島の医者になって、た頃もあった

70代男の日記風ブログです。新連載「京都へ、京都から」も始めました。

藤原(北)家1.

2020-10-04 | 天皇陵巡り番外
 
 奈良時代から平安時代へと天皇陵巡りを続けながら、一緒に歴史の勉強もしてると、限りなく天皇家と藤原家は交じり合って、1000年頃の天皇は天皇家の人ではなく藤原家の人だと思ってしまいました。
 そもそも天皇家と藤原家の関わり合いは、藤原鎌足①(614~669)が第38代天智天皇と蹴鞠で知り合い、奈良の多武峰にある談山神社の境内で、645年の大化の改新(乙巳の変)の談合をしてからです。
  写真は鎌足の長男で唐に渡っていた定慧和尚(ジョウエ)が建立した談山神社で、私がたまたま見れた蹴鞠の会です。
 
 天智天皇の腹心の部下となった鎌足ですが、672年壬申の乱で政権が第40代天武天皇系に変わった時は、天智はもちろん鎌足ももう死んでおり、鎌足次男不比等②(659~720)は13歳でした。
連座制で処罰を受けてもよい立場の不比等でしたが、不二山(富士山)のように比べることは出来ないような名前まで付いて、何故か天武→第41代持統天皇政権の中枢に入りこみ、養女宮子を第42代文武天皇に嫁がせ、出来た皇子第45代聖武天皇にも娘の光明子を嫁がせています。
以前の蘇我家と同じように藤原家がとってきた、娘を天皇に嫁がせる策の始まりです。
 そうして729年長屋王の変で、天武の望んだ皇親政治さえ終わらせたのは、不比等の4人の息子たち武智麻呂(南家)・房前③(フササキ)(681~737)(北家)・宇合(ウマカイ)(式家)・麻呂(京家)の藤原四子体制です。
  写真は長屋王墓周囲にある長屋王公園です
 
 写真の平城京を舞台に、藤原家と他の豪族や皇親との争いは続きましたが、宇合の式家は息子広嗣が738年広嗣の乱を起こし、五島列島宇久島まで逃げて捕まり、孫の種継(タネツグ)は長岡京遷都では貢献しましたが陰謀で射殺されています。
 
 長男武智麻呂の南家は、その子仲麻呂(恵美押勝)(エミノオシカツ)が強大な権力と武力を握り、天皇に替わって政権を獲れそうなぐらいでしたが、764年恵美押勝の乱で予想外にもあっという間に敗れ、琵琶湖畔で敗死しました。
 麻呂の京家は、元々人材不足でそれほどは栄えていません。
  写真は滋賀県湖西の高島にある内湖の乙女ヶ池で、仲麻呂や一族がここで戦いに敗れ処刑された「勝野の鬼江(カツノノオニエ)」です。
 
 次男房前③の北家が何とか生き延び、藤原北家は恵美押勝の乱から学んだ、「なんぼ強くなっても社長(天皇)には成ろうとするな、社長に自分の娘を嫁がせ若社長(次期天皇)を産ませ、外祖父として大番頭(摂政関白)の地位を獲得して、そこで会社(日本)を実質我が物にする」と言う藤原家憲法で生きる道を選びました。
 房前の3男真順C(マタテ)(715~766)・真盾フ次男内麻呂⑤(756~812)・内麻呂の次男冬嗣⑥(フユツグ)(775~826)達は、自分の娘が天皇の妃に成れなければ、弱い家の妃の息子が天皇に成るほうが得策だと、第50代桓武天皇の母親は渡来人でも良いとまでしています。
  写真は第49代光仁天皇夫人で第50代桓武天皇の母親になった渡来人の娘高野新笠の御陵です。

       返事
花水木さん:添臥を私も今回憶えましたが、
    もうこれを何と読むのか、確認しないと忘れていますよ。
     私の母は7人兄妹の末っ子で、父は4人兄妹の長男ですが、
    連れ合いも含めて、もう残ってるのは父方の叔母のみです。
    次は私の番がついに廻ってきてます。

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1 コメント

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Unknown (花水木)
2020-10-06 19:20:26
ううーーーん、今回もややこしやぁ・・・・・
まあ、いろいろあったねと言うことで。

蹴鞠って、今時のサッカーとは違って、衣装もつけて雅ですねえ。
あの靴が可愛いです。
お公家様が長閑に蹴鞠。
日本人らしいです。

サッカーの由来は、頭蓋骨を蹴ったのが始まりらしいです。個人的には、目まぐるしいサッカーよりも、野球の方が好きです。

ブログに関係ないコメントですみません。m(__)m
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