知る喜びと、撮る喜びのつぶやき通信  (読める限り読み文章にする。 歩ける限り撮り続ける『花鳥風月から犬猫太陽』まで)

興味のあることは、何でも調べて文章にする。   写真は「光と影」と言われるが、この理解には、まだまだ、ほど遠い.

『記紀1300年 神話と史実のはざま(このテーマが日経新聞に) 3』―中国史に記録が、九州王朝時代は神話時代~古墳時代の中半迄―

2020-11-18 19:36:26 | 歴史・日本

    『記紀1300年 神話と史実のはざま(このテーマが日経新聞に) 3』

     ―初代神武~15代応神までは神話の時代、16代仁徳以降は実在!-

 ―中国史に記録が残る九州王朝時代は、神話時代~古墳時代の半ばまで実在― 

 

倭国の平定、卑弥呼・邪馬台国を中ほどに、その前後を含み、数世紀続いた推定される『九州王朝』と、並行して栄えた『大和朝廷(ヤマト王権)』を邪馬台国の九州説と畿内説 - ベネディクト地球歴史館から、抜粋・引用し、今後の調査の参考にさせて頂きます。

■大和朝廷(ヤマト王権)

ウキペデイアから引用

橿原神宮内拝殿と幣殿。背景は畝傍山

中国・二十四史に「日本国(大和朝廷)」が登場するのは、650年以降である。では、どのような経緯で大和朝廷が成立したのだろう。 この時代、日本はまだ文字を持っていないので、考古学に頼るしかない。

西暦300年頃、奈良盆地に大規模な前方後円墳が出現する。 その後、400年頃、畿内でも造られるようになり、450年以降、全国に拡大する。 ところが600年頃には全く造られなくなるこれらの考古学的事実から、大和朝廷の歴史を推定すると ・・・。

大和朝廷は西暦300年に興り400年に畿内を制圧、450年頃から全国に勢力を拡大する。 そして、600年以降、前方後円墳が造られなくなるので、この頃に大和朝廷の権威が確立した。 これは、「592年に飛鳥時代が始まる」と一致する。

ということで、考古学的見地から、邪馬台国王統から大和朝廷への移行は西暦600年以降と考えられる。 これは、先の中国・二十四史の記述と一致する。では、どのような経緯で邪馬台国王統から大和朝廷に移行したのだろう。 ところが、前述したように、邪馬台国と大和朝廷の関係すら分かっていない。

ただ、仮説はいくつかある。

1.邪馬台国王統は大和朝廷よって滅ぼされた。
2
.邪馬台国王統が東征し、畿内を平定、大和朝廷を確立した。
3
.狗奴国が邪馬台国王統を滅ぼし、東征し、大和朝廷を確立した。

前方後円墳は西暦300年~600年にかけて、奈良を中心に広がっていくので、前方後円墳は邪馬台国王統とは関係がない。 だから、大和朝廷は邪馬台国王統とは独立した勢力で、併存していたと考えるべきだろう。 しかも、邪馬台国王統は中国の朝貢に熱心で、領土拡大の形跡がない。ということで、「邪馬台国王統は大和朝廷に征服された」

ただ、「邪馬台国王統が東征し大和朝廷になった」説には根拠がある。 日本書紀や古事記に、神武天皇が九州の日向から近畿へ東征したことが記されているからだ。 日本書紀と古事記は、大和朝廷を讃える書なので、その創始者が滅ぼされた畿内出身であるはずがない、というわけだ。

だが、別の考え方もある。奈良発祥の大和朝廷が日本を統一したが、古代に、中国王朝からお墨付きをもらったのは邪馬台国王統である。 それに敬意を払って「神武天皇東征記」が生まれたのかもしれない。

■邪馬台国王統と大和朝廷の比較年表

最後に、邪馬台国王統と大和朝廷を比較した歴史年表を記す。 この歴史年表を俯瞰(ふかん)すれば、

1.古代の日本は、中国から「倭」とよばれた。
2
.倭は九州政権で、「奴国 邪馬台国 邪馬台国王統」と続いた。
3
400年頃、奈良に大和朝廷が興り、邪馬台国王統と併存した。
4
.その後、大和朝廷は600年頃までに日本全国に権威を広めた。
5
650年頃、大和朝廷は邪馬台国王統を滅ぼし、日本を統一した。

これで、飛鳥時代以前の日本の歴史も明らかになった。もちろん、あくまで仮説だが。それでも、当たらずとも遠からずと思うのですが、いかがでしょう?

時期

邪馬台国王統(倭国)

大和朝廷(日本)

紀元前107

・倭は100余国からなる。
・中国王朝に定期的に朝貢。

 

57

・倭の奴国は中国の後漢に朝貢し、皇帝から金印を授かる。
※奴国は現在の福岡市近辺。

 

107

・倭王・帥升が中国の後漢に朝貢。
57年に後漢に朝貢した奴国のこと。

 

107180年頃

・帥升の流れをくむ奴国で男の王が7080年間、倭を支配する。

 

178184

・帥升の流れをくむ奴国の支配が終わり、内乱がはじまる。
※倭国大乱

 

189

・倭の内乱をおさめるため、女王・卑弥呼が立つ。

 

238

・遼東の公孫淵が謀反を起こし、帯方郡と楽浪郡を占領し、燕王を称する。
※倭と中国を結ぶルートが遮断され、倭が朝貢を中断。

 

2386

・倭の女王・卑弥呼が帯方郡に使者を送り、魏の皇帝に謁見することを願い出る。

 

2388

・魏の将軍・司馬懿が帯方郡と楽浪郡を奪還し、公孫淵一族を滅ぼす。
※倭と中国を結ぶルートが回復。

 

23812

・魏の皇帝が、倭の女王・卑弥呼を「親魏倭王」と認める。

 

247

・帯方郡の太守が魏の王都(洛陽)におもむき、倭の女王・卑弥呼と狗奴国の男王・卑弥弓呼(ひみここ)が攻防している様を説明する。
※狗奴国は邪馬台国の南方にあった宿敵。

 

240年~
249

・卑弥呼が死ぬ。
・その後、男の王が立つが、国中が服従せず、内乱状態に陥り、1000人余りが殺される。
・卑弥呼の宗女「壹與(とよ)」が13歳で女王になり、国の混乱は収まる。

 

300

 

・奈良盆地に大規模な前方後円墳が出現する。

351

・邪馬台国を継承した邪馬台国王統が中国に朝貢する。

 

396

・倭の五王の初代、讃(さん)が朝貢する。

 

400

 

・畿内で前方後円墳がさかんに造られる。

443

・倭の五王の3代、済(せい)が朝貢する。

 

450

 

・日本各地で前方後円墳が造られる。

462

・倭の五王の4代、興(こう)済が朝貢する。

 

479年~
482

・倭の五王の5代、武(ぶ)が中国の梁の武帝から、征東大将軍に叙せられる。

 

592

 

・飛鳥時代が始まる(崇峻天皇)。
・日本で前方後円墳が造られなくなる(大和朝廷が日本の大半を支配?)。
・国号が「日本」に変わる。

600

・倭王・阿毎が朝貢する。

 

631

・倭国が唐の太宗に朝貢する。
※倭国は昔の奴国と記述あり。

 

648

・倭国が新羅(朝鮮王朝)に遣使。

 

650年頃

邪馬台王国とが大和朝廷に征服される。

・中国の書に「日本国」がはじめて登場。「日本は昔、小国だったが倭国を併合し、日本と改名した」とある。

650年以降

大和朝廷が日本の統一王権を確立する。

九州王朝説は、古田武彦氏によって提唱された、7世紀末まで九州に日本を代表する王朝があり、太宰府がその首都であったとする説です。 

邪馬台国から5世紀の『倭の五王』までを九州に比定し、 本説はこれらを7世紀まで敷衍した点に特徴があります。 当初、九州倭国は白村江の敗戦により滅亡したと考えていたが、近年の九州王朝説では7世紀末まで存在したとする見方をとっています。

埼玉県の稲荷山古墳から出土した、鉄剣に刻まれていたワカタケル大王は、第21代天皇である雄略天皇だといわれています。 雄略天皇は、中国の宋に使者を送った『倭の五王』の武だと考えられており、倭王武は、朝鮮半島南部の支配権を認めてもらおうとして中国に使者を送ったと伝えられています。 考古学的には実在した最古の天皇だと言われている。 即位後も人を処刑することが多かったため、大悪天皇と言われていたという説もあります。

『古事記』と『日本書紀』が、原典とした「帝紀」や「旧辞」は、散逸して現存していないが、学者の多くはかつて実在したことを否定していないので、いつか発見されるのを楽しみにしています。

この度の邪馬台国の九州説と畿内説 - ベネディクト地球歴史館は、浅学菲才の自分を、古代史を身近にして頂きました。 この後は、中田力氏の『日本古代史を科学する』と、国会図書館のスタッフの方々にアドバイス頂きながら、国会図書館の書物で古代史を調べてみようと思っています。

                    (20201118纏め #248

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『記紀1300年 神話と史実のはざま(このテーマが日経新聞に) 2』―中国史に残る邪馬台国・卑弥呼の時代は神話の時代の真ん中!-

2020-11-18 18:59:39 | 歴史・日本

『記紀1300年 神話と史実のはざま(このテーマが日経新聞に) 2』

―初代神武~15代応神は神話の時代、16代仁徳以降は実在!-

―中国史に残る邪馬台国・卑弥呼の時代は神話の時代の真ん中!-

 

表題を調べるに当たって、先ずは、九州王朝と邪馬台国・卑弥呼から始めます。昔は学校でも詳しくは教わらなかった日本の古代史ですが、これからは、古代史初期の『倭国の平定(卑弥呼・邪馬台国)から東征➡出雲王国の国譲り➡大和王朝への流れ』を調べてみたいと思っています。 邪馬台国の九州説と畿内説 - ベネディクト地球歴史館に、大変興味のある情報を見つけましたので、今後の調査の参考にと備忘録に抜粋しました。 

 

邪馬台国の九州説と畿内説 - ベネディクト地球歴史館』の抜粋・引用です。

卑弥呼の歴史

魏志倭人伝の「邪馬台国ルート」と倭国大乱を素直に読めば、「邪馬台国の場所 九州中部から北部」は間違いない(と思う)。 また、中国の正史「二十四史」から倭の歴史年表を作ると、

57年~190年、中国から見た倭は「奴国」で、場所は福岡市近辺。
178年~184年、九州北部を中心に倭国大乱が起こった。
184年~、倭国大乱をおさめるため、国人は卑弥呼を女王に共立した。

景初二年(238年)6月、倭の女王が大夫を派遣して朝鮮半島の魏の拠点にもうで、魏の皇帝に朝貢することを求めた。 その年の12月、卑弥呼は使者を遣わし、男の奴隷4人、女の奴隷6人、布22丈を献上した。 魏の王はそれにこたえ、卑弥呼を「倭王」と認めた。

180年~、倭国大乱が勃発した。
・~189年、倭国大乱をおさめるため国人は卑弥呼を共立した。
239年、倭王・卑弥呼が初めて朝貢した。
240249年、卑弥呼は死んだ。
・~351年、倭は頻繁に朝貢した。

351年までは、倭の政権は卑弥呼、あるいは卑弥呼を継承した王統であった可能性が高い。 つまり、「九州政権」。 いつ、九州政権からヤマト王権(大和朝廷)に移ったか?

「倭の五王」は、中国・二十四史の「南史」、「宋書」にも出てくる。 では、この「倭の五王」とは一体誰をさすのか?「日本書紀」から、

・讃 履中天皇17代、日経新聞「イチから分かる天皇の歴史」から引用)
・珍 反正天皇18代、日経新聞「イチから分かる天皇の歴史」から引用)

・済 允恭天皇19代、日経新聞「イチから分かる天皇の歴史」から引用)
・興 安康天皇20代、日経新聞「イチから分かる天皇の歴史」から引用)

・武 雄略天皇20代、日経新聞「イチから分かる天皇の歴史」から引用)

とする説がある。 この説に従えば、396年には九州政権からヤマト王権(大和朝廷)に移っていたことになる。 ところが、中国・二十四史によれば、西暦600年以降、「倭」と「日本」が、明確に区別されている。 それを素直に読めば、

1.【倭】:邪馬台国・卑弥呼を継承する王統(九州政権)

2.【日本】:ヤマト王権(大和朝廷)

もし、これが事実なら、九州政権からヤマト王権に移った時期は、600年以降になる。

■空白の4世紀

邪馬台国の卑弥呼が死んだのは240249年。そして、日本の歴史が明らかになるのは592年以降(飛鳥時代)。 では、249年~592年の間、日本で何が起こっていたのか?

じつはこの間、確かなことは何もわかっていない。 266年~413年、中国の文献から倭の記述が消えてしまうからだ。 そのため、「空白の4世紀」と言われている。 ただ、中国・二十四史を丹念に読めば少なからず倭の記述がある。そして、その中に、この時代を明らかにする鍵が含まれているのだ。

さらに、卑弥呼が死んだ後も、邪馬台国または邪馬台国を継承した九州政権が存続し、中国に朝貢したことも確かである。 また同じ頃(300年)、奈良盆地に大規模な前方後円墳が出現する 前方後円墳は大和朝廷の象徴なので、この頃、奈良に大和朝廷(ヤマト王権)が興ったことは間違いない。 そして、この王権が飛鳥時代に継承され、今の王室につながっている。

遅くとも7世紀までに、邪馬台国を継承する九州政権から、大和朝廷(ヤマト王権)に移ったことは確かだが、それがいつ、どのような形で起こったか分からない。 邪馬台国と大和朝廷(ヤマト王権)の関係もはっきりしない。 邪馬台国から大和朝廷(ヤマト王権)までの空白の4世紀。 ここで、

1.「奴国 邪馬台国」を継承する九州政権を「邪馬台国王統」
2
.奈良で興った大和朝廷(ヤマト王権)を「大和朝廷」 

と呼ぶことにする。

■邪馬台国王統

中国・二十四史「北史」によれば ・・・。 239年、卑弥呼は初めて朝貢し、魏王から仮の金印を授かった。 240249年、卑弥呼が死んで、男王が立った。 ところが、国中が服従せず、互いに殺し合った。そこで、卑弥呼の宗女「臺與(とよ)」を王に立てると、混乱はおさまった。 その後、再び男王が立って、中国から爵位を拝命した。 その後も、中国への朝貢は続いた

 

以上を整理すると、卑弥呼が死んだ後も中国への朝貢が続き、600年には倭王「阿毎」が立った。 さらにその後、阿蘇山の話が出てくるので、倭王「阿毎」の国は九州とみていいだろう。 ということで、600年頃、中国からみた倭は、まだ邪馬台国王統だった可能性が高い。

つぎに、中国・二十四史「旧唐書」をみてみよう ・・・。 倭国とは古の倭の奴国である。 四方の小さな島々と五十余国が、この奴国に属している。 その王姓を「阿毎」といい、諸国はみな畏怖している。西暦631年、遣使が方物を献じた。648年、また新羅(朝鮮王朝)に倭の使者が来た。

この部分は重要だ。「倭国」は昔の「奴国」のことで、王姓を「阿毎」といい、631年と648年に遣使した、とはっきり書いてある。 先の「北史」と読み合わせれば648年までは、中国から見た倭は奴国を継承する邪馬台国王統」は間違いない。 そして、600年の王は「阿毎氏」だった。 また、倭王「阿毎」の名は中国・二十四史の「隋書」にも登場する

この「倭の五王」と誰をさすのか?「日本書紀」に出てくる大和朝廷の大王(おおきみ)の系譜から、前述の通り。

この説に従えば、396年には、倭の政権が邪馬台国王統から大和朝廷に移っていたことになる。 ところが、前述した中国・二十四史によれば、648年、中国から見た倭はまだ邪馬台国王統である。しかも、倭の五王の名「讃、珍、済、興、武」は見るからに中国風。大和朝廷とは考えにくい。この時代、邪馬台国王統は中国の遣使に熱心だったので、中国に敬意を表し、中国名に変えたのかもしれない。というわけで、倭の五王は邪馬台国王統と考えるのが自然だじつは、それを裏付ける決定的な証拠がある。

「旧唐書」はさらに続けて ・・・日本国は倭国の別種である。 その国は「日の出(いずる)」の場所にあるので、日本と名づけた。また、倭国はその名が雅(みやび)でないことを嫌い、日本に改名したともいう。 日本は昔、小国だったが倭国の地を併せたという。

この記述は決定的だ。 648年の倭国の遣使の後、初めて「日本国」の名が出てくる。 しかも、「日本は昔小国だったが、倭国を併合し、日本と改名した」
とある。 この「倭国を併合した国」が、大和朝廷と考えて間違いないだろう。つまり、後の大和朝廷(ヤマト王権)は、小国(奈良 畿内)から始まり、倭国(邪馬台国王統)を併合し、日本に改名したのである。 
ということで、「邪馬台国王統から大和朝廷に移行したのは西暦650年頃

現存する国内最古の歴史書は、『古事記』と『日本書紀』だが、記紀編纂以前にも歴史書はあったようですが。  原典とされる「帝紀」や「旧辞」は、散逸して現存していないが、学者の多くはかつて実在したことを否定していない。

今回のこの情報、邪馬台国の九州説と畿内説 - ベネディクト地球歴史館は、最もロマンのある古代史に入りやすくさせて頂きました。

                          (20201118纏め #247

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『視力5.0のヒトはいるか、動物は?(謎が深まり・夢が残った)』ーシンガポールに近い、インドネシアのバタム島での貴重な体験ー

2020-11-18 07:34:29 | 人間・人類

   『視力5.0のヒトはいるか、動物は?(謎が深まり・夢が残った)

   ―シンガポールに近い、インドネシアのバタム島での貴重な体験

バタム島 シンガポールの南海岸から約20キロメートルのリアウ諸島内に位置しており、自由貿易地域に指定されている。バタム島の人口は110万人を超えており、その大部分がマレー人 (85%) と中国人 (14%) であるが、少数の土着のラウトロ族も島中に住んでいる。

昔、インドネシアのバタム島のゴルフコースでプレイしたことがあります。 若い女の子のキャディが、遥か遠くのボールを見つけるのに驚き、現地の方に聞いてみますと「視力5.0」と言われました。

 

先ずウエブ情報です。

視力5.0というのは、実際あり得る話だと思います。


視力検査の際に使われている検査表では2.0までしか計れないものが一般的ですが、これは2.0以上の視力を測定しても"あまり意味がない"ということだと思います。(視力が1.0前後あれば十分日常生活は可能ですし)

ちなみに。「視力」というのは、「離れた二つの点を識別する能力」のことです。日本で一般的に使われている視力検査表(C型マーク(ランドルト環)を用いているもの)では、切れ目の部分の間隔がすなわち「離れた二点の間隔」と考えられます。

具体的に挙げますと、「視力1.0」の人というのは、「5m先にある1.5mm離れた2つの点を識別できる」となります。
これを基にしますと、「視力5.0」の人というのは、「5m先にある0.3mm離れた2つの点を識別できる」となるそうです。

霊長類ではヒトは、他の霊長類・サル類より視力はよく、それでも猛禽類には、とても敵わないと言われています。 が、動物の視力測定は難しそうです。

 

デジタルテレビ映像も、デジタル写真のスチール画像も、ムービー画像においても、際限のない画素数増の競争が続いています。  一般には画素の「数」に拘泥しますが、メーカーも、ユーザーも画素・撮像素子の大きさも考慮して貰いたいものです。

 

大きな画素と大画面は「メーカーは生き残りのために『一見、または部分的にはエコ』をいつも、『全体的エコ』のように宣伝する」が、これは如何と、問いたいと思います。

 

大画素数とヒトの目の視力の限界を比べ、その画素数増競争と大画面化は本当に「エコ」時代の中で正しいのか考えてしまいます。

 

今日の家電量販店のメインエントランスのフロアは、高性能・高機能化するスマホ&パソコンに占拠され、 日本の住宅事情では不必要なほどに大型化されたテレビは、その上か下のフロアに「格下げ」されています。

 

展示されているのは大半が4K(正確には4K2K)テレビです。  これらの4K テレビでは鮮やかで目立つ映画映像が映され、主流ではなくなった、ハイビジョンテレビや、フルハイビジョン(2K1K)には、ソフトで、比較的目に優しい普通のテレビ放送映像が映されている。 売るための作戦も見事です。

 

韓国LG電子は、すでに有機ELテレビを販売しています。 これもギラツク鮮やかな映像でした。 このギラツク映像は、ソフトでも加工ができそうです。将来の8K4K テレビとすでに販売された4K有機ELテレビの普及で、どちらが先になるか、興味津々です。

 

キャプションからは外れますが

このLG電子の元気さを見て、思い出しました。韓国勢の元気さは、原発にもあります。 今年33日に原発輸出をサウジと調印、これがなんとスマート

原発、空冷型原発2基、将来は17基にとありました。

これはトップセールス・ウーマンパワーの賜物です

 

昨年325日の日立社のプレスリーリスで「原子炉自然冷却システムの実用化に向けた空冷技術を開発」とありました。   あれから一年・・・。 

 

視力と同様に、不断の努力が欠けると追い越されるのが「技術」と「営業力」です。

 

この空冷でもさえも、使用済み燃料の処理問題は残ります。 

 

視力と同様に、為政者には、遠くを見据えた超長期のビジョンをもって欲しいものです。

            (20150709纏め、20190312改追補 2020118追補 #092)

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