知る喜びと、撮る喜びのつぶやき通信  (読める限り読み文章にする。 歩ける限り撮り続ける『花鳥風月から犬猫太陽』まで)

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『大阪冬の陣絵図・大阪城に敗色見えず・豊臣勢の有利な場面多い』 「この絵図が勝者の徳川方に残った、発注者は、作者は誰?」

2021-09-18 11:00:50 | 歴史・日本

        『大阪冬の陣絵図・大阪城に敗色見えず・豊臣勢の有利な場面多い』

「この絵図が勝者の徳川方に残った、発注者は、作者は誰?」

 

描き掛けの『大阪冬の陣絵図』が発見され修復・完成しましたが、表題の謎が残りました。 回答はいろいろありますが、ここでは、今後の調査・勉強のためにリストしておきますが、最有力説は、多少疑問は残りますが、判官贔屓で『千姫説』です。

 

先ずはウェブ情報から引用

1614年の大坂冬の陣を描いた「大坂冬の陣図屏風」については、江戸時代後期に描かれた模写本が東京国立博物館に所蔵されているだけで、原本は行方不明です。 しかも、この模写本は、「狩野家に伝わっていた色の指示が書き込まれている未完成版(下絵)(大きな錦絵は当時すでに狩野派では分業制!)です。そこで凸版印刷が最新のデジタル技術を駆使し、昨年同屏風図を復元しました。

 

今回の展示では、デジタル想定復元された大坂冬の陣図屏風とともに、大阪城天守閣が所蔵する「大坂夏の陣図屏風」も展示しています。

 

1.「大坂冬の陣図屏風」の発注者は誰か?

❶「真田信之」説

「真田丸の活躍を中心に描いていること」から、真田家ゆかりの真田信之ではないかという推理です。 否「豊臣にはそれほどシンパシーがなかったのではないか?」。

 

❷「伊達政宗」説

「伊達政宗の家臣の片倉氏が真田信繁から娘を託されているし、伊達政宗は豊臣家に十分シンパシーを感じていた」と思われるからです。 否「ほとんど活躍しなかった冬の陣よりも活躍した夏の陣を描かせたのでは?」という疑問。

 

❸「徳川秀忠」説

「秀忠の陣がかなり大きく描かれていることと、あえて家康の存在を消すかのように家康の陣は半分しか描かせていないのが秀忠らしい」と推理します。 否「秀忠が描かせたにしては豊臣方が活躍し過ぎている」、「秀忠が描かせたのであれば、徳川家にきちんと原本が保存されているはず」。

 

❹「蜂須賀至鎮(はちすかよししげ)」説

「屏風中央下で戦闘している蜂須賀至鎮」、「彼は元々豊臣大名であったので、豊臣方に対するシンパシーもあるから」。 否「屏風に描かれている蜂須賀勢は、明らかにやられている」。

 

❺「千姫」説

「秀頼とともに過ごした大坂城には愛着があり、化粧料10万石と財力も十分にあった千姫が依頼者ではないか?」。 本命「家康も秀忠も千姫に対しては後ろめたさもあるので千姫の要求は拒めないし、千姫にとって大坂城は懐かしい夫との思い出の場でもあるから、千姫に懇願されて秀忠が渋々描かせた」。

徳川家にとっては「豊臣方の勝利」ばかりが描かれた恥になる屏風なので、千姫の死後密かに処分したということもありうる話です。

 

❻「豊臣秀頼」説

「冬の陣の後に豊臣秀頼が発注したが、翌年の夏の陣で秀頼が自決に追い込まれ、豊臣家が滅んでしまったため、完成品が作られなかった」という。 否「大阪城外で描かせていれば、可能性あり。

 

 

2.「大坂冬の陣図屏風」を描いた画家は誰か?

これは狩野家に伝わっていた屏風なので、「狩野派」の絵師が「下絵」(下書き)を描いた段階で、何らかの理由で中断したようです。上記の1.❻の「豊臣秀頼」説が正しいとすると辻褄が合います。

「大坂冬の陣図屛風」デジタル想定復元 制作:凸版印刷株式会社

ウェブ情報から引用

 

3.「大坂夏の陣図屏風」について

ウェブ情報から引用

(1)概要

左隻と右隻(上図)とがあり、各々150.3cm×360.7cmの大画面に、人物5071人、馬348頭、幟1387本、槍974本、弓119張、鉄砲158挺などが精緻に描かれています。

 

右隻には、1615年6月3日の大坂夏の陣の最後の戦いの様子が、左隻には、大坂城の落城間際と落城後の大混乱の様子が迫真的に描かれています。

この屏風の大きな特徴は、左隻全面に、逃げようとする敗残兵や避難民と、略奪・誘拐・首狩りをしようとする徳川方の兵士や野盗のいわゆる「乱妨取り(らんぼうどり)」が描かれていることです。 このような生々しい描写は、他の合戦図屏風には見られず、「戦国のゲルニカ」とも評されています。

 

(2)発注者

福岡藩の故実によると、徳川秀忠に属して合戦に参加し豊臣方と戦った黒田長政(1568年~1623年)が、この戦いを記録するために筆頭家老の黒田一成、または家臣の竹森貞幸に命じて当代一流の絵師を集めて描かせたということです。

 

(3)制作者

制作時期は、生々しい描写から陣後間もなくだと推測されています。描いたのは「八郎兵衛」なる絵師が一人で描いたとする説や、土佐派を学んだ「久左衛門」とする説、「八郎兵衛」と「久左衛門」の合作とする説、左隻だけはやや後に別の絵師が描いたとする説、同一工房内の複数の絵師が描いたとする説などがあります。

なお、左隻には「岩佐又兵衛風」が認められることから、又兵衛が制作に関わった可能性も指摘されています。 制作を命じられた黒田一成は、元々荒木村重の家臣の息子で、岩佐又兵衛が村重の息子というつながりを考えると、可能性は十分にあります。

 

表題の判断をするために大阪冬の陣と夏の陣を比較してみました。大袈裟ですがこの絵の描かせるのは千姫、黙認したのは秀忠だと思います。

 

大阪冬の陣  慶長19年(1614年)12月

全国からの浪人衆は約10万人に、大名格として「大坂城五人衆」の真田幸村・後藤又兵衛・明石全登・長曾我部守親・毛利勝永が中心。 大坂城周辺に砦を築き籠城する案」が採用され、淀川の堤を切って大坂城を浮城にしようとしたが失敗。

大阪冬の陣の両軍布陣 

ウェブ情報から引用

 

「大坂冬の陣図屛風」デジタル想定復元 制作:凸版印刷株式会社

ウェブ情報から引用

 

「大坂冬の陣図屛風」(東京国立博物館蔵) 画像提供:立正大学

ウェブ情報から引用

 

「大坂冬の陣図屏風」に描かれた色指示

ウェブ情報から引用

 

彩色復元した例

ウェブ情報から引用

 

大阪夏の陣  慶長20年(1615年)5月

「浪人の解雇」か「秀頼の国替え」という条件を出すも豊臣方はそれを拒否。 4月26日の「樫井の戦い」から大坂夏の陣が始まり「道明寺・誉田合戦」・「八尾・若江合戦」と続き豊臣方は追い込まれる。 5月7日の「天王寺・岡山合戦」では真田・毛利隊らが家康・秀忠の本陣近くに突撃し、家康は切腹を覚悟するまで追い込まれてその場から逃げる。 しかし、兵力に勝る徳川方が勢力を回復して形勢は逆転、豊臣方を壊滅にまで追い込む。

 

大阪夏の陣の両軍布陣

ウェブ情報から引用

 

大坂夏の陣図屏風 右隻部分

 

大坂夏の陣図屏風 左隻部分

ウェブ情報から引用

豊臣秀吉の辞世の句『露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことは 夢のまた夢』を思い出しました。

(記事投稿日:2021/09/18、#387)


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