敦良親王(アツナガシンノウ)は第66代一条天皇の第3皇子で、母は藤原彰子です。
同母兄で第2皇子の第68代後一条天皇が即位した時は、第67代三条天皇の皇子で後一条より年上の敦明親王(アツアキラ)が皇太子に立ちましたが、道長の力の前には皇太子を自ら辞退せざるをえない羽目になって、替わって敦良親王が立太子しました。
陵は龍安寺裏山にある円融天皇火葬塚から、一條・堀河天皇陵を通って龍安寺近くまで降りてくると、有りました。
同母兄後一条天皇の譲位・崩御に伴って、28歳で敦良親王は即位し第69代後朱雀天皇(ゴスザク)(1009~1045)(在位1036~1045)になりました。
皇太子の時から東宮妃として道長6女で叔母にあたる嬉子(キシ)が入内していて、1025年には第1皇子親仁親王(チカヒト)(1025~1068)(後の第70代後冷泉天皇)も産まれていますが、嬉子は出産2日後に亡くなっています。
三つ鳥居が並んだ陵の向かって右が後朱雀陵です。
叔母にあたる嬉子の死後、これまた叔母にあたる道長娘妍子を母にする三条天皇第3皇女禎子内親王(テイシ)(1013~1094)も1027年に入内したので、これは従兄妹婚です。
禎子内親王との間には第2皇子尊仁親王(タカヒト)(1031~1073)(後の第71代後三条天皇)が産まれました。
即位後は関白頼通などが次々と娘を後朱雀天皇に入内させましたが、皇子は生れることなく、このことが摂関政治が終わる始まりとなったようです。
後朱雀天皇は28歳から9年間、成人天皇として在位してましたが、政治の実権はまだまだ道長の息子関白頼通など藤原北家一族が握っていました。
後朱雀天皇は息子後冷泉天皇に譲位しすぐ出家、そしてすぐに崩御し、圓乗寺陵(エンジョウジノミササギ)(右京区竜安寺朱山(シュヤマ))に息子二人と並んで葬られています。
後朱雀天皇の火葬塚は、別に北区平野上柳町の金閣小学校校門前にあって、別の判りにくい狭い道から入っていくとありました。
返事
花水木さん:もうすでに巡ってる陵が、
10はありますので、今は休憩中ですよ。
シガールって、筒状のお菓子ですね。
お菓子も缶が少なくなっていますが。
私も捨てられず、葉巻の缶・お菓子の缶まだ使ってますね。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます