815年)の建立だ。

13:15「舞阪宿」 05:45:00
 右手に舞阪宿本陣の標柱が現れた。今日のゴールだ。
正面に海が見える。気温は25度を越えているのに海から吹く風が心地良い。

舞阪宿の規模は天保年間で本陣2、脇本陣1、旅籠28軒。「今切の渡し」を控え賑わった。
文政年間(1818~1830年)には海苔の養殖が盛んになって、一大名物になったと云う。
街道筋には、茗荷屋脇本陣が唯一の遺構として残っている。

 

さて、今日の街道めしは宿内の「晴美屋」で。さすがに腹が減って限界に達している。
舞阪特産の "しらすおろし" と "もずく酢" でビールを呷って着丼を待つ。
少々甘めの "カツ丼" は、玉子はカツをとじずに横に添えられている。素朴で美味しい。 

 

 海岸に出る。北雁木(がんげ)は、大名や幕府役人の渡船場であった。
大きな木製灯台が復元されている。
浜名湖はかつて淡水湖であったが、室町時代の大地震で砂州が切れ、遠州灘と繋がった。

 東海道を歩く第13日目は、ジュビロの水色がはためく磐田駅前を発って天竜川を渡り、
東海道中最大の浜松宿を経て、青々と美しい長池松並木を潜って舞阪宿で浜名湖に至る。
所要は5時間45分。次回は新居宿へ渡って、吉田宿(豊橋)辺りまで歩けるだろうか。

見付宿(JR磐田駅前)~浜松宿~舞阪宿 26.1km


東海道紀行12 掛川宿~袋井宿~見付宿

2019-04-07 | 東海道紀行

10:40「掛川宿」 00:00:00
 「東海の名城」と謳われた掛川城は、嘉永7年(1854年)安政の東海大地震で大半が損壊。
140年ぶりに木造で再建された三層の天守閣、白漆喰塗り籠めの真っ白な姿が美しい。
"東海道を歩く旅" 第12日目は、桜咲く掛川城下から天竜川をめざす。

掛川城に初めて天守閣を造り、城下の整備を行ったのは山内一豊。
内助の功の代名詞とも言えるその妻・千代、二人のレリーフが、街道筋の銀行の壁を飾る。
二人が戦国時代を駆け抜け、土佐24万石の大名となる「功名が辻」は大河ドラマになった。

その先、円満寺の表門は、掛川城の城内門「蕗の門」を移築したものだ。

Navi62-8 hair right(右折) 500m

Navi63 二瀬川交差点(左折) → <県道415号> → 大池橋交差点 0.6km

Navi64 大池橋交差点(左折) → <県道253号> → 川井交差点 9.3km

11:20「大池一里塚」 00:40:00
 大池橋西詰は火伏の神で有名な秋葉権現への参道との追分になっている。
秋葉山までは九里余、往時はここに青銅鳥居と常夜燈が在ったと云う。
広重の掛川宿図は、橋から見た秋葉山遠望を描いている。
さて、東海道は天竜浜名湖線ガードを潜って、日本橋から五十九番目の大池一里塚跡へ。 

Navi64-2 沢田IC北交差点(左折) 90m

Navi64-3 中山板金工業所(右折)

11:45「間の宿原川」 01:05:00
 善光寺橋を渡ると間の宿原川、金西寺に供える薬師餅を商う茶屋が軒を連ねていた。
この辺りは松並木が姿を現し、ここが街道であったことを物語っている。 

Navi64-4 同心橋東交差点(右折) 300mをR1と重複 

Navi64-5 同心橋西詰(左折) 

原野谷川を同心橋で渡ると名栗の立場跡、この先も松並木が続く。
同心橋の云われは、大名行列の随行の同心達がこの川原で食事をしたことに由る。 

12:20「久津部一里塚」 01:40:00
 久津部一里塚跡は日本橋から六十里目、袋井東小学校の敷地内に在る。 

 

医王山油山寺は、眼病平癒に利益のある寺、目の霊山として信仰を集めている。
掛川から袋井の間には何本かの油山参道が分岐し、路傍に道標を見ることができる。 

Navi64-6 新谷交差点(左折) 市道を40m

Navi64-7 白畑ふとん店(右折) 市道を350m

県道253号が415号に上書きされる新谷交差点付近は、街道の痕跡が消える。
交差点から南へひと辻、白畑ふとん店角にマップがあるので参考になる。
その先、秋葉山常夜燈鞘堂がなかなか風格がある。
古くから秋葉信仰が盛んな遠州では、集落毎に秋葉灯籠が建てられ、火が焚かれた。 

Navi64-8 袋井商工会議所裏(左折) 市道を70m

Navi64-9 袋井市役所南交差点(右折) 市道を60m

12:50「袋井宿」 02:10:00
 袋井市役所南交差点あたりが東見付跡、「これより袋井宿」の案内板が立つ。
江戸を発っても、京都を発っても、27番目の宿場は『どまん中』を強調している。 

Navi64-10 東海道どまん中茶屋(斜め左) 市道を60m 静橋北交差点で県道253号に戻る

本陣3、脇本陣0、旅籠50軒の袋井宿。
開設は宿駅制開始から遅れること15年、元和2年(1615年)のことだ。
遺構は残っていないが、東本陣跡に冠木門が復元され、雰囲気を演出している。 

広重は袋井のはずれの田園を描いている。
大木の木陰を利用した葭簀がけの茶屋で、駕籠かきと飛脚がのんびりと一服している。
背景にはのどかな田園風景が広がっている。 

京方の見付跡は御幸橋東詰。復元された高札場、土塁、常夜燈に見送られ、袋井宿を出る。

Navi65 川井交差点(直進) → <県道413号> → 加茂川交差点 6.3km

Navi65-2 松橋西詰(斜め右) 旧道を500m

      

13:25~14:15「木原一里塚」 02:45:00
 松橋を渡ると、右手に500mほど旧道を歩く。木原一里塚は南塚が復元されている。
ここ木原畷は三方原合戦の前哨戦が繰り広げられた古戦場でもある。
遠江に侵攻した武田信玄が陣を張り、ここで徳川家康の偵察隊と衝突している。 

 

道路端に「手打うどん」の幟を発見。袋井宿で食べ損ね、腹を空かして歩いてきた。
先ずはビールとコーラでお疲れさま。厚切りの "板わさ" に小さな喜びを感じるね。 
花冷えの街道めしは、熱々の "味噌煮込み" をいただく。具だくさんの鍋で空腹を満たす。 

Navi65-3 三ヶ野橋西詰(斜め左) 階段を降りて旧道を550m

Navi65-4 江戸の古道標識(左折) 旧道を1.5kmで県道413号に戻る

見付宿を目前にした大日堂の高台、この丘陵に立ば、太田川から遠く袋井まで一望できる。
先ほど通過した木原畷の武田軍を物見する本多平八郎のしたり顔が目に浮かぶ。

Navi65-5 富士見町東交差点(斜め右)

15:20「愛宕神社・阿多古一里塚」 03:50:00
東海道は一旦県道413号に戻るが、直ぐに富士見町東交差点で市道に入る。
600mほどで愛宕神社、長い石段を上がると社殿の裏手には阿多古一里塚の南塚が残る。 

振り返ると見付宿の全容を見渡すことができる。東海道は緩やかな弧を描いている。

愛宕神社の石段下には東木戸が在った。今ではモニュメントが建っている。
さて「見付」の名称だが、上方を発った旅人が初めて富士山を見つけた所だからとか。 

15:30「見付宿」 04:00:00
 見付宿に旧い遺構は殆ど残っていない。ランドマークは北本陣跡至近の旧見付学校だ。
明治8年建造の木造擬洋風小学校校舎は現存する日本最古で、国の史跡に指定されている。 

見付宿の規模は本陣2、脇本陣1、旅籠56軒。脇本陣大三河屋跡に薬医門を残す。
その先、見付西大通との交差点で左折するのだが、真直ぐ進むのは姫街道。
浜名湖北岸を迂回し御油宿に至る道は、新居関所の「女改め」を嫌う女性が好んだ。 

Navi65-6 見付宿場通×見付西大通交差点(左折)

Navi66 加茂川交差点(直進) → <県道56号> → ABホテル磐田 1.4km
Navi66-2 石川雅大法律事務所前(斜め左) 旧道を240m 

15:55「磐田駅前」 04:25:00
 西木戸を抜け、府八幡宮を通って、ジュビロの水色がはためく磐田駅前が今日のゴール。
東海道は駅前を右折、この先一里進めると天竜川に達する。広重も天竜川の渡しを描く。
掛川城下を発った東海道を歩く第12日目、松並木残る田園風景を「どまん中」袋井宿へ。
古戦場を抜けて、愛宕神社から見下ろす見付宿まで所要4時間25分。次回は浜松を抜ける。

掛川宿~袋井宿~見付宿(JR磐田駅前) 17.4km 


東海道紀行11 島田宿~金谷宿~日坂宿~掛川宿

2019-03-31 | 東海道紀行

10:20「島田宿」 00:00:00
 1ヶ月ぶりの島田宿。今日は青春18きっぷでコトコトやってきたので、歩き出しは遅い。
島田駅前には『さみたれの 空吹きおとせ 大井川』の句碑、芭蕉は4日この地に逗留した。

3つの本陣跡を過ぎると "若竹" の大村屋酒造場、天保3年創業の蔵元は宿場の華だ。 

枡形になっていた西木戸跡あたりに大井神社が在る。
三柱の女神を祀る神社は島田宿の鎮守。 拝殿前には奇祭「帯まつり」の大奴の像がある。

Navi50 島田市博物館標識(斜め左) → <市道> → 大井川堤防T字路 0.8km 

 

突如現れたのは褌姿の川越人足。往時はこうした人足に肩車されて大井川を渡った。
川札を売る川会所の周囲に人足宿が復元されている。十番宿もそのひとつ。
陽に焼けた屈強な人足が煙管を吹かす姿はあまりにもリアルだ。 

10:50「大井川」 00:30:00
 川会所を過ぎるとほどなく大井川の堤防に出る。
ご存知大井川は徒歩渡し。水深が四尺五寸になると川留めになった。
川留め直前の「脇通り(人足の脇の下の水深)」で川札は九十四文、4,000円程になる。

Navi51 大井川堤防T字路(右折) → <県道342号> → 大井川橋東交差点 0.6km

「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」は、東海道中最大の川渡りの難所
我々は徒歩渡しする訳にいかず大井川橋へ。此の橋全長1,000m、やはり難所だ。

Navi52 大井川橋東交差点(左折) → <県道381号> → 東町交差点 1.0km
Navi53 東町交差点(左折) → <市道> → 日新工業(旧東海道標識) 0.2km

Navi54 日新工業(右折) → <市道> → 金谷一里塚跡 1.2km

大井川を渡ると、金谷側にも人足の番屋があった。八軒屋と云って公園になっている。
八軒屋を過ぎ、大井川鉄道の踏切を越えると、往還橋で大代川を渡って金谷宿に入る。

12:00~13:00「金谷宿」 01:40:00
 本陣3、脇本陣1、旅籠51軒、難所大井川を控えて大きな規模の金谷宿も今はひっそり。 
柏屋本陣跡はJA大井川 金谷支店になっていて、大きな木製の立札がある。

 

広重は「金谷 大井川遠岸」で、やっと川越を終えようとする大名行列を描いている。
山の中腹に望むのは金谷宿だ。
ちなみに「島田 大井川駿岸」では、大名行列の渡河準備の様子を描いた。

Navi55 金谷一里塚跡(左折) → <市道> → 旧東海道石畳入口 0.4km

Navi56 旧東海道石畳入口(右折) → <旧道> → 明治天皇御駐輦阯 0.8km

 

今日の街道めしは「meguri 石畳茶屋」、趣向を変えてカフェテラスでランチ。
"焼きたてパンとカレーセット" をヘルシーにいただいて、息子は "苺のタルト" を。

 金谷坂の石畳は、明治期に舗装されて面影は失われた。
1991年、町おこし事業「平成の道普請・町民一人一石運動」で江戸時代末期の姿に復元。
約7万1000個の滑らない「山石」を敷いた430mの石畳の道だ。
石畳の中腹には「すべらず地蔵尊」が祀られ、今では合格祈願の名所となっている。 

Navi57 明治天皇御駐輦阯(斜め右) → <市道> → 菊川坂標識 0.4km

Navi58 菊川坂標識(県道234号を横切り直進) → <旧道> → 菊川坂登り口標識 0.9km

Navi59 菊川坂登り口標識(斜め右) → <市道> → 四郡の辻標識 0.6km

13:25「間の宿菊川」 02:05:00
 菊川は中世に栄えた宿場で、源頼朝も宿泊したと云う。
東海道の宿場には指定されずに間の宿となり、茶屋本陣が置かれた。

Navi60 四郡の辻標識(左折) → <市道> → 事任八幡宮前交差点 4.7km

牧ノ原の茶畑の中、青木坂を登る。小夜の中山最大の急坂はきつい。
この辺りの茶畑は、幕府崩壊で窮乏した旧幕臣、大井川の架橋で失業した人足が開拓した。 

 
 

13:50「久延寺」 02:30:00
 息も絶え絶えに青木坂を登り詰めるとピークに久延寺、門前の桜が清々しい。
たった1軒残った峠の茶屋「扇屋」で名物子育飴をいただく。
大麦ともち米だけでつくられた、透き通った琥珀色が美味しい。疲れが引いていく。

 小夜の中山は、歌枕として古今集や新古今和歌集で謳われ、歌碑が点在する。
茶畑の緑が、南アルプスの白い峰々を遠景に美しい。がしかし、この下り坂もきつい。

 

日本橋から五十六里目の佐夜鹿一里塚跡、塚木は松と榎だったと云う。
あれっ、金谷一里塚は五十三番目。つまり五十四里目、五十五里目の一里塚は存在しない。

広重の日坂宿は佐夜の中山を描いている。この厳しい山道を巧みに表現している。
やがて沓掛坂と云われる七曲の急坂を下ると日坂宿に入って行く。

14:35「日坂宿」 03:15:00
 馬蹄形をした日坂宿に入って行く。本陣扇屋が四脚門を残している。
宿場の規模は本陣1、脇本陣1、旅籠33軒の最も小さな宿のひとつだった。 

 

問屋を務めた藤文、旅籠の萬屋、川坂屋が残る。家々は屋号を掲げ、往時を偲ばせる。

 

京方の木戸跡に高札場が復元されている。秋葉山常夜燈に見送られて日坂宿を後にする。

Navi61 事任八幡宮前交差点(右折) → <県道415号~国道1号> → 本村橋交差点 4.3km

15:00「事任八幡宮」 03:40:00
 事任(ことのまま)八幡宮は、己等乃麻知比売命(ことのまちひめのみこと)を祀る遠江國一の宮。 
願いを「ことのままにかなえてくれる神」と、清少納言の枕草子にも書かれている。

Navi61-2 八坂IC交差点先(斜め左) 650mで県道415号に戻る

15:20「伊達方一里塚」 04:00:00
 伊達方一里塚は日本橋から五十七番目の一里塚。この辺りは伊達氏の知行地であった。 

Navi61-3 東山口小学校前(斜め左) 400mで県道415号に戻る

Navi62 本村橋交差点(斜め左) → <市道~県道37号> → 二瀬川交差点 4.0km

16:00「葛川一里塚」 04:40:00
 馬喰橋で逆川を渡ると葛川一里塚跡、日本橋より五十八里目、秋葉山常夜燈が建つ。 

 

創業200年の菓子処もちや、"振袖餅" が名物だが、さすがにこの時間では売り切れ。
代わりに 大福をパイ生地で包んだ "もちパイ" で一息、ここは現代の茶屋なのだ。

 

Navi62-2 酒処いろは先(左折) 100m

鉤の手に幾つも曲がる「新町七曲」、容易に敵を進入させないための構造だ。

Navi62-3 TAP予備校(右折) 100m

Navi62-4 秋葉山常夜燈(左折) この後、道なりに右折、左折して400m

「新町七曲」の途中に桝形が設けられている。ここに掛川宿東番所が置かれた。

Navi62-5 塩沢機械店(左折) この後、道なりに右折、左折して100m

Navi62-6 シミズ写真館(右折) 90m

Navi62-7 桂花園(左折)

16:35「掛川宿」 05:15:00
 宿並に入ると右手にお城を模した信用金庫が見えてくる。
その先連雀交差点から右奥に勇壮な構えの掛川城大手門、掛川桜は未だ蕾のようだ。

掛川宿の規模は本陣2、旅籠30軒、残念ながら宿場を偲ばせる旧い遺構は残っていない。
連雀西交差点の東西に在った本陣、西側の沢野屋本陣跡はなんと屋台村になっている。
中町交差点の清水銀行には、山内一豊と千代、持参金で買った名馬のレリーフがある。 

 島田宿を遅く発った春の日、越すに越されぬ大井川を渡って金谷宿へ、
いにしえの歌人が和歌に謳った小夜の中山、登り下りして日坂宿を巡り、
東海道を歩く第11日目は掛川宿まで所要5時間15分、旅路は駿河から遠州に入った。

島田宿~金谷宿~日坂宿~掛川宿 17.4km


東海道紀行10 丸子宿~岡部宿~藤枝宿~島田宿

2019-03-03 | 東海道紀行

07:30「丸子宿」 00:00:00(所要時間) 
 未明から新東名を飛ばし、藤枝駅に車を駐めて、始発の路線バスに揺られて来た。
"東海道を歩く旅" 第10日目は、とろろ汁の丁子屋をスタートして宇津ノ谷峠を越える。
高札場があった丸子橋辺りは、河津桜が満開になっている。 

 
Navi45-5 丸子橋(左折)  


Navi45-6 赤目ヶ谷おはやし歩道橋でR1を渡って300m後、R1と130m重複  


Navi45-7 宇佐美・丸子SS(右折)  240m後、R1と800m重複


Navi45-8 道の駅宇津ノ谷峠(左折)  

 
Navi45-9 村中橋(左折) 旧道を1.5kmで県道208号に戻る  

 

08:20「宇津ノ谷峠」 00:50:00
 トンネルを穿つ国道1号線を横目に、東海道(県道208号)は右手に逸れて丸子川を遡る。
村中橋から宇津ノ谷集落を抜けると峠道に分け入る。入口には二体の馬頭観音が佇んでいる。 

 

昼なお暗い宇津ノ谷峠、黙阿弥の『蔦紅葉宇都谷峠』では殺人現場である。
この峠は天正十七年(1589年)、小田原攻めに際して軍用道路として秀吉が開削した。 

ところで広重は岡部宿の図として、宇津之山を題材にしている。
山中、東海道と蔦の細道(東海道以前の峠越えの道)の追分を描いたものだ。 


Navi45-10 廻沢口交差点(右折)

 

削られた崖上に十石坂観音堂が見える。この辺りに岡部宿の江戸方木戸があった。 


Navi45-11 三星寺(右折) 旧道を170mで県道208号に戻る 

09:15~09:55「岡部宿」 01:45:00
 内野本陣跡の隣地に大旅籠柏屋がある。天保七年(1836年)の建物だそうだ。
季節がら、年代物のひな飾りが展示されていて華やいだ雰囲気になっている。 

柏屋の客間は2階に二間、男女別相部屋だったそうだ。
ここで思いがけず弥次喜多と再会。彼らはすでにひと風呂浴びて一杯やっていた。 

旅籠27軒と比較的小規模な岡部宿だが、本陣と脇本陣は2軒ずつあった。
この先の大井川が川止めになるとここ岡部まで混雑したと云うから、そんな関係だろうか。 


Navi45-12 初亀醸造(左折) 旧道を800m 岡部支所前交差点で県道208号(県道81号に重複)に戻る

火の見櫓が立つ初亀醸造前から旧道に入る。この家並みは宿場を感じさせる風情だ。 

岡部支所前交差点で県道208号(県道81と重複)に戻る。この辺り、松並木の痕跡が残る。 


Navi45-13 内谷新田交差点(斜め右) 仮宿交差点まで1.0kmを県道81号と重複

 

横内橋で朝比奈川を渡る。旧横内村は岐阜の岩村藩の(ずいぶんな)飛び地であった。
橋の東詰には横内陣屋が設置され、代官が派遣されていた。 


Navi45-14 仮宿交差点(直進)


Navi45-15 八幡橋南詰(右折)


Navi45-16 DCMカーマ前T字路(右折)


Navi46 水守交差点(直進100m)しずおか信金(左折) → <市道> → 瀬戸新屋交差点 5.2km

水守の辺りは道路の付け替えで旧い道筋が消滅している。ガイドブックが無いと難しい。
右手に阿形吽形金剛力士像が構える成田山新護寺付近が東大木戸跡、番所が在ったと云う。 

 

藤枝宿に入ったら、白子商店街の「八千代そば本店」で今日の街道めし。
昭和風情の老舗は80代と思われる店主と息子さん?で切り盛りしている。
一見冴えないこの手のお店、味は確かな場合が多い。 まずはビールとジンジャエールで乾杯。
私は "ざる" を、息子は "鴨南"。どちらも550円と値段も昭和風情。勿論味もgoodだ。 

11:15~12:15「藤枝宿」 03:45:00
 長さ2kmの宿並に、本陣2、脇本陣0、旅籠37軒の藤枝宿は駿河では有数の規模を誇る。
東西の木戸と田中城の入口大手口には番所が設けられ、宿場の警備に当たっていた。  

問屋場は2軒設けられ、上伝馬町では江戸への、下伝馬町では江戸から京都への荷物を扱った。
広重の藤枝宿の図は、「人馬継立」として問屋場の賑わいを描いている。 

 

12:30「志太一里塚」 04:00:00
 西大木戸を抜けると勝草橋で瀬戸川を渡って、藤枝宿を出て行く。
橋の西詰には、日本橋から50番目になる志太一里塚が在ったことを碑が示している。
隣に建つのは秋葉山常夜燈だ。 


Navi46-2 青木交差点(直進)


Navi47 瀬戸新屋交差点(斜め右) → <県道222号> → 一里山交差点 2.6km

 

 瀬戸新屋からの県道222号は緩やかな蛇行が続き、ここが東海道であったことを実感させる。
やがて右手に "喜久酔" の青島酒造さん、酒蔵は街道の「華」と云える。 

この蛇行する道沿いにも、ところどころで松並木の遺構を見ることができる。
暑い夏日には日除けを、寒い冬日には風除けを、旅人に与えたことだろう。 


Navi48 一里山交差点(斜め左) → <県道381号> → 御仮屋交差点 2.6km


Navi48-2 六合駅入口交差点(斜め右) 旧道を550mで県道381号に戻る


Navi49 御仮屋交差点(斜め左) → <県道34号> → 大井川橋東交差点 4.3km

 御仮屋交差点から、島田駅方面への標識に沿って県道34号線に入る。
道が緩やかに左カーブする本通り七交差点辺りが東木戸跡。枡形になっていたと云う。 

14:20「島田宿」  05:50:00
 島田宿の規模は本陣3、旅籠48、問屋場1軒。藤枝宿と同様、何故か脇本陣がない。
東海道最大の難所大井川を控えて繁盛した島田宿。最大28日間の川留めの記録が残る。
「五月雨の 空吹き通せ 大井川」、俳人松尾芭蕉も川留めに遭い、ここに4日間逗留している。  

 おび通り時計台が下本陣跡、天野呉服店が中本陣跡、ホテル三布袋が上本陣跡になる。
三つの本陣が並んだ絵は壮観だったろう。
河津桜咲く丸子宿から、宇津ノ谷峠を越え、弥次喜多と再会した岡部宿、藤枝宿を経て、
東海道を歩く第10日目は島田宿まで所要5時間50分の旅。次回は難所大井川を渡る。

丸子宿~岡部宿~藤枝宿~島田宿 23.1km 

 


東海道紀行9 興津宿~江尻宿~府中宿~丸子宿

2019-01-13 | 東海道紀行

06:50「興津宿」 00:00:00
 相模灘に陽が昇る。未明から東名高速道路を飛ばしてきた。
暫くは、ドライブ+街道歩き+ドライブのハードな時期そして区間になる。
"東海道を歩く旅" 第9日目は、JR興津駅からスタートする。 

 

興津宿に旧い遺構は残っていない。
案内板が建つ興津宿公園向かいの割烹旅館岡屋は、街道時代の旅籠がその前身と云う。 

宿場は名刹清見寺の手前まで。
清見寺和尚は今川氏の人質として駿府に過ごした時代の教育係だったとか。
その縁で、大御所として駿府に隠居した晩年には、度々ここに来遊したと云う。 

Navi37-2 (静清バイパスガード下)波多打川橋西詰(左折)  400mで国道1号に戻る 

Navi38 辻町交差点(斜め右) → <市道> → 清水江尻郵便局 1.5km 

 

07:45「細井松原」 00:55:00
 辻交差点から延びる道は、100本を越える細井の松並木であったことを碑が伝える。
その先500mほどで、辻一里塚跡、そして東木戸跡を経て江尻宿に入って来た。
白壁の蔵と格子戸の旧家が宿場の雰囲気を醸している。 

Navi39 清水江尻郵便局(右折) → <清水銀座通り> → 魚町交差点 0.4km 

08:10「江尻宿」 01:20:00
 松平信康(家康の長男)の墓所・江浄寺を鉤の手に折れると清水銀座商店街に入る。
駿河國では府中(静岡)に次いで大きな宿場であったと云う宿場の中心地になる。  
本陣3、脇本陣3、旅籠50軒の賑わいも、今では少々閑散とした様子だ。 

江尻宿は大坂江戸航路の中継基地・清水湊を擁し、船手奉行が置かれて発展した。
広重が描いた江尻の風景は、三保半島を背景に帆かけ舟で賑わう清水湊だ。

Navi40 魚町交差点(左折) → <県道75号線> → 入江2丁目交差点 0.3km 

ふたたび鉤の手を折れると巴川を稚児橋で渡る。子河童のモニュメントが可愛らしい。 

Navi41 入江2丁目交差点(右折) → <市道> → しずおか信金御門台支店 3.0km 

久能道追分に道標が建ち、「是より志三づ道」とある。
紅いシャッターの追分羊羹は元禄八年(1695年)創業の老舗。道中食として人気だった。 

Navi42 しずおか信金御門台支店(右折) → <県道407号線> → JA静岡市 国吉田支店 2.6km 

09:00「草薙一里塚」 02:10:00
 県道407号線と合流すると直ぐに草薙一里塚跡。
日本橋から四十二番目の塚木は榎、塚脇には高札場があったと云う。 

 日本武尊を御祭神とする草薙神社、その大鳥居が見えてきた。
この地で賊に襲われ火を放たれた時、剣で草を薙いで難を逃れたと云う。 

Navi43 JA静岡市 国吉田支店(左折) → <市道> → 春日一丁目交差点 4.0km 

Navi43-2 静岡鉄道県総合運動場駅手前(左折)  240m 

Navi43-3 旧東海道記念碑でJR用地で先を塞がれたら、北村地下道で渡り、延長線上の道を行く 1.1km 

Navi43-4 古庄交差点(左折)  200mを国道1号線

Navi43-5 長沼交差点(斜め右)  静岡鉄道線沿いを1.1kmで国道1号に戻る 

10:05「静岡縣護國神社」 03:15:00
 長沼一里塚を過ぎると静岡鉄道線の反対側に静岡縣護國神社の杜が見えてきた。
維新以降の静岡所縁の殉国者を祀った神社は、少々遅めの初詣客が訪れている。
参道もフリーマーケットでアンティークを並べた露店と冷やかす客で賑わいを見せる。  

Navi43-6 柚木交差点(左折)  小鹿通りを260m、JR線アンダーパスを潜る 

Navi43-7 JR線アンダーパスを潜ったら階段を上がり左折 260m 

 

Navi43-8 曲金五差路(右折)  途中JR線アンダーパスを潜って350m 

Navi44 春日一丁目交差点(直進) → <市道> → 安倍川橋東詰 3.8km 

国道1号線の春日町一丁目交差点が東見附跡、ここから3.6kmが府中宿になる。
静岡の中心部に向けて徐々に賑やかになる伝馬町通り、2軒の本陣もこの通りに在った。 

Navi44-2 江川町交差点(斜め左)   江川町通りを170m 

Navi44-3 呉服町交差点(右折)  呉服町通りを300m 

11:05~11:45「府中宿」 04:15:00
 鉤の手を2つ曲がった呉服通りは歩行者天国になった静岡の中心街になっている。
府中宿の規模は本陣2、脇本陣2、旅籠43、問屋場1軒。ほかに貫目改所が設けられていた。 

ちょっと寄り道をして駿府城巽櫓、この日はちょうど静岡市消防出初式の真っ最中。 
はしご乗り・纏演技、隊員・車両部隊の分列行進、一斉放水が披露されたようだ。 

しばし弥次喜多と与太話を愉しむ。ちなみに十返舎一九はここ府中の生まれである。 

Navi44-4 札之辻交差点(左折) 七間町通りを400m 

Navi44-5 エンブルタワー七間町先(右折) 210m 

Navi44-6 梅屋町郵便ポスト手前(左折) 新通りを1.3km 

Navi45 安倍川橋東詰(直進) → <県道208号> → 藤枝市水守交差点 16.8km 

4つめの鉤の手を曲がると新通りを真直ぐ1.5kmで安倍川に達する。
橋手前の「石部屋」は文化元年(1804年)に創業した "安倍川餅" の老舗なのだ。 

大御所の隠居地駿府を控え、防衛上の観点から安倍川も徒歩渡しだった。
渡し船は禁止され、旅人は着物をまくりあげて浅瀬を渡るか、人足の肩車か蓮台で渡った。

広重の府中宿の図は、安部川を渡る旅人の様子を克明に描いている。 

Navi45-2 手越原交差点(右折) 国道1号線と230m重複 

Navi45-3 佐渡交差点(左折)

Navi45-4 丸子交番前(右折) 

13:05「丸子宿」 05:35:00
 安倍川を渡り、宇津ノ谷峠に向かう丸子川沿いに針路を西に転じると丸子宿に入る。
その規模は本陣1、脇本陣2、旅籠24軒と東海道中では最も小さい宿場のひとつと云える。 

「梅わかな 丸子の宿の とろろ汁」と芭蕉が詠んでいる。広重も描いている。
弥次喜多は膝栗毛の中で、茶屋の夫婦喧嘩の巻き添えに遭い、食い逃している。
それほどに "とろろ汁" の丁子屋は街道でも著名な茶屋であった。 

 

今回の街道めしは、趣ある茅葺き屋根の茶屋で江戸風情たっぷりに "とろろ汁" を食す。
地産の在来自然薯を使った白味噌仕立てのとろろ汁、ほんのり甘くて美味しいのだ。

夜明けの興津宿を発って、見どころ少ない道中を快足飛ばして次郎長親分の江尻宿へ。
鉤の手を何度も折れた府中宿で弥次喜多と与太話、餅は我慢して安倍川を渡って丸子宿。
東海道を歩く第9日目は "とろろ汁" で〆て所要5時間35分の旅。次回は宇津ノ谷峠を越える。

興津宿~江尻宿~府中宿~丸子宿 20.2km 


東海道紀行8 吉原宿~蒲原宿~由比宿~興津宿

2019-01-07 | 東海道紀行

09:35「吉原宿」 00:00:00
 居並ぶ製紙工場の煙突越し、間近に富士を仰ぎ見る吉原宿。
新吉原宿町割りの基準となった天神社から "東海道を歩く旅" 第8日目をスタートする。 

 

先日 "富士つけナポリタン" を食した喫茶アドニスの角で左折する。
生活道路の様だけど、れっきとした県道だ。
 

Navi25-2 磯野工業所(右折) 

Navi26 錦町北交差点(左折) → <国道139号> → 錦町交差点 0.1km 

Navi27 錦町交差点(斜め右) → <市道> → 高島五差路 0.6km 

 

国道139号線が上書きした関係で、直線であった筈の旧街道は左折右折と繰り返す。
錦町交差点は吉原宿の西木戸跡、標柱に示された地図が分かり易い。 

Navi28 高島五差路(斜め右) → <県道396号> → 富士川橋西交差点 5.2km 

Navi28-2 高島五差路より0.2km先(右折)  旧道を1.5Km 本市場五差路手前で県道396号に戻る 

Navi28-3 本市場五差路(左折)  旧道を1.5Km JR柚木駅手前で県道396号に戻る

Navi28-4 橋下六差路160m先秋葉山常夜燈(右折)  旧道を0.5Kmで県道396号に戻る 

10:45「富士川橋」 01:10:00
 6連のトラス橋が見えてくると右手に治水・渡船鎮護水神社がある。
天下に聞こえた急流富士川の渡船場は3カ所設けられ、うちひとつが神社のたもとにあった。 

富士川の舟運は「下り米、上り塩」と云われ、甲信地方と東海道を結ぶ流通の大動脈であった。

橋上から右手を振り返る。左右に裾野を広げた見事な富士山を堪能できる。

Navi29 富士川橋西交差点(斜め左) → <県道188号> → 富士川郵便局手前 1.5km 

富士川の河岸段丘を這い上がると間の宿・岩淵は、渡船業務と水運で繁栄した。
安政大地震後に建てられた常盤家は国有形登録文化財、大名が休憩した茶屋本陣だ。 

 

11:05「岩淵一里塚」 02:00:00
 日本橋から三十七番目になる岩淵一里塚は両塚が健在だ。
西塚の榎は塚を崩さんばかりの巨木、東塚の榎は昭和42に植え直した二代目になる。
この辺りには、岩淵名物「栗ノ粉餅」を売る茶店が立ち並んだとされる。

Navi30 富士川郵便局手前(右折) → <市道> → 清水区蒲原 富士屋マート前 4.0km

Navi30-2 東名高速道路を潜って右折

Navi30-3 富士・静岡市境を左折 東名高速道路を越える

Navi30-4 突き当たりT字路を右折

11:50「蒲原宿」 02:15:00
 蒲原一里塚跡の標柱を過ぎると枡形の名残が現れる。ここが蒲原宿の東木戸跡。
木戸内1.2kmの小さな宿場は、本陣1、脇本陣3、旅籠42軒、問屋場1軒の規模だ。

商家「佐野屋」の佐藤家は土壁で覆った塗り家造り、なまこ壁が美しい。

和泉屋は天保年間に造られた上旅籠、木造2階建、切妻、桟瓦葺に旅籠の面影が残る。

和泉屋の向かい側に平岡本陣跡、建物は大正時代のものになる。

さて、広重は蒲原宿を「夜之雪」に描いている。
この地方に大雪が降った記録はないそうだ。絵師の想像力か、それとも何かの暗示か。

Navi35 清水区蒲原 富士屋マート前(右折) → <県道396号> → (由比町)寺尾歩道橋 5.4km

Navi35-2 神沢交差点(斜め左) 由比駅先で県道396号に戻る

蒲原宿から由比宿まではちょうど一里。街道当時は望めた相模灘は東名の高架で見えない。
日本橋から三十九番目、由比一里塚を過ぎると東木戸跡、ここからが宿内だ。

12:55「由比宿」 03:20:00
 由比宿は本陣1、脇本陣1、旅籠屋32、問屋場2軒の小さな宿。
100人・100疋の駅伝馬の負担が重く、しばしば幕府に軽減を願い出たと云う。
 

 

岩辺本陣跡は公園に整備され、東海道廣重美術館になっている。
水路には亀たちが陽気に誘われ甲羅干し中、置物かと見紛ってしまう。

本陣跡正面の正雪紺屋では、藍染用のかめ(亀と掛けてはいない)や染物用具をが残る。
ここは幕府転覆を企てた由比正雪の生家と云われる。

西木戸跡を過ぎ宿並みを抜けると由比川を渡る。往時は架橋、増水時は徒歩渡しだった。 

さらに和瀬川を渡ると左手に由比漁港、通り沿いには桜えびの問屋が並んでいる。 

Navi36 由比町寺尾歩道橋(右折) → <市道> → 興津中町東交差点 6.0km 

寺沢歩道橋から右手に入った旧道は、右手に山が迫る細道になる。
薩埵峠登り口のこの辺りは間の宿・西倉沢、格子や蔀戸の家々が並んで情緒たっぷりだ。  

 

13:30~14:20「間の宿・西倉沢」 03:55:00 
 今回の街道めしは「桜えび・磯料理 くらさわや」で。
ほどよく冷えて清涼感がある "正雪にごり酒" は由比宿東木戸外の神沢川酒造の酒。
艶やかなご飯の "桜えび釜飯"
 は桜えびの甘味とおこげの香ばしさで実に美味しい。 

 

Navi36-2 由比一里塚跡Y字路を右 

 

Navi36-3 薩埵峠駐車場入口を左折~東海自然歩道へ 

 

14:50「薩埵峠」 04:25:00
 山が崖となって駿河湾に落ち込む狭隘な空間に日本の大動脈が行き交う。
東海道本線に国道1号線、東名高速道路が延びる先に霊峰富士。なんとも圧巻の風景だ。 

広重が描いた由比宿「由比薩埵嶺」に図はまさにこの風景だ。白い帆かけ舟が美しい。 

カメラの砲列を抜けて蜜柑がなる東海自然歩道を往く。 

相模湾を隔てて細く延びるのは伊豆半島、その先太平洋が広がる。 

Navi36-4 JR興津駅案内板を右折 280m 

Navi36-5 JR興津駅案内板を左折 240m 

Navi36-6 JR興津駅案内板を左折 350m 

Navi36-7 JR興津駅案内板・郵便ポストを左折 500m 

Navi36-8 興津川橋東詰を右折 700m 

興津川橋を渡る。冬至の弱々しい陽も、正面から浴びると眩しい。
旅人は川会所で「越し札」を求める。水嵩がひざ下だと12文、脇下だと42文。
川越しの方法は肩車、女性が東海道を嫌った理由の一つ。蓮台に乗ると料金は4倍だ。 

Navi37 興津中町東交差点(直進) → <国道1号> → (清水区)辻町交差点 5.6km 

 

街道は国道1号線に上書きされると興津の市街地に入って往く。
右手の宗像神社は平安中期の創建、海上安全の守護神興津島姫を祀っている。
神社の杜は「女体の杜」と云って、沖に出た漁師の目印になった。 

 

15:45「興津宿」 05:20:00
 興津中町西交差点は身延道との追分、常夜燈や道標が建っている。
興津駅前交差点は日本橋から四十一番目の興津一里塚跡、国道1号線の165kmポストがある。
本陣2、脇本陣2、旅籠34、問屋場2軒の興津宿の江戸方入口は間もなくだ。

吉原宿から霊峰富士を仰いで蒲原宿、由比宿で桜えびを堪能、薩埵峠を越えて興津宿。
駿河湾に沿った第8日目の行程は5時間20分、次回は府中(静岡)を抜け丸子で "とろろ汁" かな。

吉原宿~蒲原宿~由比宿~興津宿 24.1km

 


東海道紀行7 沼津宿~原宿~吉原宿

2018-12-25 | 東海道紀行

 沼津の狩野川河口から田子の浦港まで、駿河湾に沿って続く「千本松原」です。
"東海道を歩く旅" 第7日目の行程は、この松原を辿り、富士の姿を大きくしていく。 

09:55「沼津宿・高田本陣跡」 00:00:00
 火災と戦災で旧い遺構は残っていない沼津宿。
本陣3軒並んでいた本町通りは、シャッター商店街の様相を呈して閑散としていた。 

Navi21 通横町交差点(右折) → <県道160号~163号> → (富士市)東柏原交差点 10.9km

沼津は城下町らしく鉤の手が多い。
5つ目の通横町交差点を折れると、浅間神社を右手に見て、西見附から宿場を抜ける。

旧東海道は西高入口交差点で県道160号から163号に名称を変えるが直進だ。
八幡神社の石垣には「従是東」と刻まれた沼津藩領境榜示石が残る。
領域の境を示すこの榜示石、下半分の「沼津領」は無くなってしまっている。 

 

11:25「松長一里塚」 01:30:00
 ひたすら単調な直線を往く。日本橋から三十一番目、松長一里塚跡には真新しい碑が建つ。 

 

臨済宗妙心寺派の祥雲寺、境内には大松が斜めに聳えている。
樹齢どれくらいになるのだろう。街道を往来する旅人の目についたであろう。
間もなく東海道本線の踏切を渡る(原踏切)と原宿の東木戸(見附)跡になる。

 原宿と云えば白隠禅師が著名。
諸国の行脚修業を重ね京都妙心寺の第一座になった後、故郷は松蔭寺の住職となった。
修行僧を指導するとともに東海道を往来する大名にも教えを説いたと云う。 

11:20「原宿」 01:25:00
 宿場らしい面影が残っていない原宿。原交番東交差点あたりが宿場の中心地だった。 
浅間神社前に高札場があり、向かい側に渡邊本陣と問屋場が並んでいた。
その規模は本陣1、脇本陣1、旅籠25軒とこじんまりとした宿場だったらしい。 

西木戸(見附)跡近くの高嶋酒造は純米酒に拘った酒造りをしている。酒蔵は街道の華だ。
残念ながら日曜祝日はお休みだ。この蔵を最後に原宿を後にする。 

Navi22 東柏原交差点(斜め右) → <県道380号> → 檜交差点 2.2km

 原一本松一里塚跡には小さな碑が建つ、次の沼田新田一里塚は痕跡もない。
東柏原交差点で県道380号と合流する。海岸線(千本松原)通るため千本街道と呼ばれる。
海岸に出てみる何処までも続く松原と砂浜、分かつ堤防が続いている。
田子の浦ゆ うちいでてみれば 真白にそ 富士の高嶺に 雪は降りける」って覚えたな。

12:40「六王子神社」 02:45:00
 この辺りに三股淵生贄伝説が残っている。
3つの川の合流点の深い淵に棲んでいた龍に、毎年若い娘を生贄に捧げていた。
旅の巫女が人身御供にされ、残された連れの巫女が悲しみのあまり沼に身を投げたと云う。
あとを追った6名の巫女を祀ったのがこの神社だ。 

Navi23 檜交差点(左折) → <県道170号> → 富士信金吉原南支店 1.8km

13:15「毘沙門天妙法寺」 03:20:00
 高崎、深大寺と並ぶ「日本三大だるま市」のひとつ毘沙門天大祭が開かれる妙法寺。
本尊の毘沙門天は聖徳太子作と伝わる。振り返ると白妙の富士を望む。 

この地は江戸初期の吉原宿、延宝八年(1680年)の大津波で宿並は壊滅した。
2年後、宿場を移転して後、元吉原と呼ばれるようになった。 

Navi24 富士信金吉原南支店(右折) → <県道170号~171号> → 喫茶アドニス 3.5km

津波を避けた東海道は針路を北に転じて富士を正面に進む。ほどなく東海道本線の踏切。

河合橋交差点で県道170号から171号に替わって沼川を渡る。
製紙工場70がひしめく富士市、オレンジ色の煙突と立ち上る白煙がシェアを誇っている。

Navi24-2 鈴与富士支店前Y字路(斜め左)

Navi24-3 吉原駅入口交差点(直進) 100mほどR139と重複

Navi24-4 富士由比バイパス下Y字路(斜め左)

 

13:35「左富士神社」 03:40:00
 吉原宿の移転でこの辺りの旧東海道は北へ向かっている。
よって江戸を発って京へ向かう旅人は進行方向左側に富士を見ることになる。
左富士は名勝となり、広重は吉原宿の情景をこの「左富士」として描いている。 

続いて「名残の松」が左手に見える。広重が描いたうちの一本だろうか。

Navi24-5 平家越え橋東詰Y字路(斜め左)

13:45「平家越え橋」 03:50:00
 治承四年(1180年)の源平富士川の合戦、ここに平家が陣を張った。
水鳥の羽音に源氏の襲来と恐怖し、西へと潰走してしまった平惟盛の大軍勢。
貴族化した平家の醜態を見せたエピソードの地だ。 

 

吉原宿の東木戸跡を過ぎると岳南電車の吉原本町駅、ちょうど電車が出て往った。
駅裏の身代わり地蔵、昔、悪い眼病が流行った時にこの地蔵に願を掛けて完治した。
地蔵の目にはいっぱいの目やにが付いていたと云う話だ。 

14:05「吉原宿」 04:10:00
 吉原宿の宿並みはアーケードの吉原本町商店街になっている。
二度の移転でこの地に拓いた吉原宿は、本陣2、脇本陣3、旅籠60軒の規模であった。 

アーケードを一筋入ると天神社がある。吉原宿を形成する時に町割りの基準となった。 

 

「東海道表富士」は富士山専門のギフトショップ、富士山関連商品や地元の逸品販売する。
海抜0メートルからの富士登山道「村山登山道」の案内をしているそうだ。
「鯛屋旅館」は天和二年(1682年)創業の旅籠、今でもビジネス旅館として営業を続ける。
世紀の大親分清水次郎長、幕末の偉人の一人山岡鉄舟の常宿としても知られる。 

 

Navi25 喫茶アドニス(左折) → <県道22号> → 錦町北交差点 0.8km 

 

東海道が鉤の手に折れる角に「喫茶アドニス」はある。今回の街道めしをここで食す。
ご当地グルメ "富士つけナポリタン" は、トマトソース+鶏ガラのWスープに麺をつける。
もっちり太麺にトロけたチーズが絡んで美味い。息子絶賛。なんだが「呑み鉄放浪記」的。

沼津宿から千本松の駿河湾に沿って白隠禅師の原宿、名勝・左富士を実感して吉原宿へ。
小雨さえ降った沼津、昼過ぎには冬晴れが広がり富士を堪能した4時間10分の行程だった。
次回は富士川を渡って由比、興津あたりをめざす。薩堆峠からの富士山を楽しみだ。

沼津宿~原宿~吉原宿 17.6km 


東海道紀行6 箱根宿~三島宿~沼津宿

2018-12-09 | 東海道紀行

09:10「箱根宿」 00:00:00
 "東海道を歩く旅" 第6日目は、本陣はふや跡、箱根ホテルからスタートする。
気温2℃、芦ノ湖の空気は凛としている。今日は箱根峠を下って三島そして沼津をめざす。

Navi14-4 芦川入口バス停(右折)  旧道を800mでR1に戻る

箱根宿開設当時、狼退治に投入した二匹の犬を祀った駒形神社がひっそりと在る。
箱根関所を挟んだ宿並みはこの辺りまで続いていたと云う。

箱根で最も古い万治元年(1658年)建立の庚申塔、峠道入口の芦川石仏群だ。

向坂、赤石坂、釜石坂と石畳が続き、挟石坂が箱根峠に向かう最後の坂になる。

 

Navi14-5 箱根くらかけゴルフ場入口(左折)  旧道を260mでR1に戻る

09:45「箱根峠」 00:35:00
 ゴルフ場へと向かうアスファルトが東海道、150mほど急勾配を上ると箱根峠のピーク。
ここが相模と伊豆の国境になる。振り返ると眼下に広がる芦ノ湖。
広重の箱根宿図はここから富士を含めて広角に描いている。

100mほど下ると五差路になった箱根峠交差点。ツーリングのバイクの群れが颯爽と往く。

Navi14-6 芦ノ湖カントリークラブ入口(右折)  旧道を400m

Navi14-7 茨ケ平(斜め左)  旧道を350mでR1に戻る

箱根峠から三島まで延々と続く坂を総じて「西坂」と云う。
茨ケ平から入る甲石坂は箱根竹に覆われている。キセルの管に用いられた竹だ。 

Navi14-8 接待茶屋跡(斜め右)  旧道を1.3kmでR1に戻る

10:25「接待茶屋一里塚」 01:15:00
 国道1号を450mほど下ると接待茶屋跡の案内板から旧道に入る。
接待茶屋(人馬施行小屋)とは旅人や馬子たちの避難場所、旅人に粥、馬に煮麦が提供された。
そう云えば、中山道和田峠の江戸方にも同様の小屋が復元されていた。
日本橋から二十六番目の接待茶屋一里塚もこの辺りだ。 

甲石は、小田原攻めに向かう秀吉が、この岩の上に兜を置き一服したと伝わる。
元々は甲石坂にあったものが移設されている。

石荒坂、大枯木坂を下る。
石畳といっても平石ではない。川原の丸石を跳んで歩くが如く、きつい山下りなのだ。

Navi14-9 国道1号三島市標識(左折)  旧道を650mでR1に戻る

 

Navi14-10 国道1号108kmポスト(斜め右)  旧道を450mでR1に戻る

11:10「山中城跡」 02:00:00
 街道筋に石垣のない出城が史跡公園となっている。
迎え撃つ北条方が築いた山中城は、秀吉軍の総攻撃により半日で落城した。 

 

Navi14-11 山中城口交差点(直進)  旧道を600mでR1に戻る

山中城口交差点から入る石畳の旧道は工事中、やむなく国道1号線を迂回する。
茶畑を背景に富士の高嶺、山を下るにつれて裾野が見えてくる。

Navi14-12 三島スカイウォーク駐車場(左折)  市道を1.1km

11:55「笹原一里塚」 02:45:00
 上長坂は篠竹を敷いた道だったと云う。立場があって田楽や餅を商ったそうだ。
日本橋から二十七番目の笹原一里塚は南塚を残すが、すっかり見落としてしまった。
国道1号線を横切った下長坂を通称「こわめし坂」と云う。
あまりの急坂に、背負った米が汗と熱でこわめしになったの謂れに因る。
アスファルト道路だが確かにきつい。原付では上れないのではないだろうか。

Navi14-13 天神社(直進)  旧東海道を1.2km

旧東海道(旧国道1号線)を下っていく。三島市街と鈍く光る駿河湾が見えている。

Navi14-14 坂公民館入口(直進)  市道を160m

Navi14-15 坂幼稚園(斜め右)  題目坂を下る

Navi14-16 市の山新田交差点(右折)  旧東海道を1.7km

Navi14-16-1 箱根旧街道道標(斜め右)  臼転坂250m

 

臼が転がるほどの坂で臼転坂、緩やかな石畳の道が250mほど残っている。

Navi14-17 箱根路の碑(直進)

13:00「錦田一里塚」 03:50:00
 国道1号線に戻って伊豆縦貫自動車道をオーバーパスすると錦田一里塚が在る。
日本橋から二十八番目となる一里塚、榎を生やした両塚が残っている。

Navi15 五本松交差点(斜め左) → <市道> → 東海バス車庫 600m

Navi16 東海バス車庫(直進) → <県道22号> → 三島広小路 1.7km

晒し場があった大場川を新町橋で渡ると東見附跡、ここから三島宿に入って往く。

広重は三島宿図を朝靄の三嶋神社鳥居を描いている。
鰻が名物の門前は、朝靄ならぬ香ばしい匂いがたちこめていた。 

大山祇命と積羽八重事代主神の二神を御祭神とする三嶋大社は伊豆國一宮。
伊豆に流された源頼朝が深く崇敬し、源氏再興の百日祈願をしたところでもある。
 

13:55~15:00「三島宿」 04:45:00
 三島宿の中心は本町交差点辺り。山田園茶舗には樋口本陣の案内板がある。
向かい側(北側)には世古本陣があった。宿場の規模は本陣2、脇本陣3、旅籠74軒だ。

 

三島広小路駅付近が西見附、江戸時代には火除けの土手が築かれていた。
いかにも旧い広小路食堂で街道めし、70代?くらいのお婆ちゃんが切り盛りする。
枝豆とサッポロ黒ラベルで "タンメン" が運ばれるまで結構待った。その分美味しさが増す。

Navi17 三島広小路(直進) → <県道145号> → 東下石田交差点 3.3km

15:25「伏見一里塚」 05:10:00
 三島宿を発って1kmほど、千貫桶(境川)は伊豆と駿河の国境となる。
更に0.5km先、日本橋から二十九番目の伏見一里塚、北側玉井寺の塚は原形をとどめる。 
南側宝池寺の塚は復元したものだ。

 

Navi18 東下石田交差点(左折) → <県道380号> → 大手町交差点 2.2km

Navi18-2 西友沼津店先(斜め左)  市道を750mで380号線に戻る

16:05「沼津日枝一里塚」 05:50:00
 日本橋から三十里目の沼津日枝一里塚、実は伏見一里塚から3.2kmしか離れていない。
これは沼津宿内に一里塚を築くのを避けたことによる。

 

Navi18-3 川廓通り道標(斜め左)  市道を270m

Navi19 大手町交差点(左折) → <県道159号> → 通横町交差点

16:20「沼津宿」 06:05:00
 川廓通りで沼津城(三枚橋城)の東から南へ舐める様に歩いて宿場の中心へ出る。
広重の描いた沼津宿図は、三枚橋を遠景とした鹿野川の黄昏の情景。
城下町らしく3度鉤状に角を巡って清水本陣跡、広重の絵図のとおり黄昏の宿着だ。 

Navi20 通横町交差点(右折) → <県道160号> → 浅間町交差点 0.5km

Navi20-2 肉の子安前(左折) 270m

沼津宿の規模は本陣3、脇本陣1、旅籠55軒、火災と戦災で旧い遺構は残っていない。
本陣3軒並んだ本町通り、シャッター商店街の様相を呈して閑散としていた。
東海道を歩く第6日目は、箱根峠からの西坂を、石畳の旧道と国道1号線で下りてきた。
箱根宿から伊豆國の三島宿、さらに駿河國の沼津宿まで、6時間05分の行程となった。
次回からは駿河湾に沿って西進する。富士山はどんな表情を見せてくれるだろう。

箱根宿~三島宿~沼津宿 20.6km


東海道紀行5 小田原宿~箱根宿

2018-12-01 | 東海道紀行

09:30「小田原宿」 00:00:00
 "東海道を歩く旅" 第5日目は、小田原城箱根口門跡からスタートする。
天守閣の白壁が初冬の青空に映えている。気温は低め、峠越えには絶好の日和だ。

      

 大久保氏の治世で再興した小田原は、箱根の峠と関所を控えて大いに賑わったと云う。
現在の小田原にその面影が皆無なのは、関東大震災とそれに起因した大火に因る。
早川口の消防署に大きな小田原提燈を見て、次の板橋見附交差点までが宿内だ。 

Navi12-8 板橋見附交差点(斜め右)  旧道を750mでR1に戻る

 

旧道を往くと右手に板橋地蔵堂が在る。境内には集められた石仏群が祀られている。
箱根登山鉄道のガードを潜ると、上板橋交差点でR1に戻る。

 

Navi12-9 君田島踏切(斜め右)  旧道を1.7kmでR1に戻る

Navi12-10 交通安全・箱根町看板(斜め右)  旧道を500mでR1に戻る

Navi13 三枚橋交差点(左折) → <県道732号> → 元箱根港 10.9km

10:50「白山神社」 01:20:00
 三枚橋で早川を渡って旧東海道(県道732号)に入る。とっいきなり急坂のごあいさつ。
今となっては湯本温泉の裏通りを往くと白山神社が在る。この権現様は温泉の守護神だ。

11:05「湯本茶屋一里塚」 01:35:00
 湯本茶屋一里塚は日本橋から二十二番目。その先、馬子たちが一休みした馬立場。
馬の飲み水桶から左手に下る「猿沢石畳」、先行する欧州からのカップルを越して往く。

 

Navi13-2 猿沢石畳(斜め右)  旧道を280m

だらだらとした登り道を3kmほど県道を往く。須雲川を渡ると「女転ばし坂」。
なにやら物騒な名前だが、旅の女性が落馬して死亡した事故ことに因んでいると云う。

 

Navi13-3 割石坂(斜め右)  旧道を280m

      

いよいよ本格的な石畳が登場。「割石坂」には江戸時代の石畳が残る。
曾我兄弟仇討に向かう途中、路傍の大石を試し斬りしたことが名称の由来だ。 

Navi13-4 大沢坂(斜め左)  旧道を600m

 「大沢坂」は坐頭転がし坂とも云われる。
丸石に苔むした石畳は往時を偲ばせてくれる。が、足が滑ることこの上ない。

 

左手に道祖神が現れて県道に戻ると畑宿、間の宿として栄え、茶屋が軒を連ねた。
茗荷屋は茶屋本陣を務めた。明治天皇御駐蹕之碑跡がある。

Navi13-5 畑宿バス停(斜め左)  旧道を290m

12:15「畑宿一里塚」 02:45:00
 軒を連ねる茶屋の外れに畑宿一里塚、日本橋から二十三里目になる。
山中の一里塚は修復を加えつつ両塚が残っている。
直径五間の円形に石積みを築き土を盛った北塚はモミ、南塚はケヤキが植えられる。

Navi13-6 橿木坂(斜め左)  旧道を1.2km 

12:40~13:30「見晴らし茶屋」 03:10:00
 『けわしきこと道中一番の難所なり』とされた「橿木坂」は確かにキツイ。
見晴らし茶屋まで登ると足がブルブル、汗だくだ。
それにしても見事な紅葉と、小田原市街と相模灘の眺望に暫し見惚れてしまう。

 

 行程半ばの見晴らし茶屋で一息。息子のサイダーと乾杯、冷えたヱビスを呷る。
今日の街道めしは "天せいろ"、コシのある蕎麦とカラッと揚がった海老天が美味い。
素朴な田舎の蕎麦ではなく、どちらかと云うと都会の洗練された名店の蕎麦って印象だ。

 

「猿滑坂」を往く。『殊に危険、猿候といえども、たやすく登り得ず』が坂の名の由来。

Navi13-7 追込坂(右折)  旧道を650m

 

13:55「甘酒茶屋」 03:35:00
 猿滑坂から県道に戻って数分、今度の「追込(ふっこみ)坂」は緩やかな登り坂。
甘酒茶屋は江戸初期の創業、萱ぶき屋根と囲炉裏が燻す匂い、江戸時代の風情が愉しい。

甘酒茶屋を過ぎて「於玉坂」を往く。緩やかな登り坂だ。街道はやがて県道を横断する。

Navi13-8 白水坂(直進)  旧道を1.3m

県道732号を横断すると「白水坂」を往く。
皇女和宮の降嫁に際して改修された整った石畳、排水の設備も整っている

途中、展望広場から箱根のシンボル二子山を望むと箱根宿も近い。

「天ケ石坂」を登り切ると鈍くかがやく芦ノ湖が見える。
湖畔に向かって飛び込んでいく石畳は「権現坂」だ。
興福院では台湾のお嬢さんたちがスマホで撮影会中、アニメかドラマの聖地なのだろうか。 

Navi14 元箱根港(左折) → <国道1号> → (沼津)五本松交差点 15.4km

 朱の大鳥居で国道1号線と合流する。
元箱根港の桟橋に立つと芦ノ湖の奥に雪を被った富士の高嶺が覗く。凛として美しい。

 

Navi14-2 葭原久保一里塚(斜め左)  旧道を550m

15:05「葭原久保一里塚」 04:45:00
 湖岸を往くと葭原久保一里塚、日本橋からは二十四里目になる。
ここから箱根杉並木に入る。元和四年(1618年)に川越藩主によって植林されたものだ。

Navi14-3 恩賜箱根公園駐車場(右折)  旧道を300m

「入鉄砲と出女」を取り締まる箱根関所、中山道の碓氷、福島と並ぶ重要な関所だ。
江戸口京口の両門、それに大番所と足軽番所が復元されている。 

15:25「箱根宿」 05:05:00
 箱根関所を無事抜けると箱根宿に入る。その規模は、本陣6、脇本陣0、旅籠36軒だ。
湖畔のリゾート箱根ホテルが「本陣はふや」の跡地になる。
東海道を歩く第5日目は、四里八町の登り坂、意外と歩き辛い石畳に手こずった。
小田原から天下の険を登って芦ノ湖畔の箱根宿まで、5時間05分の行程となった。

小田原宿~箱根宿 16.5km

 さて、今宵は我々も旅籠泊まり。ひと風呂浴びたら男同士で卓を囲む。
酒を酌み交わすのは未だ数年先のことだけど、ジュースと乾杯だって愉しい。 

 
 

"箱根もちぶたと箱根西麓野菜の土鍋蒸し" で腹を満たしたら、いつのまにか高いびき。
明日は伊豆國一宮三嶋大社へ、そして沼津宿をめざす。暫くは富士と駿河湾が道連れだ。

 


東海道紀行4 大磯宿~小田原宿

2018-11-23 | 東海道紀行

08:30「大磯宿」  00:00:00
 東海道を歩く旅第4日目、気温はひんやりと下がったが、幸い青空が広がった。
今回はやや短い距離になるが、大磯宿から小田原宿まで、湘南海岸を往く。 

尾上本陣裏の地福寺、島崎藤村・静子夫妻の墓がある。晩年をこの地で過ごした。 

情緒ある佇まいは「鴫立庵」、この辺りを吟遊した西行を偲んで創建された俳諧道場だ。 

裏手の「こゆるぎの浜」に出ると、小田原から伊豆半島へと流れる海岸線が見渡せる。 

上方見附跡から松並木が続く。伊藤博文、山県有朋らがこぞって別荘を建てた辺りだ。 

Navi12-3 城山公園前交差点(右折)  旧道を1.3kmでR1に戻る

09:20「国府本郷一里塚」 00:50:00
 日本橋から十七番目の国府本郷一里塚、案内標柱には実際には200mほど江戸寄とある。   

Navi12-4 吾妻神社交差点(斜め右)  450mでR1に戻る

10:05「藤巻寺」 01:35:00
 樹齢400年になる藤棚は二宮町の天然記念物、将軍家光も立ち寄ったと云う。 

旧道に逸れた東海道が国道1号に戻る山西交差点には道祖神など石仏群が在る。 

Navi12-5 川勾神社交差点(斜め左)  350mでR1に戻る 

10:15「押切坂一里塚」 01:45:00
 日本橋から十八番目の押切坂一里塚は坂の上、相模灘が一望できる。
大磯から小田原は四里を越える。ここ梅沢立場は間の宿となり本陣も置かれた。 

10:30「浅間神社」 02:00:00
 相模灘を見下ろす高台の浅間神社、境内に明和5年(1768年)建立の庚申塔が立っている。 

西湘バイパスの先に穏やかに煌めく相模灘、幾艘かの釣り船が遊んでいる。

      

11:20「小八幡一里塚」 02:50:00
 日本橋から十九番目の小八幡一里塚は何の目印もない。いや神奈中のバス停があった。 

11:45「酒匂川の渡し」 03:15:00
 酒匂川を渡る。江戸幕府は防衛上の理由で架橋も渡船も許可せず徒歩渡しだった。
旅人は人足によって川を渡らなければならず、旅を急ぐ人々は大変な難儀した。
雨が降り続き、水深が胸位になると、川留めとなったからだ。

広重の東海道五十三次・小田原は、この酒匂川の渡しを描いている。 

Navi12-6 ビジネス高校前交差点(左折)  210mでR1に戻る  

小田原宿に入る手前右手に「山王神社」が在る。
天正18年(1590年)、小田原に着陣した徳川家康は、日々ここに詣でたと云う。 

 

12:05「山王原一里塚」 03:35:00
 国道1号線の往く手に天守閣が見えてくると山王原一里塚、日本橋から二十里目になる。
ここは小田原宿の江戸口見附が置かれたところでもある。 

Navi12-7 新宿交差点(左折) 800mでR1に戻る  

東海道は新宿交差点を左折して国道1号から離れる。
100mほど進めて右折すると通称「かまぼこ通り」、なるほど老舗の本店が軒を連ねる。 

      

12:15~12:45「小田原おでん本店」 03:45:00
 今日の街道めしは "おでん"、人気の小田原おでん本店を訪ねる。
蒲鉾で名高い小田原市の新名物として「おでん」による町興しをと開店して10年になる。

 

もうゴールも近いからと言い訳して生ビールを呷り、おまかせ5点盛りと茶飯を注文。
"おでん" はビールの当てに、"茶飯" に出し汁をかけて茶漬け風にして美味しい。

12:55「小田原宿」 03:55:00
 難所・箱根を控えた小田原宿。その規模は本陣4、脇本陣4、旅籠95軒と東海道随一。
4軒の本陣の一つ清水金佐衛門本陣跡は公園となり、明治天皇行在所阯碑が建っている。 

 
 

旧い遺構が残っていない宿内で雰囲気がある「済生堂薬局」は大正年間の建物だ。
道を隔てた「ういろう本店」は小田原城の櫓の様、600年を超えて薬種と菓子を商う。 

 箱根口交差点を今日のゴールにして右に折れるとほどなく小田原城の堀に行き当たる。
東海道を歩く第4日目は大磯宿から相模湾を左に見て小田原宿まで。3時間45分の行程。
次回は箱根八里を往く。 

大磯宿~小田原宿 16.5km


東海道紀行3 戸塚宿~藤沢宿~平塚宿~大磯宿

2018-11-17 | 東海道紀行

07:40「戸塚宿」 00:00:00
 戸塚宿まで歩いたのは7月の終わりだから、かれこれ3ヵ月ぶりの東海道を歩く旅。
戸塚駅で朝食代わりに駅ソバを掻き込んだら平塚いや大磯辺りをめざす。 

07:50「冨塚八幡宮」 00:10:00
 冨塚八幡宮は戸塚の総鎮守、ここはまだ宿場の内だ。
『鎌倉を いきて出けむは はつ松魚(かつお) 』と芭蕉の句碑がある。
境内には戸属彦命(とつぎひこのみこと)の古墳があり、これが戸塚の地名の起こりと云う。 

 

08:25「原宿一里塚」 00:45:00
 日本橋から十一番目になる原宿一里塚跡には褪せた案内板が立つのみ。塚木は松。
その先右手には曹洞宗天王山の参道入り口、不動明王を彫った石碑がある。 

Navi8 藤沢バイパス出口交差点(左折) → <県道30号> → 藤沢橋交差点 1.9km  

 

藤沢市街に向けて下る遊行寺坂、中ほどの諏訪神社の辺りに「遊行寺一里塚」があった。 
藤沢宿の江戸方見附もこの辺りだと云う。 

Navi8-2 ENEOSサンリッチ藤沢SS(右折)  70m

Navi8-3 ふじさわ宿交流館(左折)  90m 

09:50「藤沢宿」 02:10:00
 時宗総本山遊行寺は鎌倉時代の創建、藤沢宿は門前町としても賑わった。
朱の欄干の遊行寺橋を渡って街道が右に折れると旅籠町、角には高札場があった。
この角は江の島弁財天参詣の道の起点でもあり、大きな鳥居が建っている。 

Navi9 藤沢橋交差点(右折) → <国道467号~県道43号> → 四ツ谷交差点 3.6km 

 

天保年間の藤沢宿は、本陣1、脇本陣1、旅籠45軒となっている。
神奈川、小田原に次ぐ人口を有した藤沢宿が小規模なのは、江戸からの距離による。
戸塚が江戸を発った旅人の初泊地として賑わったそうだから、藤沢は通過地と云える。 

Navi10 四ツ谷交差点(左折) → <国道1号> → 馬入交差点 8.8km 

四ツ谷交差点で国道1号に合流する。四ツ谷一里塚もこの辺りになる。
間もなく茅ヶ崎市に入ると松並木が始まる。なんとなく駅伝中継で見覚えがある。

11:40「茅ヶ崎一里塚」 04:00:00
 日本橋から十四里目になる茅ヶ崎一里塚は南塚を残している。 

12:00「第六天神社」 04:20:00
 右に富士・大山・左に江島・鎌倉・六浦・金沢が望めた十間坂は、十景坂と通称された。
坂の途中の堂々たる社殿は第六天神社、山岡鉄舟寄贈の掛軸があると云う。 

 

小出川は鎌倉期には相模川が流れていた。
関東大震災で鎌倉時代の旧相模川橋脚が露出し、小出川の袂に保存されている。
さらに1kmほど進むと相模川、東海道本線と並んで渡河すると平塚市に入る。 

Navi11 馬入交差点(斜め左) → <市道> → 古花水橋交差点 2.7km 

12:50「馬入一里塚」 05:10:00
 東海道が市街地に通じる市道に入ると直ぐに馬入一里塚跡、日本橋から十五番目になる。 

13:10「平塚宿」 05:30:00
 往時と現在の平塚の中心部は大分ずれている。
平塚駅前交差点から延びる商店街のアーケードが途切れて、江戸方見附が現れる。 

 

平塚宿は本陣1、脇本陣1、旅籠54軒、旧い文献に出てくる旅籠の評判は総じて芳しくない。
総欅造りだった加藤本陣は神奈川銀行平塚支店の場所、将軍家茂、明治天皇が宿泊した。

Navi11-2 西仲町交番(斜め右)  350m 

Navi11-3 横浜トヨペット(左折)  110m 

Navi12 古花水橋交差点(直進) → <国道1号> → (箱根湯本)三枚橋交差点 24.6km

花水川橋から見える高麗山、天智天皇期に高句麗からの渡来人が住み着いたと云う。
この花水川越しの高麗山のアングル、当に歌川広重の平塚の図になる。 

Navi12-2 化粧坂交差点(斜め右) 旧道を900mでR1に戻る 

13:50~14:20「化粧坂(けわいざか)」 06:10:00
 大磯宿へと向かう東海道は化粧坂を上る。この旧道の入口に老舗の蕎麦処がある。
今日の街道めしは「手打そば車屋」で、大ぶりの海老天が評判な様だ。

 

ゴール間近だから生ビールを呷ってしまう。
基本に忠実に "天もりそば" をいただく。喉越しの良い蕎麦とサクサクの海老天が美味い。  

松並木の続く化粧坂には、日本橋から十六番目の一里塚があった。
塚木は北塚がせんだんの木、南塚が榎であったと云う。今は痕跡も残っていない。
東海道本線を地下道で潜ると下り坂に転じる。この辺りに江戸方見附があった。 

 

14:50「大磯宿」 06:40:00
 大磯宿には残念ながら旧い遺構は残っていない。
唯一、情緒溢れる佇まいは「新」、明治24年創業当時のままの菓子舗だ。
大磯辺りを吟遊した西行を偲んだ "西行饅頭" をいただく。疲れた身体にコシ餡が嬉しい。 

 

大磯宿は本陣3、脇本陣6、旅籠66軒とかなりの規模。
石井本陣跡は、汐彩の宿・大内館が今でも旅人を迎える。藤村ら文人墨客に愛された宿だ。
東海道を歩く第3日目は戸塚から相模湾と出会う大磯宿まで。6時間40分の行程となった。 
次回は小田原城下へ、そして箱根を越える。 

戸塚宿~藤沢宿~平塚宿~大磯宿 25.3km 


東海道紀行2 川崎宿~神奈川宿~保土ヶ谷宿~戸塚宿

2018-07-30 | 東海道紀行

08:45「川崎宿」 00:00:00
 4ヶ月を開けてしまった東海道紀行の2日目は川崎宿から。今日も暑くなりそうだ。
江戸が近すぎて振るわなかった川崎宿。洪水で六郷橋流失し舟渡しになってから栄えた。
旧い遺構は全く残っていないが「跡」を示す案内板だけは充実している。 

 

問屋場に近い曹洞宗の古刹宗三寺には、宿場で働いた遊女の供養塔がある。

佐藤本陣跡地は川崎信用金庫本店になっている。
その先、小土呂橋交差点には新川堀に架かっていた石の擬宝殊が残る。

 

『麦の穂を たよりにつかむ 別れかな』
元禄七年(1694年)、芭蕉はここで門人に見送られている。伊賀上野へ帰る旅路だ。
別離の句であるにせよずいぶん心細げだ。5ヶ月後、大坂に没している。

Navi4-2 京浜急行線と踏切でX字に交差するが基本的に直進。

09:20「市場村一里塚」 00:35:00
 日本橋から五里目の市場村一里塚には「跡碑」が建つ。 

白いアーチ橋は鶴見川橋を渡る。
街道当時の橋は長さ二十六間、橋上からは大山箱根連山が見えたと云う。

09:50「鶴見神社」 01:05:00
 鶴見村から生麦村にかけては風光明媚な海浜で茶屋が繁盛した。
鶴見神社近くには信楽茶屋と云う米饅頭が名物の茶屋が「江戸名所図会」に描かれている。

Navi4-3 京浜鶴見駅で京急線X字に交差。複雑な交差点だが基本的に直進。

下野谷町入口交差点で国道15号線と交差すると、鶴見線国道駅を潜る。
駅のガード下はいかにも昭和な佇まい。日活映画にも度々登場したと云う。

10:20「道念稲荷」 01:35:00
 悪霊を萱で作った蛇体に封じ込めて海に流す「蛇も蚊も」を祭事とする道念稲荷。
薩英戦争の原因となった生麦事件の現場はこの辺りになる。

      

キリンビール横浜工場付近で見かけたマンホールの蓋。
海岸線を旅人が往く様子が描かれる。お伊勢参りの道中か、ご婦人の旅姿もある。

Navi5 生麦一丁目交差点(斜め左) → <国道15号> → 宮前商店街入口 3.9km

神奈川新町駅近くの長延寺(オランダ領事館)前には土塁が築かれ神奈川宿の入口だった。

 

Navi6 宮前商店街入口(斜め右) → <旧東海道> → 保土ヶ谷1丁目本陣前跡交差点 4.9km

11:30「神奈川宿」 02:45:00
 神奈川本陣跡、青木本陣跡を過ぎると東海道は国道15号を離れて宮前商店街に入る。
洲崎神社の前が神奈川湊、神奈川宿は旅籠に商家も並んで大いに賑わったそうだ。

神奈川宿 : 本陣2、脇本陣0、旅籠58、問屋場1軒

 

街道はJR線と京急線を跨ぐ青木橋で塞がれるが、基本的に直進方向へ続く。
湊町だから金毘羅神社、ここには三宝寺・神奈川一里塚があった。日本橋から七里目だ。
台の坂を上って行くと料亭・田中屋、明治初期には龍馬の妻おりょうが働いていた。
広重の絵には、この店の前身「さくらや」が描かれているね。美しい宿並みだ。
十返舎一九はこの辺りの茶屋を『浪うちぎはの景色いたってよし』と書いている。

Navi6-2 西口ランプ入口交差点(斜め右)  環状1号を浅間下交差点まで 0.5km

 

Navi6-3 浅間下交差点(斜め右)  相鉄天王町駅まで 1.6km

浅間下交差点から再び旧道に入る。
浅間神社には横穴が在って、源頼朝の時代には富士山麓まで続いていると云われた。 

マルシェで賑わう松原商店街の入口が江戸方見附跡、ここから保土ヶ谷宿に入る。

 

12:45~13:15「保土ヶ谷宿」 03:00:00
 まずは宿場そば「桑名屋」で腹ごしらえ。旅籠風の古民家で雰囲気がある。
八王子道、金沢道の追分、江戸朝立ちの1泊目、留女、保土ヶ谷宿は賑わったそうだ。
『おとまりは よい程谷と とめ女 戸塚前(とっ捕まえ)て はなさざりけり』 の狂歌が上手い。

金沢浦賀道への追分である金沢横町にはお休み処、金沢道道標が四基並んでいる。

 

保土ヶ谷宿 : 本陣1、脇本陣3、旅籠67、問屋場1軒

Navi7 保土ヶ谷1丁目本陣跡前交差点(右折) → <国道1号> → 藤沢バイパス出口交差点 14.9km

13:40「保土ヶ谷一里塚」
 国道1号線と刈部本陣跡で合流する。辛うじて本陣門が残るほか遺構は見当たらない。
その先、保土ヶ谷宿上方見附跡には、小さな土塁と一里塚がモニュメントになっている。
日本橋から八里目の一里塚は宿の上方見附と同じ場所にあった。宿並みはここで終わる。

Navi7-2 保土ヶ谷二丁目交差点(斜め右) 750m

 

Navi7-3 セブン-イレブン 保土ケ谷元町橋店(左折) 140m

Navi7-4 鮮魚魚平の先(右折) 1.3km

箱根駅伝でお馴染の権太坂。なかなか足応え?がある。江戸を発った旅人には辛い。
実際、街道脇には行き倒れた旅人や馬を葬った投込塚があった。 

Navi7-5 境木中学校前丁字路(右折) 250m

 

14:15「境木地蔵尊」 05:30:00
 万治二年(1695年)創建で泥棒強盗除けで知られる。
境内の大ケヤキは武蔵・相模の国境になる。なるほど「境木」ってことだ。 

Navi7-6 境木地蔵尊前交差点(左折) 1.2km

 

14:30「品濃一里塚」 05:45:00
 焼餅坂を下りきると今度は品濃坂を上る。どちらも切り通しの坂になっている。
品濃一里塚は日本橋から九里目になる。両塚が残るが切り通しと一体化して分かり辛い。 

Navi7-7 品濃坂歩道橋で環状2号を渡橋(左折) 850m

Navi7-8 東戸塚駅入口交差点(直進) 700m、秋葉立体入口交差点先でR1に戻る

Navi7-9 不動坂交差点手前(斜め右) 400m

 

Navi7-10 元舞橋交差点(右折)  190m、舞岡入口交差点でR1に戻る

 

戸塚の市街地に入ってくる。交差点の名称は江戸見附前、戸塚宿江戸方の入口になる。

広重が描いた戸塚宿は、大橋(吉田橋)とその先に続く宿並みだ。
橋の東詰には日本橋から十里目になる戸塚一里塚があった。痕跡は残っていない。
ところで欄干に並ぶ街灯は、大名行列の「毛槍」を模しているのだろうか。洒落ている。

Navi7-11 吉田大橋西詰交差点(左折) 550m

Navi7-12 戸塚駅跨線橋(直進) 230m、清源院入口交差点でR1に戻る

15:50「戸塚宿」 07:05:00
 戸塚宿には内田本陣、澤邊本陣があったが、今では澤邊本陣前に「跡碑」があるのみ。
江戸から一泊目の旅人に、鎌倉・江ノ島への参詣客でさぞ賑わったことだろう。
その規模は本陣2、脇本陣3、旅籠75、問屋場3軒。
川崎宿から2日目行程は、神奈川湊から保土ヶ谷宿、権太坂を越えて戸塚宿まで23.2km。
所要7時間5分はかかり過ぎか?暑かったからね。 

 


東海道紀行1 日本橋~品川宿~川崎宿

2018-02-18 | 東海道紀行


Navi1 日本橋 →<国道15号>→ 八ツ山橋交差点 8.0km

08:40「日本橋」
 1年ぶりに日本橋にやってきた。云わずと知れた五街道の起点である。
現在も主要国道の基準点であり、橋の中央部には日本国道路元票が埋め込まれている。 
冬晴れの朝、日本橋を発つ。五街道最後となる東海道の旅、京都三条大橋をめざす。 

 

08:55「京橋」
京橋の架橋は日本橋と同年。京橋川は埋め立てられ、その上に首都高速を見上げる。
高速下には擬宝珠を残し、反対側(西側)には江戸歌舞伎発祥之碑が建っている。 

 

まだ静かな銀座を通過。
その地名は、慶長十七年(1612年)に設置された銀貨幣鋳造役所に因んでいる。 

東新橋1丁目でJR線のガードを潜ると左手に日比谷神社。虫歯虫封じに霊験があるそうだ。 

09:25「大門」
新橋から続くオフィスビル群の谷間を抜けると大門、少々増上寺方面へ寄り道する。
増上寺三解脱門、東京タワー、東京無線タクシーの「朱」が重なった風景が楽しい。 

09:35「金杉一里塚」
芝浦運河へと続く古川を金杉橋で渡る。最初の一里塚は跡形もなくその位置は不明だ。 

10:30「高輪大木戸」
高輪大木戸は江戸府内外の境になる。享保九年(1724年)に築造されたものだ。
治安維持のため夜は木戸が閉じられたと云う。ここを出ると江戸とはお別れになる。
往時は茶屋が軒を連ね、旅人と送迎の人々で賑わったそうだ。   


Navi2 八ツ山橋交差点(斜め左) → (旧東海道) → 鈴ヶ森交差点 4.1km

10:25「八ツ山一里塚」
八ツ山橋交差点を斜め左に折れ、京浜急行の踏切を渡ると品川宿に入っていく。
日本橋から二つ目の一里塚はこの辺りになるが、やはり跡形もなくその位置は不明だ。 

 

ひと筋東に入ると品川浦舟だまり、釣船や屋形船が浮かぶ。近くには鯨の供養塚がある。
この辺りの大妓楼では高杉晋作らが度々謀議をこらした。最近ではシンゴジラが上陸している。

品川宿 : 本陣1、脇本陣2、旅籠93、問屋場貫目改所1軒 

 

10:40~11:15「品川宿」
八ツ山口から目黒川までが徒歩新宿・北品川宿、その先鮫洲公園辺りまでが南品川宿だ。
3つの宿場からなる品川宿は、桜の御殿山、紅葉の海晏寺など名所がある行楽地でもあった。
加えて吉原と双璧をなすほど遊女を置く旅籠が多く、ずいぶん賑わったらしい。
本陣は北品川宿に所在し、跡地は聖跡公園となっている。 

北品川宿と南品川宿を分かつ目黒川。畔には「かっぱ祭り」で有名な荏原神社が鎮座する。
訪れたこの日は境内2本の "寒緋桜" が見頃を迎えていた。ピンクが鮮やかだ。

 

初日の街道メシはお気に入りの宝喜家で。復活した品川縣ビールで喉を潤す。
明治初期、品川に日本で最初のビール工場が建てられ生産されたものだ。 
"鴨なんばん" で身体を暖めたら、品川宿を後にする。 

 

12:00「鈴ヶ森刑場跡」
立会川に架かる浜川橋を "泪橋" と呼ぶ。鈴ヶ森で処刑される罪人と縁者が分かれた橋だ。
旧東海道はその罪人が運ばれた鈴ヶ森刑場跡まで来ると、国道15号線に上書きされる。 


Navi3 鈴ヶ森交差点(斜め右) → (国道15号) → 六郷橋南詰 7.0km  


Navi3-2 大森海岸交番(斜め左)  美原通りを1.0km 大森警察署前交差点でR15に戻る 

12:30「大森一里塚」
京急平和島駅辺りで旧道を歩くことができる。旧道はミハラ通り商店街と称している。 
江戸期の大森海岸は海苔養殖が盛んであった。養殖が終了した今でも流通の中心地だ。
軒を並べる海苔問屋のシャッターには東海道の風景が描かれていて楽しい。
日本橋から三つ目の大森一里塚はこの辺りのはずだが、やはりその位置は不明だ。  

13:35「六郷一里塚」
日本橋から四つ目の一里塚は六郷神社の辺り、しかしながら位置は特定されていない。
六郷神社は、前九年の役に勝利した源頼家・義家が石清水八幡を分霊を勧請したものだ。 

 

13:50「六郷の渡し」
六郷橋で多摩川を渡ると神奈川県、東海道は川崎宿に入っていく。
多摩川には慶長五年(1600年)に、長さ200mの大橋が家康によって架けられた。
が、元禄元年(1688年)に洪水で流されると、その後再建はされず船渡しとなった。 


Navi4 六郷橋南詰ガード(右折) → (旧東海道) → 生麦一丁目交差点 6.8km

川崎宿 : 本陣2、脇本陣0、旅籠72、問屋場1軒

14:00「川崎宿」
六郷橋を渡りきると、直ぐに車道を潜って右折する。案内板があるので迷うことはない。
川崎宿には本陣が2軒、田中本陣は江戸よりに位置するので「下の本陣」と呼ばれた。
川崎宿が賑わったのは六郷橋が洪水で崩壊してから。渡船賃の収益で潤ったとそうだ。
渡し船の運営を川崎宿の請負にすべく幕府に働きかけたのが、本陣の田中休愚だと云う。 

 

川崎宿には旧い遺構は残ってないが、充実した案内板で往時を想像しながら歩ける。
東海道かわさき宿交流館には、宿場の模型や浮世絵が展示され訪ねてみると楽しい。
底冷えの日本橋を発って、高輪大木戸で江戸市中を後にし、品川宿を経て川崎宿へ。 
東海道紀行の第1日目は、20.0km、5時間10分の行程であった。