知る喜びと、撮る喜びのつぶやき通信  (読める限り読み文章にする。 歩ける限り撮り続ける『花鳥風月から犬猫太陽』まで)

興味のあることは、何でも調べて文章にする。   写真は「光と影」と言われるが、この理解には、まだまだ、ほど遠い.

『西ベルリン包囲の壁は市民拘留、昔のベルリン城塞は市民の守り』 「近世の三大都市は、ベルリン・ロンドン・ニューヨーク、東京は?」

2021-09-16 22:55:39 | 歴史・世界

『西ベルリン包囲の壁は市民拘留、昔のベルリン城塞は市民の守り』

「近世の三大都市は、ベルリン・ロンドン・ニューヨーク、東京は?」

先ずは、東京の東西分割占領などは、絶対ありえなかったと思う前に、第二次世界大戦終了後の日本本土を連合国(アメリカ合衆国、イギリス、ソ連、中華民国)のが分割統治しようとした計画案は、1945年8月16日、完成とともに消滅した『日本分割占領計画』の衝撃を忘れてはいけないと思います。 当時は凄い日本人の為政者が居りました。

ベルリンの壁は、ベルリンを東西に仕切る直線の南北の直線と錯覚していましたが、実は、西ベルリンを取り囲む総延長155キロメートルにわたる壁が建設され、それまで自由におこなうことができた東西ベルリン間の交通は遮断され、多くの人々が一夜にして家族や友人たちと引き裂かれることになった不幸の壁でした。

 

1685年ころのベルリン(十三稜郭が珍しい・稜数は世界最多!)

ウエブ情報から引用


こちらは城塞が完成したベルリンの地図です。この地図を作製したラ・ヴィーニュ について詳細は不明ですが、城塞完成の直前に働いていたユグノーの技師ではないかと想像されています。 この工事と並んで、シュプレー川とオーダー川を結ぶ運河(も掘削され、ベルリンはさらに交易拠点としてのウェイトが増しました。

完成したばかりの城壁の西側に新市「ドロテーア・シュタット」の建設が進んでいます。 後のメインストリート「ウンター・デン・リンデン」となる菩提樹の並木道もはっきりとその形を見せています。 都市ベルリンは西へ西へと拡大していきます。 実は、工事が完成するころには戦具・重砲の発達により城塞は防御施設としての意味を失いつつあり、むしろ町の発展を邪魔するものとなり始めていたのです。

 

ベルリンの壁の位置はどこ?東西ドイツの境界線上?

エブ情報から引用

冷戦時代、ドイツは「東ドイツ」「西ドイツ」に二分されていました。そのため、ベルリンの壁とは、この東西ドイツを二分する壁のことであると勘違いしがちです。 しかし、そんな壁は存在しません。 その名の通り、ベルリンの壁があったのは、ドイツの首都ベルリンで、二分していたのは、西ベルリンと東ベルリンです。 人類はいろんなことをしてきました。 これからの歴史の理解は、地図と歴史の切り離しはできないようです。 傘寿の悟りです。

                  (20210916纏め #385)


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 『花の世界 10(生け花、昔... | トップ | 『大阪冬の陣絵図・大阪城に... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

歴史・世界」カテゴリの最新記事