藤原道長(966~1028)がやや強引に、もう皇子もいる第67代三条天皇(976~1017)に次女妍子(ケンシ)(994~1027)を入内させ、皇后にもしましたが、二人の間には皇子は生れませんでした。
唯一産まれたのが、今回の禎子内親王(テイシナイシンノウ)(1013~1094)です。
龍安寺の裏山には沢山の陵が並んでいますので、龍安寺駐車場を少し行くと、こんな宮内庁製の案内板が有りました。(私は本当はここに降りて来たのですが)
父三条天皇の従兄弟第66代一条天皇と道長長女で伯母にあたる彰子との間に産まれた敦良親王(アツナガ)には、既に道長6女で叔母である嬉子(ヨシコ)が東宮妃に入り、第1皇子親仁親王(チカヒト)(1025~1068)(後の第70代後冷泉天皇)が産まれていますが、嬉子は産後すぐに亡くなっていました。
そこで、禎子内親王が14歳で1027年に入内し、東宮妃となりました。
皇后陵ですが、久しぶりの内親王からの皇后のせいか立派です。
禎子内親王は良子内親王(ナカコ・リョウシ)(1030~1077)・娟子内親王(ケンシ)(1032~1103)を産んだ後に、1034年尊仁親王(タカヒト)(1034~1073)(後の第71代後三条天皇)を産みました。
その後夫の敦良親王は即位し第69代後朱雀天皇(1009~1045)(在位1036~1045)になったので、中宮にも成れました。
しかしその頃には、祖父道長も父三条天皇も母藤原妍子も亡くなっていて、道長息子の頼通の世になっていたので、禎子内親王の地位も危ういものでした。
しかしその後、息子尊仁親王がなんとか異母兄第70代後冷泉天皇の皇太子になれ、その後は第71代後三条天皇にも成ったので、禎子内親王は陽明門院と女院を宣下され、国母にまでなりました。
火葬されたのは、藤原家からの皇后たちと同じ鳥戸野です。
禎子内親王は、孫の第72代白河天皇・曽孫の第73代堀河天皇の即位も見届け、82歳で亡くなり、この立派な龍安寺裏の圓乗寺東陵(エンジョウジノヒガシノミササギ)(右京区龍安寺御陵の下町)に葬られました。
右手前に少し石柵が見えてるのが禎子内親王の陵で、一人だけで独立していますが、左奥に写ってるのが夫後朱雀・義子後冷泉・実子後三条の三人の合わさったような陵です。
さすが内親王からの皇后で、力の有った老婆だったのですかね。
まだ60代では、ひよっこでしょうか?
私の周辺の老婆(90歳以上)は、どなたもお強いです。
その人生は色々で、生きて来た年月だけ歴史があります。
正に「老婆は一日にして成らず」ですね!!