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第74代鳥羽天皇の上皇時代の第4皇子、雅仁親王(マサヒトシンノウ)は第75代崇徳天皇と同じく、待賢門院璋子を母として産まれました。
異母弟で美福門院得子を母とする第8皇子の第76代近衛天皇が早くに亡くなり、保元の乱に至る勢力争いの中で、本来は皇位に付く立場でもなく、今様に明け暮れていた雅仁親王が第77代後白河天皇(ゴシラカワ)(1127~1192)(在位1155~1158)として即位しました。
三十三間堂の丁度向かいにある法住寺の横に、参道入り口がありました
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即位後すぐの保元の乱(1156年)を乗り切った後白河天皇は、藤原信西(シンゼイ)を起用し、前評判は悪かったですが、意外と新たに登場した武家の世を上手に渡り歩き、わずか3年にして息子の第78代二条天皇に譲位した後も、二条・六条・高倉・安徳・後鳥羽と5代にわたって院政を敷いて、30年以上治天の君として君臨しました。
制札には、後世の親王の墓の名も揚がっていました
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即位と共に藤原忻子(キンシ・ヨシコ)が皇后に立ちましたが、子は生れず。
9歳年上の源懿子(イシ・ヨシコ)が産んだのが第1皇子守仁親王(モリヒト)(後の二条天皇)ですが、懿子は産後すぐに疱瘡で亡くなっています。
また、藤原成子(シゲコ)との間には、以仁王(モチヒトオウ)や式子内親王など2男4女をもうけています。
参道を直角に曲がると御陵正面に出ますが、お寺形式でした
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後白河上皇時代35歳の時に20歳の平滋子(ジシ・シゲコ)(1142~1176)に産ませた第7皇子が、後に第80代高倉天皇になる憲仁親王(ノリヒト)です。
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平治の乱(1159年)で後白河上皇は平氏と強く結びつき、平家一門は「平氏にあらざらば人に非ず」と言われるぐらいで平清盛の全盛時代になりました。
しかしその平氏打唐フ為に諸国の源氏が挙兵すると、後白河は今度は源氏と結びつき、また源氏の中でも頼朝についたり義経についたりしながら、鎌倉幕府が産まれるまで生きて、結構長命の66歳で亡くなっています。
葬られたのは、平滋子も眠ってる自分が大きくした法住寺の法住寺陵(ホウジュウジノミササギ)(東山区三十三間堂)です。
後白河陵の南にあるここからは陵には行けませんが、裏に廻ると制札にあった7人の後世の親王墓がありました
返事
花水木さん:昭和二ケタ生まれの我々は、
今の後期高齢者より長生き出来そうではないでしょうね。