旅の途中

にいがた単身赴任時代に綴り始めた旅の備忘録。街道を歩いたり、酒肴をもとめてローカル線に乗ったり、時には単車に跨って。

中山道紀行22 塩尻宿~洗馬宿~本山宿~贄川宿

2013-08-10 | 中山道紀行

「塩尻宿」 07:40
 R153になっている塩尻宿は車の通りが激しいが、脇道に入ると旧くて静かな住宅街。
豪農堀内家住宅は約200年前の建築で、本棟造りの美しい建物だ。

「平出一里塚」 08:20
 田園風景の中を行くと平出一里塚の一対が完全に残っている。塚の大きさは五間四方、
塚と塚の間もやはり五間だ。中山道は現在の県道よりも幅員があったということか。

一里塚の先、右手に広がる平出遺跡は縄文時代から平安時代にかけての大集落跡。
これまでに290軒を超える竪穴住居址が発掘され、縄文中期の茅葺7軒が復元されている。
平出遺跡の辺りから田圃に代わって葡萄畑が広がる。
多くはワイン用の品種だが、所々網を巡らせた巨峰の畑があって甘い匂いを発している。
やがて中山道はR19に合流し南西方向に向きを変える。

 細川幽斉肘懸の松の先、京都側からすると北国西街道(善光寺西街道)との分去れ。
現在は分岐する北国西街道側が本流となって、R19が名古屋から長野へ延びている。
「右中山道、左北国往還善光寺街道」の道標は現道の分岐点に移動して建っている。

「洗馬宿」 09:20
 洗馬は明治7年の大火で町の大半を焼失したそうで、旧街道の面影に乏しい。
ここに「荷物貫目改所」が置かれ、重量を超えた荷物から重賃金を徴収する役割を担った。
中山道筋は、洗馬宿と板橋宿・追分宿の三宿に置かれていた。
本陣近くには宿名の起こりの「太田の清水」が湧き、夏の往来に涼を与えていただろう。

「本山宿」 10:00 ~ 10:30
 洗馬からは奈良井川に沿って田園風景の中を進む。R19とは付いたり離れたりだ。

本山の集落付近ではR19が新しい道を拓いているので、本山宿は静かな佇まいの中、
袖卯建を持つ家が並ぶなど雰囲気が残っている。

 Img_6830

本山はそば切り発祥の地とされ、地の玄そばを提供する「本山そばの里」が宿内にある。
TV番組や著名人の色紙が飾られた店で、少し早いお昼にとろろそばを頂いた。

「是より南、木曽路」 11:20
 日出塩集落を過ぎると左右の山が覆い被さるように奈良井川の谷が狭くなる。
R19と重なった中山道は川の崖淵を通る箇所もあって足が竦む。やがて道路標識と傍らに
「是より南、木曽路」の碑、次の贄川宿から馬籠宿までを木曽十一宿という。

碑から間もなくの桜沢の茶屋には立派な造りの茶屋本陣が残っている。
木曽路に入ると信濃路中山道自然歩道の案内標識が充実し行先を示してくれる。
時折、中山道は夏草の多い茂った山道になり、道祖神など探しながら分け入って行く。
夏草がそれなりに踏まれているのは、少なからず同好の士がいるということだろうか。

「贄川宿」 12:20
 贄川宿の入り口には関所があり、往時のまま低い石置き屋根の番所が復元されている。
贄川関所は豊臣時代に木材の密移出監視のために設けられ、中山道制定後は福島関所の
副関としての役割を果たした。僅か30km弱の距離で二つの関所とは気の重い旅路だ。

宿場内4ヶ所の水汲み場から豊富な水が流れ出ている。炎天下、頭から被って気持ち良い。
水汲みに来た女性に教わったのは。贄川郵便局のポストは、「LETTER郵便」と刻まれ、
庇に桜模様がついている。これは戦後占領下に僅かに作られた試作品なのだそうだ。

文久の絵図に贄川宿は本陣1、脇本陣1、問屋1、旅籠12とあり規模は小さかったようだ。
また鳥居峠を控えた隣の奈良井に比べ、贄川には宿泊客を引き留めるものがなく、
夕方になると酷い客引きがされたらしい。客引きを嫌った旅人が陽の高いうちに贄川を
通り抜けようとしたことから「贄川宿の昼どおり」という言葉がうまれたそうだ。

贄川には本陣・脇本陣は残っていない。唯一、商家加納屋として遠隔地商売で財を成した
深澤家住宅が国指定重要文化財として見応えのある姿を残している。塩尻宿から洗馬宿、
本山宿を経て、木曽路最初の贄川宿までは18.3km、約4時間30分の行程となった。


中山道紀行21 下諏訪宿~塩尻峠~塩尻宿

2013-05-18 | 中山道紀行

「下諏訪宿」 10:30
 第21日目の行程を下諏訪宿からスタートする。湯田坂上から延びてきた宿場の町並みは本陣までが横町。
甲州街道との分岐点である本陣前を直角に折れると立町。
立町は諏訪大社下社秋宮の参道も兼ねるように延びている。

旧脇本陣で旅館となっている「まるや」、旧旅籠の「民俗資料館」など格子の家が多い。
家々の前の手水鉢に源泉を落としているのも温泉地の風情がある。

下諏訪から岡谷にかけてR20に絡むように進む中山道は、ところどころ市街地の中に
埋没しているのだが、教育委員会や歴史研究会による案内板で辿ることができる。

「岡谷道追分」 11:30
 岡谷市に入って間もなくの長池中町交差点は追分であり「右中仙道、左いなみち」と
刻まれた道標が建つ。伊那街道は天竜川にに沿って辰野へと抜け三州街道につながる。
中山道は緑濃い生垣の道を塩尻峠にむけて緩やかな上り坂になって行く。

「東堀の一里塚跡」 11:40
 R20と鋭角にクロスすると間もなく東堀の一里塚跡、日本橋から56番目になる。
この辺の旧い家々は庭も門構えも立派だ。

「今井茶屋本陣」 12:00
 目の前に山が近づいてくると今井地籍。
左手に「今井番所跡」、右手に黒塀の続く大きな屋敷が今井茶屋本陣の今井家。
塩尻峠を控えて賑わった立場で明治天皇が行幸時に休息をされている。

今井を過ぎると道標があり「右しもすは、左しほじり峠」と彫られている。
その先中山道とR20と中央自動車道が併走する。江戸と昭和と平成の幹線の共演だ。
草鞋が奉納され足腰にご利益のある「石舟観音」辺りから勾配がきつくなる。

「大石」 12:30
 峠越えの名所であった大石と呼ばれる巨石が「木曽路名所図会」にと記されている。
伝承によれば、昔この大石にはよく盗人が隠れていて、旅人を襲ったと言われている。
この辺り、峠へと直線的に上る辛い急坂、何度も小休止をし息を整えての峠越えとなる。

「塩尻峠」 12:40
 急坂を登りきると塩尻峠頂上。浅間神社の碑が建つ。展望台からの景色に息を呑む。
行く先に乗鞍岳と穂高連峰、新緑と3000m超の山々の白のコントラストが美しい。

振り返ると数時間前に発った諏訪・岡谷の町並み、雪解け水を湛えた諏訪湖を見下ろす。
爽やかな風に汗が引いていく。

塩尻峠から松本盆地へと降りていく。こちら側の方が緩やかだろうか。
塩尻側にも立派な茶屋本陣、旅人はもちろん、参勤交代の大名も皇女和宮も休憩した。
庭先のつつじが美しく、堀の菖蒲が咲いたらさらに目を楽しませてくれそうだ。

「東山一里塚」 13:20
 伝説夜通道の地蔵、東山一里塚、馬頭観音を見ながら降りていく。
併走するR20は全面的に登坂車線が整備され、かなりの交通量が快適に疾走していく。

文字通りの長い坂道「長井坂」を下り、みどり湖PA付近の長野自動車道を跨ぐと柿沢集落。

風格のある家々が並ぶ。切妻造りの民家の屋根にあるのは「雀踊り」という棟飾りだだ。

下柿沢交差点を過て右手に永福寺観音堂。旭将軍木曽義仲が信仰した馬頭観音が本尊だ。

「塩尻宿」 14:40
 中山道は仲町交差点でR153に出る。ここからが塩尻宿には旧い遺構は殆どない。
建坪で中山道最大であった川上本陣は明治時代に消失し、跡碑が残っているに過ぎない。

唯一旧旅籠「いてふ屋」の小野家が昔のすがたを残している。
下大門交差点は「中山道鉤の手」で枡形となっている。塩尻宿はここまでだ。
現在は五差路になっていて、写真は下諏訪を背にして右手は松本街道(R153)、
正面はJR塩尻駅に向かう道、左手に折れると木曽へ向かう中山道になる。
第21日目は下諏訪宿から塩尻峠を越えて塩尻宿まで11.4km。約4時間の行程となった。


中山道紀行20 男女倉口~和田峠~下諏訪宿

2013-05-05 | 中山道紀行

「男女倉口」 07:50
 昨晩お世話になった民宿のご主人に、昨日のゴール、男女倉口まで送っていただく。
快晴、気温5℃は峠を越えるにはまずまずのコンディションと云えそうだ。

山道を登り始めてまもなく三十三体観音がある。
本来山中の熊野権現社の石像だが中山道が廃れるに従って荒れ果てていたものを、
昭和40年代に発掘調査をして現在地に安置したそうだ。実際には4体が未発見で29体だ。
峠の難所を往来する人馬の無事を祈って祀ったものと推察される。

「永代人馬執行所跡」 08:20
 山道を1.5kmほどで一旦R142と合流、茅葺屋根小屋の永代人馬執行所復元されている。

和田宿から下諏訪宿までは中山道随一の長丁場、人家もなく、旅人の苦労が多かった。
文政11年(1828)、江戸の豪商がこの難儀を救おうと、幕府に願い出て小屋を設置し、
冬季に立ち寄った旅人には、粥一杯と焚火、牛馬には年中、桶一杯の飼葉が施された。

山道に戻って2kmほどは急坂部に石を敷き詰めた区間がある。
当時は上り下りに助けになった石の道も、苔むした今、滑りやすく歩き辛い。

「広原一里塚」 09:05

「東餅屋跡」 09:10 ~ 09:30
 R142に合流して1kmほどで東餅屋跡に至る。江戸時代には五軒の茶屋が繁盛した。
国道が開設され、更に有料トンネルのバイパスが峠越えを不要にした今日、最後まで
残った1軒がドライブインを細々と(失礼ながら)営んでいる。
名物の力餅は、ほどよい甘さが疲れた体に美味しく感じる。碓氷峠の力餅とは趣がちがう。

東餅屋を過ぎると頂上までは僅か。左右の樹木も低くなり徐々に視界が開けていく。
この間つづら折りになっているビーナスラインを1度潜って3度横断する。

潜る1回は沢の流れと歩道のトンネルになっている。
手前へ流れるこの沢は、やがて千曲川に合流し信濃川となって新潟港で日本海に注ぐ。
峠の反対側に流れる沢は諏訪湖に注ぎ天竜川となって遠州灘で太平洋に行き着く。
和田峠を含めビーナスラインが走る尾根筋が中央分水嶺なのだ。

「和田峠-古峠」 09:50 ~ 10:10
 標高1,531m、中山道中の最高所である和田峠に至る。
R142(旧道)が離れたところを通っているため、こちらを古峠という。
正面に真っ白な頂の御嶽山3,067mが目に飛び込んでくる。御嶽山遥拝所の碑も立ち、
なるほど山岳信仰の山であることをうかがわせる。

貝原益軒の東路記に『東坂はやすらかにして西坂はけはし、三月まで雪多し』とある。

下諏訪へと下る道は狭く急だ。秀忠の大軍勢や和宮の御輿が通る様子は想像できない。

急坂の途中に「石小屋跡」がある。
崖を穿ちその石で囲いを作って板屋根を被せた一種の避難小屋があったそうだ。

「西餅屋跡」 10:50
 和田宿と下諏訪宿は五里十八丁の長い峠道、四軒でなる西餅屋の茶屋も繁盛したそうだ。
近くに53番目の「西餅屋の一里塚跡」がある。

西餅屋跡の先は崖道、ひと一人通れる石がゴロゴロした道を時折ロープを頼りながら進む。
切り立ったと表現するほどでもないにしろ砥川の沢を覗き込むと足が竦む。
1kmほど先でR142に合流、大型トラックが爆走する歩道のない国道はある意味で崖道より怖い。

「浪人塚」 11:30
 幕末に天狗党(元水戸藩士の浪人)が京に上る途上、松本藩・高島藩と激戦を繰り広げた。
この砥沢口合戦で討ち死にした浪士を葬った塚だそうだ。

「木落し坂」 12:20 ~ 12:40
 中山道は諏訪大社御柱祭りの木落し坂を通る。
坂上から覗き込むとドキュメンタリーの画面で見るよりかなりきつい坂だ。
ここで民宿で作ってもらったおにぎりをいただきお昼とした。


「諏訪大社春宮」 13:10 ~ 13:40
 諏訪大社春宮の杉木立を右手に進むと突然視界が開ける。下諏訪市街地と諏訪湖だ。
坂を下りきると『右中山道、左諏訪宮』の道標、京方から見た案内だ。
ちょっと寄り道をして春宮と「万治の石仏」を見学する。

慈雲寺門前の湧水「龍の口」を右手に見て進むと古い蔵の前に「下の原一里塚跡」の碑。

中山道は塩尻方面へ最短ルートを行かず、つの字を書くように温泉街と秋宮の門前を通る。
町家は出桁造が見当たらず、和田宿とは随分趣が違う。

「旦過の湯」「児湯」は古くから街道を行き交う旅人や修行僧に親しまれた浴場だ。
私たちは帰路の特急乗車前に児湯を楽しんだ。

「下諏訪宿」 14:00
 中山道はその本陣前でL字に折れ塩尻宿へ向かう。
直進すると甲府を経て江戸へ向かう道「甲州街道」との分岐点にもなっている。
本陣の遺構は「本陣岩波家」と隣接する旅館「聴泉閣かめや」に見ることができる。
一般公開している岩波家にはそうそうたる大大名の関札が残っている。

本陣の向かい側、塩尻方面への道筋には「脇本陣まるや」など雰囲気のある建物が並ぶ。
第20日目は男女倉口から中山道中の最高所・和田峠を越えて下諏訪宿まで15.1km。
約6時間の行程を「諏訪大社秋宮」に参詣して終了した。


中山道紀行19 長久保宿~和田宿~男女倉口

2013-05-04 | 中山道紀行

「長久保宿」 10:30
 長野新幹線を上田で下車、JRバスに1時間揺られ終点が長久保。半年ぶりの再訪となる。
笠取峠から続く下り坂に松尾神社から一直線の竪町に旧い家並が続いている。

濱田屋旅館まで下りL字に折れると横町、やはり時代に取り残されたような風景が続く。

長久保を抜けると谷がY字に分かれる。左は大門川に沿って白樺湖から茅野に至るR152。
右は依田川に沿って和田峠を経て下諏訪に至るR142、こちらが中山道になる。

Y字に分岐する大和橋交差点を右に進むと旧和田村に入る。
庚申塔が並ぶ青原交差点からは依田川を挟んでバイパスと旧道に分かれる。

交通量の少ない旧道を旧跡を探しながら和田宿まで歩くことができる。

「和田宿」 12:30
 旧道を4kmほど進み依田川を渡ってきたバイパスと並行するとほどなく和田宿に入る。
和田峠という難所(標高は1,500mを超え、下諏訪宿までは20km)をひかえた和田宿は、
本陣1、脇本陣2、問屋2、旅籠28と山中に極めて活気のある宿場であったそうだ。

和田宿は1861年の大火で大半を消失したが、江戸に降嫁する和宮の宿泊予定地であり、
幕府の資金(強制的貸付)により復興された。現在残る遺構はその当時の建築だ。

屋根に栗の三枚板に重しの石を載せている和宮も宿泊した本陣と脇本陣の翠川家。

出桁造が見事なのは下の問屋・山木屋。

そして隣接する旅籠・大黒屋だ。

かわちやは歴史の道資料館となっている。

二階に上ると出桁造の格子から街道を眺めることができる。

「大出一里塚」 15:10
 和田から下諏訪までは20km超、和田峠への登り口である男女倉口まで距離を稼ぐ。
歩道のないR142を歩くときは、大型トラックが駆け下りていくので命懸けだ。

「唐沢一里塚」 16:10
 唐沢集落から山道を入っていくと唐沢一里塚がある。山中ひっそり左右一対が残る。
記憶が正しければ板橋の志村一里塚以来だ。

「男女倉口」 16:30
 R142に戻って1kmほどのラストスパート。
やがてR142は新和田トンネル有料道路と和田峠に登る旧道に分かれる男女倉口。
右側の旧道を択ぶとまもなく和田峠への登り口に至る。
長久保宿から和田宿を経て男女倉口までは13.8km。明日は和田峠越えに挑む。


中山道紀行18 芦田宿~笠取峠~長久保宿

2012-11-10 | 中山道紀行



「芦田宿」 11:00
 前回はイベントで賑わっていた芦田宿をスタート、おそらく今年最後の中山道紀行。
雨が上がりを待って遅い歩き出し、でもすでに抜けるような秋の青空が広がっていた。
旧本陣前から中山道は笠取峠に向かって上り坂となる。

「笠取峠のマツ並木」 11:40
 芦田宿の立科町と長久保宿の長和町は別の谷筋、つまり尾根を越えの行程になる。
標高900mの笠取峠へR142は直線的に上っていく。並行する中山道は松並木となる。

慶長年間に徳川秀忠が街道の改修に一里塚の設置と植樹を命じたそうだ。
この際赤松苗753本が小諸藩に下付され、近隣の村人によって植えられたという。
2kmの区間に68本が残っていて、一部は公園となっている。
松並木の入口の道祖神は寄り添う夫婦が笠を持っている。笠取峠に掛けたものだろうか。


「笠取峠」 12:20
 笠取峠を越えると長和町、ここで見納めになる浅間山は山頂に雪を冠している。
峠を越えてまもなく一里塚跡の碑、長和町へと下るR142はワインディングロードとなる。


「中山道原道」を所々歩ける。左右には旧い石積があって往時を偲ばせてくれる。
適度に水分を含んだ落ち葉の道はクッションとなる。
きっと草鞋履きの旅人も歩きやすかったのではないだろうか。

「長久保宿」 13:20
 峠を下ると松尾神社が鎮座し、集落は紅葉に染まる依田川の谷間にひっそりと在る。

長久保には宿場の遺構が数多く残っている。下り勾配に丸石積みの旧い家並が続く。

長野県内最古の町家は釜鳴家、歴史資料館になっている濱屋、本陣の石合家だ。

L字形の宿並は、松尾神社から一直線に坂道を下ると左直角に折れて和田峠を目指す。
ちょうど旅籠さながらに営業している濱田屋旅館前だ。
右手は北を目指す善光寺道との分岐点になっていて、新旧の道標がが建っている。

芦田宿から笠取峠を経て長久保宿までは5.7km、ずいぶん短い今日の行程は2時間。
春が訪れたら、中山道最高所の和田峠を越えて、下諏訪を目指すことになる。


中山道紀行17 塩名田宿~八幡宿~望月宿~芦田宿

2012-10-20 | 中山道紀行

「塩名田宿」 08:10
 気温6度は快晴にもかかわらず千曲川の上だけを深い霧に包んでいる。

塩名田宿は千曲川の渡しで栄えた宿場。
川面に舟を並べて桁とし板を渡して橋としていたそうで、舟つなぎ石が残っている。

霧の中津橋、数100mほど下流の新幹線の橋梁から、疾走する車両の音が聞こえてくる。

対岸にの少々きつい勾配で河岸段丘を上ると、ほどなく霧を抜け快晴の秋空が広がる。
右手後方には稲刈りの終わった風景の中、浅間山が雄大な姿を見せている。

「八幡宿」 09:05
 河岸段丘を上りきると御馬寄一里塚、残念ながら道路脇に案内の杭があるのみだ。

千曲川に流れ込む支流へと下っていくと右手に八幡神社。ここからが八幡宿となる。
八幡宿には昔の面影は殆どないが、本陣を継ぐ御宅が屋敷の端に門を残している。

八幡を出ると中山道は一旦R142と合流する。目の前の低い山の連なりを越えると望月宿。
R142は新望月トンネルで抜けるが、旧道は百沢集落から右手に分れて山を上っていく。
ほどなく右手に祝言道祖神、サルビアに囲まれて一層可愛らしい。

瓜生坂一里塚を過ぎると山道のピーク、念仏百万遍塔がある。

町道を外れ瓜生坂を下る。結構きつい。坂を下り切ると石仏群を見ることができる。

「望月宿」 10:10
 鹿曲川を渡ると望月宿、宿場情緒溢れる町。まず目に入るのは旅籠山城屋。

向かいの井出野屋旅館は大正時代の建物だが雰囲気充分。
「犬神家の一族」や木村拓哉の「君を忘れない」の撮影が行われたそうだ。

さらに進むと重文真山家が大和屋の看板を揚げ、並びに鷹野家脇本陣が軒を連ねる。

情緒溢れる望月宿だがその経営は厳しかったようだ。
天保年間には旅籠9軒にまで減り、その窮状を訴えたと歴史民俗資料館の展示にある。

西の外れに鎮座する大伴神社で望月宿を後にする。

「茂田井間の宿」 11:30
 緩やかに丘を越えて茂田井間の宿、正式な宿場ではなく休息所の機能を果たした。
神明社から茂田井の集落に入ると、水路を巡らした町並が江戸の風情を感じさせる。

茂田井には二軒の酒蔵がある。「御園竹」の武重本家酒造は有形文化財。
若山牧水は大正年間にこの地で酒を愛飲し歌を詠んだそうだ。
もう一軒「かたりべ」の大澤酒造、立派な杉玉は茶色に枯れて新酒の熟成を伝えている。

「芦田宿」 12:20
 芦田川を渡りコスモスが揺れる緩やかな登坂を左にカーブしながら進むと芦田宿。

宿場のほぼ中央に旧本陣土屋家住宅が公開されている。
寛政年間に建て替えられた旧本陣は建坪160坪余、京風な造りの上段の間が立派だ。

向側には脇本陣が2軒ならび、その先には味噌・醤油の酢屋茂が旧い家並を残す。
さらに先の金丸土屋旅館は旅籠そのままに泊まれる旅館として人気らしい。
塩名田宿から千曲川を渡り、八幡宿、望月宿を経て芦田宿までは11.3km。
日本晴れの一日、浅間山や蓼科山を望んで歩く約4時間の行程となった。


中山道紀行16 御代田一里塚~小田井宿~岩村田宿~塩名田宿

2012-08-18 | 中山道紀行

「御代田一里塚」 11:00
 勇姿を見せてくれた浅間山。夏空の下、第16日目を御代田一里塚からスタート。
しなの鉄道を地下道で潜り、相変わらずの緩い下り坂を進めていく。
この辺の家並みは浅間山の火山岩を石垣に組んだり、礎石にしているのが目に付く。

「小田井宿」 11:40
 主要な交通路線から外れた小田井宿は、時の流れから取り残されたような静かな町。
傍らを用水が流れ、連子格子をもった古い家も多い。

本陣(安川家)は和宮降嫁の際にも使用され、“姫の宿”とも称されているようだ。

古い家並の残る小田井宿を後に南に向かうと、やがて交通量の多い県道8号に合流する。

上信越道の佐久ICに接続するこの道は、量販店や外食店の並ぶ近代的な通りだ。

それでも道端の馬頭観音・道祖神や古い神社は、ここが旧街道であったことを示してくれる。

「岩村田宿」 13:00
 立派な楼門を有する龍雲寺は武田信玄ゆかりの寺。この辺りからが岩村田宿となる。
城下町であったため本陣は置かれず旅籠も少ない、寧ろ米の集散地として物流で栄えた。

中心商店街の衰退が叫ばれる中、岩村田は結構健闘しているようだ。
花火が並ぶおもちゃ屋、仏花を扱う店、お盆に帰省する若い世代を迎える準備万端だ。

宿の外れは相生町交差点。正に枡形、南進してきた道は直角に西に向きを変える。
ほどなくJR小海線の踏切を越えると御嶽社、境内にはたくさんの庚申塚が建っている。

さらに1kmほど西進すると「相生の松」、皇女和宮降嫁の際、野点をしたと伝わる。

振り返ると浅間山、行く手には蓼科山が雄大な稜線を延ばしている。
平塚・塚原など用水の流れる集落や古い神社を左右に見て、中山道は田園風景を往く。

塚原集落を過ぎて風景は一転、街道は大きく蛇行しながら鬱蒼とした林の谷間に紛れ込む。
流れの急な沢沿いに千曲川の河岸段丘を下る途中、駒形神社が右手に現れる。
やがて新幹線の高架を見ながら坂を下り切ると、千曲川の渡しで栄えた塩名田宿に入る。

「塩名田宿」 15:50
 塩名田宿(旧浅科村)は上手に街道情緒を残そうと努めている。
本陣跡(丸山家)をはじめ、商店や住宅にも宿場当時の屋号を木製の看板に提げているのだ。

500mほどの宿場を抜けて、さらに一段河岸段丘を下りるとそこは千曲川河岸。
甲武信岳に流れを発し新潟港に至る日本一の大河も、ここではせせらいでいる。
舟橋を繋いだ「舟つなぎ石」が河原に残り、渡しで賑わった往時を偲ばせてくれる。
御代田一里塚から小田井宿、岩村田宿を経て塩名田宿までは14.6km。
行程は短いものの、途中、スニーカーのソールが剥がれるなど、苦難の約4時間となった。


中山道紀行15 軽井沢宿~沓掛宿~追分宿~御代田一里塚

2012-08-11 | 中山道紀行

「軽井沢宿」 12:20
 第15日目は賑わう旧軽井沢ロータリーからスタート。ここは軽井沢宿の京方枡形だ。
避暑の高原リゾートとはいえ気温は28°C、でも吹き抜ける風は爽やかなのだ。

瀟洒なレストランが点在する別荘地、針葉樹の並木道には街道の名残はない。
R18と合流する離山付近でやっと道祖神が現れる。

「沓掛宿」 14:05
 R18としなの鉄道を渡って1km、小川の流れる道を緩やかに下ると湯川にぶつかる。
この辺りが宮之前一里塚、湯川の上流方向に数100m上ると長倉神社でR18に合流する。
ここからが沓掛宿、中軽井沢駅前になる。

戦後火事で焼けてしまった沓掛宿には昔の面影はない。
脇本陣満寿屋跡の旅館も営業をしているのか訝るほど荒れてる。
駅前から右に分岐するR146、「右くさつみち」は温泉リゾートへと誘う道標だ。

沓掛宿(中軽井沢)を抜けると街道はR18の南側を並行。
のどかな風景の古宿の集落、かつては中馬・中牛宿と云う輸送の中継基地として賑わった。
多くの馬頭観音・庚申塔・道祖神などが点在しています。

R18バイパスとの三叉路を過ぎて間の宿・借宿、左手に分岐する通称「女人街道」は、
取締り厳しい碓氷の関所を避けた女性の旅人が、和美峠を経て下仁田に抜ける裏街道だ。

借宿も古宿同様に中馬中牛で大いに稼いだ集落だ。
格子を有する古い家並みや馬頭観音も相当に立派なもので往時を偲ばせる。
借宿を過ぎると再びR18と合流して1kmほど西進すると標高1,000mのピーク。
ここから街道は佐久平に向かって下りはじめる。

追分宿に入る手前には追分一里塚。
多くが崩壊してしまった街道筋の一里塚にあって、南塚北塚一対が良く保存されている。

   

「追分宿」 16:40
 追分宿は中山道と北国街道の分岐点、宿場は大いに賑わったそうだ。
その様子は浅間神社隣の追分宿郷土資料館で知ることができる。
元禄年間で、本陣1、脇本陣2、旅籠71、茶屋18、商家28、戸数152で人口は900人弱。
女性が男性を200人上回るのは飯盛女をたくさん抱えていたから。宿場の賑わいを表す。

郷土資料館の先には、晩年をこの地で過ごした堀辰雄文学記念館がある。
記念館の入口には本陣の裏門が移築されている。「風立ちぬ」季節も間もなくだ。

追分宿は緩やかなカーブを切りながら下って行く。静かな家並みだが見所に事欠かない。
旧脇本陣の油屋旅館、広大な敷地の旧本陣土屋家、高札場、江戸期の建物も何軒かある。

諏訪神社・泉洞寺と街道に欠かせない社寺を見て、西の外れに枡形茶屋つがる屋が残る。

 宿を出ると追分宿の分去れ、常夜灯や石仏が立っている。
右は善光寺を経て越後高田へ至る北国街道。加賀前田家の参勤交代、佐渡御用金の道だ。
左はもちろん京都へと向かう中山道。
常夜灯には「さらしなは右、みよしのは左にて、月と花とを追分の宿」と彫られている。
月見の名所更科(千曲市)と花見の名所(奈良吉野山)を行き先に引いた詩情豊かな案内だ。

高崎から寄り添ってきたR18を左に離れ、静かな林と畑の中を佐久平に向かって下る。
本来振り返ると雄大な浅間山を仰ぎ見るはずだが、今日は一日雲に隠れたまま。
狩人は『右は越後へ行く北の道、左は木曽まで行く中山道』と追分宿の分去れの情景を
「コスモス街道」に歌ったけど、やはりコスモスたちが高原の風に揺れている。

「御代田一里塚」 17:50
 しなの鉄道御代田駅近くには、御代田一里塚が残る。ここが第15日目のゴール。
軽井沢宿から沓掛宿、追分宿を経て御代田一里塚まで11.8km。
資料館などに寄りながら約5時間30分、高原の涼風に吹かれた行程でした。

風立ちぬ / 松田聖子

コスモス街道 / 狩人


中山道紀行14 坂本宿~軽井沢宿

2012-05-20 | 中山道紀行

 

「坂本宿」 10:40
 息子との中山道の旅は、行程第14日目、前半のハイライト碓氷峠越えに挑んだ。
日帰り温泉施設の売店で買った熊除けの鈴をリュックに付け、坂本宿上の木戸をスタート。
坂本八幡宮は石造りの神橋が年月を感じさせる。多くの旅人が道中の安全を祈っただろう。

「堂峰番所跡」 11:05
坂本の集落最上部にある浄水所を過ぎると、中山道はR18から別れて刎石山に分け入る。
街道を往くと言うより正に登山の様相だ。しばらく登ると堂峰番所跡に差しかかる。
谷が迫った地形に道幅を更に狭くして、道の左右に石垣を設え同心を住まわせた。

堂峰を過ぎると道は更に狭隘かつ急坂になりる。堂峰から覗までが碓氷峠越え一番の難所。
まもなくピークが近づく辺りに柱状節理の露出と石碑群が見られる。

ここからの刎石坂が最もきついところ。滑り止めに角状に割った石が敷かれている。
十返舎一九が「たび人の 身をこにはたく なんじょみち 石のうすいの とうげなりとて」と詠んだ。

「覗」 11:25
刎石坂を上り詰めたピークが覗、その名のとおり今しがた登ってきた下界を覗ける。
坂本宿を貫く中山道(R18)が一直線に延び、宿場の下手を上信越自動車道の高架が横切る。
僅かな距離でずいぶんと高度を稼いだ。坂がきつい訳だ。
覗では、小林一茶が「坂本や 袂の下の 夕ひばり」と詠んでいる。
覗を過ぎると道は緩やかな尾根道となる。木立もいつの間にか杉からブナに変わり、
心地よい風が渡り、びっしょりとなった汗も引いていくようだ。

尾根筋に「馬頭観音」「弘法の井戸」と見ながら進む。

「刎石立場跡」 11:35
 刎石山の山頂直下に刎石立場跡、ここには4軒の茶屋があった。しっかり石垣が残る。
こんな山中の茶屋で休憩できるなんてなかなか粋、冷えた生ビールを所望したいところだ。

尾根筋を通る道は右に左に崖が展開する。「南向馬頭観音」は南側崖を見守り、
短い切通を通ると今度は北側が崖になり、当然に「北向馬頭観音」が見つめている。
場所によっては左右が崖になっている。人為的に更に道を狭くした「掘り切り」は、
小田原攻防戦時の防戦に備えた所である。

一里塚、座頭転がしの坂、栗が原と過ぎて、再び杉木立の中を往くと、入道くぼに珍しい
「線描き馬頭観音」が見られる。ここを過ぎてほどなく山中茶屋跡に差しかかる。
峠越えのほぼ半ばとなるこの辺は川水を汲み上げることができたので茶屋が開かれ、
寛文年間には13軒の茶屋と上段の間をもった茶屋本陣、更には寺までもあった。
明治に入っては小学校もできたそうで、今は屋敷跡、墓標、畑跡が残っている。

きつい山中坂を登り、「一つ家跡」「戦場ヶ原」を過ぎると碓氷越えもラストスパート。
旅人が身なりを整えた水場「化粧水跡」 が残り、軽井沢が近いことを感じさせる。
徒歩で小川を渡り、熊笹繁る尾根への道を登る、長坂を登り切ると神宮寺の「仁王門」跡。
国学者関橋守の「思婦石」があり、ここまで来ると上信国境はもう直ぐ。

「熊野神社」 13:45
 最後の坂を登り切るとようやく碓氷峠、日本武尊が「吾が嬬はや......」と詠嘆した地。
そしてここからは信濃路、長野県に入る。県境に鎮座するのは熊野神社、
正確には群馬県側に「熊野神社」そして長野県側に「熊野皇大神社」と並んでいる。

神社の鳥居前には元祖ちから餅しげの屋が、やはり県境を跨ぐように建っている。
長い山登りでお腹はペコペコ、こし餡と辛味だいこんで “ちから餅” が美味い。

熊野神社から軽井沢宿までは、細い山道と途中からは遊歩道となって下って行く。

宿場手前、矢ヶ崎川を渡った辺に芭蕉句碑、「馬をさへ ながむる雪の あした哉」とある。
「野ざらし紀行」 の中で、雪の降りしきる朝方、行き交う旅人の様を詠ったものだ。

「軽井沢宿」 14:50
 軽井沢宿は、概ねつるや旅館から旧軽ロータリー の間だが、何の遺構も標識もない。
軽井沢銀座の真ん中辺り、土屋冩真館さんには、明治の頃からの写真が展示されていて、
宿場の様子をある程度窺い知ることができる。
旧軽ロータリー付近には一里塚、本陣は軽井沢郵便局付近にあったそうだ。
碓氷越えは坂本宿から熊野神社を経て軽井沢宿まで9.6km、約4時間の行程となった。


中山道紀行13 松井田宿~坂本宿

2012-04-15 | 中山道紀行

「松井田宿」 11:00
 行程第13日目、半年ぶりの中山道を松井田宿からスタート。
本陣・脇本陣などの遺構はないものの、古い木造の家並みが旧道の面影を残している。

「松井田八幡宮」 11:15
 創建は不明だが、建久8年(1197年)に源頼朝が立ち寄った記録がある松井田八幡宮。
重文に指定されている本殿は寛永年間(1624~1644年)の建立、桜が満開だ。

正面に奇峰・妙義山を見ながら、新堀一里塚辺りの旧道を往く。

道の左右に佇む道祖神、上州路に入ってからは最早珍しくなくなった。

「五料茶屋本陣」 11:50
 五料茶屋本陣は、名主・中島家の本家と分家が一年交代で茶屋本陣を務めていた。

其々が、お東、お西と称され、今では群馬県の史跡として一般公開されている。

五料茶屋を過ぎると、中山道は一層山道の様相を呈してくる。
正面には真っ白に化粧をした浅間山を望み、左手には奇峰・妙義山を供にする。
夜泣き地蔵が佇む山道を上り下りすると、中山道は一旦R18と重なって横川をめざす。

かつて碓氷峠越えの機関庫があったJR横川駅通過する。今日はSLが入線して賑やかだ。

「碓氷関所」 13:35
 元和9年(1623年)、江戸幕府によって設置された碓氷関所。
中山道は特に重要な交通路であったため、幕府は「入鉄砲と出女」を厳しく監視した。
東西に門が設置され、西門を幕府が、復元された東門を安中藩が管轄した。

「坂本宿」 14:05
 関所跡を過ぎて碓氷川を渡ると、刎石山を正面に見て一直線の登り坂となる。
現代の街道とも言うべき上信越道の高架橋を頭上に見て、下木戸跡から先が坂本宿。

関所と峠を前後に控えて、坂本宿は本陣2軒、脇本陣2軒、旅籠40軒と賑わった。
本陣の佐藤家、旅籠かぎやなどが往時を忍ばせている。
松井田宿から坂本宿は10.4Km、およそ3時間を満開の桜を見ながらの行程となった。
次回は中山道屈指の難所・碓氷峠を越え、いよいよ信濃路に入る。


中山道紀行12 安中宿~松井田宿

2011-11-27 | 中山道紀行

「安中宿」 09:10
 安中宿を出ると緩やかな上り勾配、やがて目の前に立ち塞がる碓氷峠を予感させる。
安中城下を発ち、碓氷峠の熊野大権現まで七里余りを走る「安政の遠足(とおあし)」は、
藩士の心身鍛錬のために行われた。さながら日本マラソンの起元と云えそうだ。

「原市の杉並木」 09:55
 原市には江戸期には700本余り、日光と並び称される立派な杉並木があったそうだ。
ずいぶん枯死し今では10週本だけが残る寂しい情景になっている。

「八本木地蔵堂」 10:30
 杉並木を過ぎると八本木に立場茶屋本陣跡と、その向えに八本木延命地蔵尊が現れる。
日本三地蔵に数えられる地蔵尊は、参勤交代の諸大名も下乗下馬して参詣したそうだ。

「妙義道常夜燈」 11:10
 郷原は街道情緒の残る緩やかな上り坂が続き、妙義山が視界に存在感を増してくる。
再びR18と合流する地点にあるのが妙義道常夜燈、台石には「是より妙義道」と刻まれる。
郷原の妙義講の人たちが、妙義山への参詣の道標として建立したものだ。

さらに300mほど進めると中山道はR18を離れ左に下り、碓氷川の崖上の切通し出る。
ここからは奇峰・妙義山の眺めが堪能できる。

「松井田宿」 11:50
 崖を回り込むと中山道は直線となり松井田宿に入る。やはり旧い遺構は残っていない。
松井田は信州諸藩の城米が集積され、江戸廻米の中継地で「米宿」とも呼ばれ繁栄した。
本陣跡近くの古い家並みをゴール地点とした今日の行程は9.6km、約2時間30分となった。


中山道紀行11 高崎宿~板鼻宿~安中宿

2011-11-26 | 中山道紀行

「高崎宿」 11:15
 江戸時代に「お江戸見たけりゃ高崎田町、紺ののれんがひらひらと」と詠われたほど
賑やかだった田町を過ぎるて、中山道は左・右・左と鉤状に折れて高崎城下を後にする。

「信州街道分去れ」 12:10
 烏川を君が代橋で渡るところからR17と別れて信濃追分まではR18と寄り添うことになる。
渡河後の下豊岡は脇往還・信州街道との分去れで、道標には「右くさつみち」と記され、
まさに温泉リゾートへのゲートになっている。

 

「茶屋本陣・飯野家」 12:50
 若宮八幡宮を過ぎると上豊岡では茶屋本陣・飯野家が公開されている。
茶屋本陣とは、宿場と宿場の間にあって、大名や上級武士の休憩に用いた休憩施設。
書院造の上段の間や庭など見ることができる。

「板鼻宿」 13:50
 上豊岡からは4車線のR18としばらく重なり、4kmほど進んで板鼻から旧道に入る。
この辺では仲の良い男女の双体道祖神を多く見かけるようになる。
板鼻宿にはさしたる遺構はない。木島本陣跡は公民館となり、その敷地奥には、
皇女和宮が降嫁の際に宿泊した書院が資料館として保存されている。

 板鼻宿から安中宿の間は僅かに3.3kmしかない。理由は現地を歩くと容易に理解できる。
この間蛇行する碓氷川を二度渡り、どちらも「徒歩渡し」かなりの難所だったようだ。
増水で川止めになるとかなりの旅人が逗留するため、旅籠など宿泊施設が必要になる。
なぜ二度渡すのか、安中城の防衛のため、それとも安中藩の経済政策のためだろうか。

「安中宿」 15:20
 安中宿は碓氷川とそれに合流する九十九川に挟まれた台地上に在る。
最も高いところに安中城址、その南側を東西に街道が伸び宿場が置かれている。

 

安中宿に遺構は殆どないが、郡奉行役宅と武家長屋が復元され、往時を想像させる。
高崎宿から板鼻宿を経て安中宿までは10.5km。上州の空っ風の中約4時間の行程となった。


中山道紀行10 新町宿~倉賀野宿~高崎宿

2011-10-15 | 中山道紀行

「新町宿」 13:10
 行程第10日目からは上州路。出発点新町宿には旧い遺構はほとんど残っていない。
宿並の中心部には、教育委員会の「新町宿小林本陣跡」の杭だけが淋しく打たれている。

中山道は関越自動車道を潜るとしばらく烏川堤のサイクリングロードを歩く。
途中の河畔に伊勢神宮の小さな祠を見つけた。

「追分」 14:20
 柳瀬橋で烏川を渡し右岸を進み、高崎線をオーバーパスして工場地帯を抜け倉賀野へ。
倉賀野は中山道と日光例幣使街道の分岐点、追分には立派な道標と常夜灯が立っている。
「例幣使街道」ゆえ、上方から来て江戸方面と日光方面へ分岐する構造になっている。

「倉賀野宿」 14:40
 倉賀野は利根川水系烏川最上流の河岸を合わせた宿場であり、荷の集積で栄えた。
上州・信州の産物(煙草・屋根板・砥石など)が江戸に送られ、行徳から塩や干魚など
を積込んで戻って来たと云う。

旧道には本陣跡、脇本陣跡の碑が立ち、須賀脇本陣前には高札場を復元している。

「高崎宿」 15:50
 中山道は、R17、上越新幹線と現代の街道とクロスすると榎並木となり高崎市街に入る。
高崎は徳川の重臣井伊家の城下町であり、本陣や脇本陣は置かれなかった。
あら町諏訪神社は文化10年(1813年)頃のもの、高崎宿は何度か大火に遭っているからだ。
入母屋造りの屋根は千鳥破風をつけた瓦ぶき、軒下に鳥居を造りつけているのが珍しい。

旧道沿いに遺構もないので、高崎城址を今日のゴールとした。
高崎城と中山道の間は僅か200m、平時の城とはいえ防衛上大丈夫?と余計な心配をする。
新町宿から烏川を渡って倉賀野宿、高崎城下までは11.8km、約2時間30分ほどの行程。
今秋中に碓氷峠まで到達したいものだ。


中山道紀行9 本庄宿~新町宿

2011-08-15 | 中山道紀行

「本庄宿」 08:40
 猛暑が続く旧盆の最中の第9日目、武州路最後の行程を本庄宿からスタートする。
本庄市街には歴史民俗資料館前に移設された田村本陣門を除いて旧い遺構はない。
宿場の西の外れ近くに旧い商家や土蔵が僅かに見られるのみだ。

中山道は、宿場の西端、金鑽(かなさな)神社を右左と枡形に折れ、本庄の町を離れる。
社殿は極彩色うるし塗りの権現造り、本庄祭りでは豪華な山車が曳き回される。

本庄宿を出た中山道はしばらくR17の西側、県道392号線を進んでいく。

「泪橋」 09:20
 泪橋跡碑には「街道筋の住民に課せられた使役は酷く、とりわけ農繁や風雪時期の
使役はなおさらで、人々はこの橋端に憩い家族を思って涙した。」と刻まれている。

「陽春院」 10:10
 中山道は神保原でR17とクロスし、今度は東側を2kmほど並行する。
やがて左手には武田信玄の正室が仏門に入ったというエピソードが残る陽春院を見る。 

「勝場一里塚」 10:25
 中山道は勅使河原北交差点でR17と重なる。交差点の脇には一里塚跡の碑が在る。
緩やかな勾配を上っていくと神流川の堤防。架かる神流川橋は埼玉・群馬県境の橋。
真夏の陽にジリジリ照らされて、結構きつい渡河になる。

左手には高崎線の鉄橋、さらに奥には関越自動車道が川を越えていく。
中山道当時は徒歩渡りだったが、出水時には舟渡しになった。橋を渡り切ると上州路だ。

さてこの辺の神流川は戦国時代の歴史舞台でもある。本能寺の悲報を受けた滝川一益が
北条軍と激突して惨敗、本領伊勢長島に逃げ帰った「神流川の戦」古戦場なのだ。

「新町宿」 11:00
 堤防からの勾配を下りきると上州路最初の宿場・新町宿で常夜燈が迎えてくれる。
中山道は新町検問所からR17を右手に離れ、ここから新町宿に入っていく。
新町は古くから俳諧が盛んで、柳茶屋跡には芭蕉句碑が建っている。

宿場の中心地、明治天皇行幸時に滞在した新町行在所でこの日の行程を終える。
本庄宿から神流川を渡って新町宿までは11.1km。約2時間30分の行程となった。
夏休みシリーズは一旦終了。秋には上州路を碓氷峠めざして進めて行こうと思う。


中山道紀行8 深谷宿~本庄宿

2011-08-13 | 中山道紀行

「深谷宿」 07:40
 深谷宿は灯が東の常夜燈から西の常夜燈までの1.7kmの間。
隣の熊谷宿には飯盛女を置かなかったので、必然、深谷に多くの女が集まり賑わった。
この様子は英泉画「深谷之驛」でよく理解できる。
旧い造り酒屋など、土蔵や連子格子の家々が落ち着いた雰囲気を醸している町並みだ。
また明治の実業家・渋沢栄一の出身地深谷には、日本初のレンガ工場が建てられたからか
明治期のレンガ造りの建物がちらほら見かけられる。

 TVニュースでは、首都圏から各地へ向かう高速道路の渋滞が伝えられている。
そんな中、私たちは自分の足で行く。第8日目は深谷宿の外れ西の常夜燈からスタート。
今日も暑い日になりそうだが、武州から上州に抜けるのもあと僅か、自然と力が入る。

「瀧宮神社」 08:05
 宿場を発ってまもなく瀧宮神社(宿根総鎮守)が在る。明応五年(1496年)の大干ばつの折、
領民がこの地を、広さ百余坪、深さ一丈掘ったところ、大量の水が湧き出し耕地を潤した。
歓喜した領民が妻沼の聖天宮の神をこの遊水地に勧請したのが由緒と云う。

深谷宿を出ると、ほどなく中山道はR17と重なり4kmほど進む。
特筆する見所は無いけれど、清心寺・瀧宮神社・普済寺・鳥護産泰神社と続く寺社は、
炎天下の道を行く旅人に休息の木立を提供したことと想像される。
そういえば熊谷を出てからあちこちで馬頭観音が見られるようになった。

「島護産泰神社」 08:55
 中山道が緩やかに右手へR17とはなれると島護産泰(しまもりさんたい)神社が在る。
創立年代は不明、旧榛沢郡内の開拓が、神社の加護により進み、村々の信仰が厚くなり、
やがて総鎮守になったと云われる。祭神は瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)、木之花咲夜姫命だ。

「百庚申」 09:10
 中山道がR17バイパスとクロスする岡(西)交差点手前、岡の坂に庚申塚の一群がある。
百庚申(ひゃくこうしん)は幕末の万延年間に村の有志によって建立されたもの。
桜田門外の変や黒船来航による騒然とした国情に、生活に不安を感じた民衆が
神仏に頼ろうとした心理がさせたそうだ。

中山道は小山川を滝岡橋で渡って、長閑な川沿いの県道となって続く。
近世、馬が急死した路傍に建てられることが多くなった馬頭観音像や、賽神の石碑、
子育地蔵尊、庚申塔など、石仏たちが街道の存在を感じさせてくれる。

「本庄宿」 10:50
 武州最後の宿場である本庄宿は中山道最大規模の宿場として大いに賑わった。
天保年間におけるその規模は、本陣2軒、脇本陣2軒、旅籠は77軒となるほど多い。
またこれらとは別に飯盛旅籠が54軒、飯盛女100人を数えたと云うから盛況だったろう。

二軒あった本陣の一方、田村本陣門が本庄市歴史民俗博物館前に移築されている。
深谷宿から本庄宿までは11.4km。炎天下、午前中に絞って3時間の行程とした。
さて次回はいよいよ神流川を渡って上州路に入る。