基経⑧(モトツネ)の長男時平(871~909)は901年昌泰の変(ショウタイノヘン)で、写真の「飛梅」のある太宰府に菅原道真を左遷させ、学者門閥による権力奪取を阻止しましたが、道長の怨霊の崇りか早くに亡くなったので、基経の4男忠平⑨(880~949)が藤原北家9代目の氏長者になりました。
忠平からが、本来の摂関政治の始まりと言われています。
忠平は外祖父にはなっていませんが、忠平次男の師輔⑩(モロスケ)(909~960)は、第62代村上天皇の中宮になった長女安子(アンシ)のおかげで、第63代冷泉天皇・第64代円融天皇の外祖父に成れ、忠平長男の実頼(サネヨリ)より上に立てました。
969年の安和の変(アンナノヘン)で源高明を失脚させ、藤原北家の他氏排斥は終了しました。
次いで北家の兄弟同士の争いに勝ったというか、長女超子(チョウシ・トオコ)が第67代三条天皇を、次女詮子(センシ)が第66代一条天皇を産んだことに依って、師輔3男の兼家⑪(929~990)が圧涛Iな権力者になれました。
写真は、17人の藤原家出身の皇后などが眠る、何度も出してきた宇治陵総拝所です。
そしてたなぼた式ではありますが、兼家5男の道長⑫(966~1028)が長男道隆系の中関白家(ナカノカンパクケ)に勝利し、天皇家と最高の身内的結合を完成させました。
こうして12代約350年にわたる藤原(北)家の氏長者は、何故か長男ではなく次男以下が継ぐという結果になってしまい、道長の時代が藤原(北)家の最長点と思われますが、望月になった月はやっぱりかけ始めました。
写真は、宇治木幡に道長が建てた大きなお寺浄妙寺跡ですが、今は小学校の前に建つこんな立柱だけです
道長の後を継いだのは、写真の平等院を完成させた長男の頼通⑬(ヨリミチ)(992~1074)で、初の長男が氏長者になりました。
ただその後は、藤原北家の娘は入内はするが男子を産まない時代となり、大番頭(外祖父)が権力を握る藤原家の摂関政治から、会長(上皇・法皇)に早くなって息子の若社長(天皇)を操作するという、男系の院政の時代に移って行きました。
頼通以後の藤原北家氏長者は、頼通6男の師実⑭(モロザネ)(1042~1101)に、次いで師実長男の師道⑮(モリミチ)(1062~1099)、師道長男の忠実⑯(タダザネ)(1078~1162)、忠実次男の忠通⑰(タダミチ)(1097~1164)と続きます。
忠通は保元の乱(1156年)を勝ち抜き、百人一首の歌人としても法性寺入道前関白太政大臣として名を残していますが、道長以後道長以上の権力者は藤原北家からは出ませんでした。
それでも昭和天皇の皇后は藤原家からですし、他にも藤原家からの皇后や天皇の母は沢山出ています。
高校生の頃、日本史を学んでいて、平安時代は面白くなかった理由が判りました。
汚い陰謀や子を産ませたもん勝ちの歴史が、若かった私には退屈で、実力で奪い取る武士の世の歴史の方が面白かったはずですよ。
でも年とってみると、ややこしい相関関係やだましあいの世界も、ゴシップ的で面白くなっています。
8月の猛暑で、天皇陵巡りを見合わせていましたが、難関の上醍醐陵にもなんとか行けて、又いよいよ武士の世の中になっていく天皇陵巡り、それでも地味で退屈かもしれませんが、時々スイーツを入れながら続きますので、どうか見捨てないでよろしくお願いいたします!!
返事
花水木さん:又ややこしい話ですみませんです。
立石電機の先先代?社長の奥さんは、
私にも優しかった、しゃきっとしたおばさんさんでした。
観るならアメフトかラグビーですよ。
何が煩わしいかって、人間関係。
煮詰まると、リセットボタンあれば押したいと思う時があります。夢のまた夢です。
ところが、最近、私の知り合いで、今までの柵をリセット。家屋敷売り払い、単独、見知らぬ土地へ移住した方がいます。その行動力が羨ましいです。
あ。。。秋のスイーツは何でしょう。