『記紀1300年 神話と史実のはざま(このテーマが日経新聞に) 3』
―初代神武~15代応神までは神話の時代、16代仁徳以降は実在!-
―中国史に記録が残る九州王朝時代は、神話時代~古墳時代の半ばまで実在―
倭国の平定、卑弥呼・邪馬台国を中ほどに、その前後を含み、数世紀続いた推定される『九州王朝』と、並行して栄えた『大和朝廷(ヤマト王権)』を『邪馬台国の九州説と畿内説 - ベネディクト地球歴史館』から、抜粋・引用し、今後の調査の参考にさせて頂きます。
■大和朝廷(ヤマト王権)
ウキペデイアから引用
橿原神宮内拝殿と幣殿。背景は畝傍山
中国・二十四史に「日本国(大和朝廷)」が登場するのは、650年以降である。では、どのような経緯で大和朝廷が成立したのだろう。 この時代、日本はまだ文字を持っていないので、考古学に頼るしかない。
西暦300年頃、奈良盆地に大規模な前方後円墳が出現する。 その後、400年頃、畿内でも造られるようになり、450年以降、全国に拡大する。 ところが、600年頃には全く造られなくなる。これらの考古学的事実から、大和朝廷の歴史を推定すると ・・・。
大和朝廷は西暦300年に興り、400年に畿内を制圧、450年頃から全国に勢力を拡大する。 そして、600年以降、前方後円墳が造られなくなるので、この頃に大和朝廷の権威が確立した。 これは、「592年に飛鳥時代が始まる」と一致する。
ということで、考古学的見地から、邪馬台国王統から大和朝廷への移行は西暦600年以降と考えられる。 これは、先の中国・二十四史の記述と一致する。では、どのような経緯で邪馬台国王統から大和朝廷に移行したのだろう。 ところが、前述したように、邪馬台国と大和朝廷の関係すら分かっていない。
ただ、仮説はいくつかある。
1.邪馬台国王統は大和朝廷よって滅ぼされた。
2.邪馬台国王統が東征し、畿内を平定、大和朝廷を確立した。
3.狗奴国が邪馬台国王統を滅ぼし、東征し、大和朝廷を確立した。
前方後円墳は西暦300年~600年にかけて、奈良を中心に広がっていくので、前方後円墳は邪馬台国王統とは関係がない。 だから、大和朝廷は邪馬台国王統とは独立した勢力で、併存していたと考えるべきだろう。 しかも、邪馬台国王統は中国の朝貢に熱心で、領土拡大の形跡がない。ということで、「邪馬台国王統は大和朝廷に征服された」
ただ、「邪馬台国王統が東征し、大和朝廷になった」説には根拠がある。 日本書紀や古事記に、神武天皇が九州の日向から近畿へ東征したことが記されているからだ。 日本書紀と古事記は、大和朝廷を讃える書なので、その創始者が滅ぼされた畿内出身であるはずがない、というわけだ。
だが、別の考え方もある。奈良発祥の大和朝廷が日本を統一したが、古代に、中国王朝からお墨付きをもらったのは邪馬台国王統である。 それに敬意を払って「神武天皇東征記」が生まれたのかもしれない。
■邪馬台国王統と大和朝廷の比較年表
最後に、邪馬台国王統と大和朝廷を比較した歴史年表を記す。 この歴史年表を俯瞰(ふかん)すれば、
1.古代の日本は、中国から「倭」とよばれた。
2.倭は九州政権で、「奴国 → 邪馬台国 → 邪馬台国王統」と続いた。
3.400年頃、奈良に大和朝廷が興り、邪馬台国王統と併存した。
4.その後、大和朝廷は600年頃までに日本全国に権威を広めた。
5.650年頃、大和朝廷は邪馬台国王統を滅ぼし、日本を統一した。
これで、飛鳥時代以前の日本の歴史も明らかになった。もちろん、あくまで仮説だが。それでも、当たらずとも遠からずと思うのですが、いかがでしょう?
時期 |
邪馬台国王統(倭国) |
大和朝廷(日本) |
紀元前107年 |
・倭は100余国からなる。 |
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57年 |
・倭の奴国は中国の後漢に朝貢し、皇帝から金印を授かる。 |
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107年 |
・倭王・帥升が中国の後漢に朝貢。 |
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107~180年頃 |
・帥升の流れをくむ奴国で男の王が70~80年間、倭を支配する。 |
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178~184年 |
・帥升の流れをくむ奴国の支配が終わり、内乱がはじまる。 |
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~189年 |
・倭の内乱をおさめるため、女王・卑弥呼が立つ。 |
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238年 |
・遼東の公孫淵が謀反を起こし、帯方郡と楽浪郡を占領し、燕王を称する。 |
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238年6月 |
・倭の女王・卑弥呼が帯方郡に使者を送り、魏の皇帝に謁見することを願い出る。 |
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238年8月 |
・魏の将軍・司馬懿が帯方郡と楽浪郡を奪還し、公孫淵一族を滅ぼす。 |
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238年12月 |
・魏の皇帝が、倭の女王・卑弥呼を「親魏倭王」と認める。 |
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247年 |
・帯方郡の太守が魏の王都(洛陽)におもむき、倭の女王・卑弥呼と狗奴国の男王・卑弥弓呼(ひみここ)が攻防している様を説明する。 |
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240年~ |
・卑弥呼が死ぬ。 |
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300年 |
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・奈良盆地に大規模な前方後円墳が出現する。 |
351年 |
・邪馬台国を継承した邪馬台国王統が中国に朝貢する。 |
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396年 |
・倭の五王の初代、讃(さん)が朝貢する。 |
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400年 |
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・畿内で前方後円墳がさかんに造られる。 |
443年 |
・倭の五王の3代、済(せい)が朝貢する。 |
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450年 |
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・日本各地で前方後円墳が造られる。 |
462年 |
・倭の五王の4代、興(こう)済が朝貢する。 |
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479年~ |
・倭の五王の5代、武(ぶ)が中国の梁の武帝から、征東大将軍に叙せられる。 |
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592年 |
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・飛鳥時代が始まる(崇峻天皇)。 |
600年 |
・倭王・阿毎が朝貢する。 |
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631年 |
・倭国が唐の太宗に朝貢する。 |
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648年 |
・倭国が新羅(朝鮮王朝)に遣使。 |
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650年頃 |
邪馬台王国とが大和朝廷に征服される。 |
・中国の書に「日本国」がはじめて登場。「日本は昔、小国だったが倭国を併合し、日本と改名した」とある。 |
650年以降 |
大和朝廷が日本の統一王権を確立する。 |
九州王朝説は、古田武彦氏によって提唱された、7世紀末まで九州に日本を代表する王朝があり、太宰府がその首都であったとする説です。
邪馬台国から5世紀の『倭の五王』までを九州に比定し、 本説はこれらを7世紀まで敷衍した点に特徴があります。 当初、九州倭国は白村江の敗戦により滅亡したと考えていたが、近年の九州王朝説では7世紀末まで存在したとする見方をとっています。
埼玉県の稲荷山古墳から出土した、鉄剣に刻まれていたワカタケル大王は、第21代天皇である雄略天皇だといわれています。 雄略天皇は、中国の宋に使者を送った『倭の五王』の武だと考えられており、倭王武は、朝鮮半島南部の支配権を認めてもらおうとして中国に使者を送ったと伝えられています。 考古学的には実在した最古の天皇だと言われている。 即位後も人を処刑することが多かったため、大悪天皇と言われていたという説もあります。
『古事記』と『日本書紀』が、原典とした「帝紀」や「旧辞」は、散逸して現存していないが、学者の多くはかつて実在したことを否定していないので、いつか発見されるのを楽しみにしています。
この度の『邪馬台国の九州説と畿内説 - ベネディクト地球歴史館』は、浅学菲才の自分を、古代史を身近にして頂きました。 この後は、中田力氏の『日本古代史を科学する』と、国会図書館のスタッフの方々にアドバイス頂きながら、国会図書館の書物で古代史を調べてみようと思っています。
(20201118纏め #248)