炎天下に咲くのに、キリッと美しいフヨウです。
カメラを向けるこちらのほうがとろけそうな陽射しの中、薄いクレープ紙のような花を咲かせ、15~20cmほどの大きさで、実に見事です。
写真3枚目はホテルの通路から、ガラス越しに撮りました。
7/24~7/31にかけての撮影です。
炎天下に咲くのに、キリッと美しいフヨウです。
カメラを向けるこちらのほうがとろけそうな陽射しの中、薄いクレープ紙のような花を咲かせ、15~20cmほどの大きさで、実に見事です。
写真3枚目はホテルの通路から、ガラス越しに撮りました。
7/24~7/31にかけての撮影です。
節電の夏^^です。
7月中はクーラーをつけないでおこうと、意地を張っている私です。
笛の練習をするときも、部屋を閉め切って扇風機でしのいできました。
で、今年初めて、クールグッズを買ってみたのですが、えり巻き系は太い首に巻きついて、かえって暑苦しいという結果となりました。
S90をS100に買い替えました。
バッテリーの充電が効かなくなったので、6月に旅行に出る前に、バッテリーを買い替えようと思ったら、最新機種では同じバッテリーが使えないとのことです。
S100はいずれ買おうと思っていたので、ひとまず手元にある2個のバッテリーで旅行はしのいできました。
で、S90を下取りしてもらってS100に買い替えたのですが、ビックリです。
1と月の間に価格がグ~ンと上がっていました。
それに、お店によって、1万円以上の価格差があります。
Amazonが一番安かったのですが、ポイントもあるし、日ごろ利用しているお店で買うことにしました。
同系統といっても、ビミョーに操作方法が違っています。
以前のカメラも充分使いこなせないうちに、また新しいカメラの使い方を覚えなければいけないなんて・・・。
難行苦行^^が待っている私です。
夏休みのアサガオ日記^^な~んて、我が家の酷暑のベランダに咲くアサガオです。
今年も、ちょうど夏休みが始まるころから咲き始めました。
1枚目の写真、薄紫色のアサガオは琉球あさがおと名札のついていた苗を買ってきたものです。
変わった形の葉っぱです。
ツルが延びないツルナシです。
(7/20~7/28に撮影)
神戸ポートピアホテルから記念日特典のカードが届いたので、期限ぎりぎりに行ってきました。
結婚記念日は6月15日なのですが、7月末まで有効でした。
レストランは神戸たむら、特典はプチブーケと写真を選びました。
飲み物は梅酒のソーダ割りにしました。いただいたプチブーケです。
季節の前菜盛り合わせです。彩りがきれい。
パイナップルはお皿^^がわりです。
冷やしとろろ汁
お祝いの膳ということで、一口サイズのお赤飯がつきました。
鮮魚盛り合わせ
アオリイカとマグロはドレッシングでいただきました。
焼物は賀茂茄子田楽
煮物は鰻と冬瓜の博多
止は太刀魚唐揚げご飯か夏のちらし寿し
半分ずつ、もとい、分けるといっても私のほうが2倍量ほど食べました。
デザートです。
ランチは2種類のうちから、量の少ないほうをいただいたのですが、チョー満腹です。
真夏の散歩道は木々の影も、人の影もくっきり残ります。
夏の花の代表のようなムクゲ。
日本では奈良時代から栽培されているそうです。
1枚目の写真は7/11の外出先で、下3枚は7/19の散歩道で撮りました。
ここのところ、CDショップには足を踏み入れていません。
そんな時、生協の共同購入のカタログに尾崎紀世彦さんのベストアルバムが載っていたので、注文してみました。
それが今週届きました。
尾崎さんは今年の5月末、亡くなりました。
晩年は、お住まいがゴミ屋敷で、本人は行方不明なんていう報道があったりしたのですが、闘病中だったんですね。
尾崎さんは神奈川県茅ケ崎市出身、私も茅ケ崎に15年ほど住んでいたことがあります。
「また逢う日まで」がヒットしかかったころ、同じ茅ケ崎在住の会社の先輩と、こんなことを話しました。
「私(先輩)の義弟のバンドが、尾崎紀世彦と新人オーディションで争ったことがあって、そのときは弟のほうが勝ったのよ。尾崎さんは歌はうまいけど、フレッシュさがない、というのが審査員の評価だったんだって」
といった内容でした。
先輩とはその後、行き来がないので、確かめようがありませんが、懐かしい青春時代のエピソードです。
尾崎さんの歌はもっとパンチのきいた、バタくさいものだと記憶していましたが、改めて聴いてみると、音源が古いこともあってか、「昭和の歌謡曲」といった趣きです。
すべてを何度でも聴きたいと思うほどではありませんが、「さよならをもう一度」とか、「五月のバラ」とか、静かに詩を味わう曲をしみじみ聴いています。
古い写真と同じように、流れてくる曲もセピア色です。
俵屋吉富の葛まんじゅうをお土産にいただいきました。
和菓子なのに賞味期限が長い、と思ったら、直径5㎝ほどのアルミ缶入りでした。
ごていねいに^^、「缶が小さいため開けにくい場合がございます。・・・・・・」と、
注意書き入りでした。
たしかに、開けるのに力がいりました。
ていねいに作られてますね~。日本のお菓子。
TBS勤務の秋山豊寛さんが旧ソ連の宇宙船に搭乗して、日本人初の宇宙飛行士になった時、鳴り物入りで宇宙飛行士に選抜されて、NASAで訓練していた人たちを差し置いて行ってしまって、これでいいのかなーと思ったものです。
同時に候補になった女性は盲腸かなんかで宇宙に行けなかったんじゃなかったかしら。
それからあまり時をおかず、秋山さんはTBSを退職して、福島で農業を始めたことや、東電福島第1原発の事故で、福島を離れざるをえなかったことは知っていました。
その秋山さんの講演が22日、兵庫県保険医協会で開催されるとのことで、聞きに行ってきました。
「未来に残そう平和な地球」で、まあベタなタイトル^^ではありますね。
それでも、今の福島の現状を当事者から聞きたいと思いました。
秋山さんはよく通る声で、言いよどみもなく、聞き手を飽きさせることなく話をすすめてくださったのはさすがです。
一番知りたかった福島のことはつかみとしめで少々で、それほど多くはなかったのですが、米ソの冷戦時代のことや宇宙開発競争、ソ連崩壊による、核技術の分散を食い止めたいアメリカの思惑、核の平和利用の名を借りた、日本の原子力政策が結局、多くの人々を不安に落とし入れている、現在の福島、日本につながっていると分かりました。
福島で農業を始めようと思ったのは、土地を手に入れやすかったから。
お住まいは原発から32kmだそうです。
秋山さんのように、国際情勢や科学に詳しい方ですら、原子力の安全神話を信じてしまったということですから、一般人が、政府の言うことや、大電力会社の技術力を信じて疑わなかったことは仕方なかったのでしょう。
著書にサインをいただく時に、
「福島にお帰りになりますか?」と聞いてみました。
「いえ、少なくとも30年は帰りません」と、きっぱりお答えになりました。
今年70歳とは思えない、若々しい秋山さんだったら、100歳で福島の地にまた立つかもしれませんね。
秋山さんの友人の一人、原発から20km圏内にある川内村の遠藤村長は村にもどろうと、役場機能を元にもどして、村民にも帰村をすすめているそうです。
もちろん、放射線量を確かめた上でのことです。
ただ、村の9割を占める森林の除染はそう簡単に終わらせることは難しいことです。
それでも、自然に恵まれた故郷から避難したままでいたら、汚染廃棄物の最終処分地になってしまいそうなのを何としても、阻止したいという強い気持ちがあるからだそうです。
宇宙飛行士(現在でもまだその資格あり^^とのこと)、ジャーナリスト、農業従事者という肩書に昨年11月から、京都造形芸術大学教授という肩書きが加わった秋山さんです。
ぜひその経験を若い人たちに伝えてください。
思いのほか小柄なのだけれど、骨格はがっちりしていて、農民が一番お似合いの秋山さん。
その仕事こそが今の世の中、一番尊くカッコいい仕事なのではないでしょうか。
『原発難民日記』は3月11日から始まった、福島の1人の農民の半年間の記録です。
キレのいい文章に、怒りがたくさん込められているのですが、読んでいて辛くはありません。
これからもたくさん発信してください。
歩道への進入禁止の杭のわきから、盛大に茎を伸ばしている草がありました。
街なかで、よくあることなのだけれど、ここまで育っちゃうのはめずらしい。
充分な水分と日光を得て、散歩道の草木の育つこと、育つこと。
草木の持つ生命力もあるけれど、管理不足っていうこともありますね。
7月の初めから、中旬にかけて、散歩道で見かけた、アスファルト(ここではコンクリートか?)に咲く^^草木です。