島の医者になって、た頃もあった

70代男の日記風ブログです。新連載「京都へ、京都から」も始めました。

60-1醍醐天皇

2020-04-23 | 天皇陵巡り
 
 父親の第59代宇多天皇がまだ臣籍降下していて、源定美(ミナモトノサダミ)と称していた頃に、長男として母親藤原胤子(インシ)との間に生れたのが、源維城(ミナモトノコレザネ)です。
後に天皇となりましたので、臣籍の身分として生まれた唯一の天皇ということです。
 写真の醍醐天皇陵前バス停の、比較的広い道の前に拝所入り口が有りました。
 
 父が皇族復帰して宇多天皇になったので、維城も敦仁親王(アツギミ・アツヒト)となり、母胤子の死後(896年)は、義母の温子を養母として育ち、父宇多天皇の譲位によって第60代醍醐天皇(ダイゴ)(885~930)(在位897~930)となりました。
 
 13歳で天皇になり、死ぬまでの34年間の治世は「延喜(エンギ)の治」と呼ばれてますが、父宇多太上天皇(867~931)の強い影響の下で、基経(836~891)の長男藤原時平(871~909)と菅原道真(845~903)の綱引きの上に立った政治とも言えました。
 真っ直ぐに続く参道の左右は民家ですが、松がそれを隠してくれています。
 
 しかし、昌泰4年(901年)に起こった昌泰の変(ショウタイノヘン)、時平らの藤原北家や取り巻きの貴族たちの讒言によって、あまりにも昇進しすぎた学者家系の菅原道真の追い落としが成功し、基経死後10年で藤原北家が、再び権力の中枢に戻りました。
 思いのほか広い拝所ですが、平凡です。
 
 時平の妹藤原穏子(オンシ・ヤスコ)(885~954)を昌泰の変後に女御にして、産まれた第2皇子保明親王(ヤスアキラ)は2歳で立太子してますし、その後も穏子は第61代朱雀・第62代村上天皇となる子を産みました。
 詰所の門灯が点いていたので、作業中なのか、手水鉢にも水が流れていました。
 
 醍醐天皇は穏子以外にも、20人ほどの女御・更衣がいて、36人の子女をもうけています。
905年には、紀貫之等に「古今和歌集」の編纂を命じています。
 
 909年時平が39歳の若さで亡くなり、その後は弟の忠平(880~949)と醍醐天皇は折りあって政治を行っていましたが、923年皇太子保明親王が21歳で亡くなり、保明と時平娘仁善子(ニゼコ)との間に産まれた孫の慶頼王(ヨシヨリオウ)を、3歳ですが皇太子にしました。
しかし、慶頼王もわずか5歳で夭折してしまい、これらは菅原道真の怨霊の崇りだと信じた醍醐天皇は、道真の霊を慰めるために、死んだ道真に贈位などを繰り返しました。 
 
 その後に起こった御所への落雷火災や死亡事故により、完璧なまでの衝撃を受けた醍醐天皇は、退位してすぐに、父宇多法皇に先んじて亡くなり、この後山科陵(ノチノヤマシナノミササギ)(伏見区醍醐)に土葬されています。
 帰り道、この後山科陵は醍醐天皇陵として、疑問の余地ない御陵だそうです。

       返事
花水木さん:牛の舌・猫の舌、
    私は二枚舌ではないですが(と思います)、嘘はよく言いますね。
     朝橘さんのYouTube、電車音にもたどり着きました。
    おかげでYouTubeが身近になりました、ありがとうございます。
    花水木さんの嫁の義姉、私好みです。

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1 コメント

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Unknown (花水木)
2020-04-24 10:34:27
醍醐天皇・・・有名だと思いますが、壮絶な人生だったのですね。そして子供が多い…36人って。

先生の天皇陵巡り、人けがありませんね。
昨日、贈答用の干物を買いに魚河岸へ。
休業が多い、閑散としてました。
数店空いてる店の売り声だけが響いていました。

元々は、平日の日中の魚河岸はこんな感じで、近年のグルメ番組ブームで、観光バスやら県外者ばかり増えました。
お嫁さんの兄嫁さん、3年前よりかなり大きくなったみたいです・・・
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