知る喜びと、撮る喜びのつぶやき通信  (読める限り読み文章にする。 歩ける限り撮り続ける『花鳥風月から犬猫太陽』まで)

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『スーパースター、ブルース・リーが惚れた女優・愛した女優 2』 ―ブルース・リー(李小龍)はプレイボーイ(花花公子)ではなかった―

2020-12-28 18:10:24 | 映画

 『スーパースター、ブルース・リーが惚れた女優・愛した女優 2』

―ブルース・リー(李小龍)はプレイボーイ(花花公子)ではなかった―

 

先ずは、ブルース・リー(李小龍)のプロフィール;

生年月日:1940年11月27日

死没:1973年7月20日

墓地:シアトル

出身地:イギリス領香港九龍

職業:武道家・アクション俳優・脚本家・映画プロデューサー

ウエブ情報(ブルース・リーとノラ・ミャオの画像)から

 

東南アジア・香港では、生涯に二人の美人女優を、映画の中ではありますが、見ることが出来ました。 その一人が、ブルース・リーが惚れた女優でした。

 

香港の駐在中に魅せられた女優、ノラ・ミャオ(苗可秀、19520208- )は、香港出身の女優・司会者。 本名は陳詠嫻。 芸名の由来は、「苗が成長し、秀でる ⇒ 苗可秀」と名付けたことから。 苗は所属していたゴールデン・ハーベストの「ハーベスト」を、中国語に訳した「芽」から肖っていいます。

ウエブ情報(ブルース・リーとノラ・ミャオの画像)から

 

もう一人は、ずっと先輩です。 のっけから余談・表題から脱線で恐縮です。 香港の駐在を決めたころの憧れの女優が尤敏(ユーミン、 19370419 - 19961229 )は香港生まれの映画女優でした。 1950年代から60年代にかけて、香港映画界(北京語映画)で活躍した『香港の真珠』と呼ばれたスター女優。 

結婚後はすぐ引退されましたが、香港の『カノッサ医院』でご本人に遭遇したことがあります。 それ以来これほどの美人女優には、残念ながら香港では、会う機会がありませんでした。 時代が変わったのでしょうか。 日本の有名な歌手『ユーミン』もこの方の名前からの由来と言われています

ウエブ情報(香港の女優ユーミンの画像)から

惚れた女優・ノラ・ミャオ(苗可秀)、後に台湾でテレビの司会者に

ウエブ情報(ブルース・リーとノラ・ミャオの画像)から

 

愛した女優・ベティ・ティン・ペイ(丁珮)

さて、香港の噂ツバメの噂で誤解していた、『ブルース・リーが愛した女優』のウエブ情報です。

ベティ・ティン・ペイ(丁珮)、ブルース・リーが死の直前に関わった女優。

1945年生まれ。 台湾の裕福な家庭に育ち、国立芸術専門学校を経て女優となる。 しかしスターとして成功する直前、愛人と噂されていたブルース・リー(李小龍)が彼女のマンションで倒れ、そのまま死去した事により、スキャンダル女優として世間に名前をとどろかせてしまった。 事件後、非難が集中したため一時期間身を隠していたが、『実録ブルース・リーの死』という彼女原案の作品に、ベティ本人の役で出演。 この作品が物議をかもし、その結果として香港映画界にいられなくなり、台湾に戻る。
台湾で女優として活動し、80年代前半まで女優業は続けたが、結局はスキャンダル女優のイメージは拭えず、引退して仏門に入った。

ウエブ情報(ベティ・ティン・ペイの画像)の引用

 

ブルース・リー(李小龍)本人が主演した香港カンフー映画『ドラゴンシリーズ』は4作品です。

 

『ドラゴン 危機一髪』1971

アメリカから香港に凱旋したブリース・リーがゴールデン・ハーベスト社と契約して主演した一連のカンフー映画の第1作目にあたる。 香港では、当時の映画興行記録を更新する大ヒットとなり、続く『ドラゴン怒りの鉄拳』で、リーの人気を不動のものにした

 

ストーリーはタイを舞台に、製氷工場を隠れ蓑にして麻薬を密売しているギャングの一味に、次々と従兄弟達を殺されたチェン(ブルース・リー)が怒りを爆発、ギャングのボス(ハン・インチュ)やドラ息子(トニー・リュー)に復讐の闘いを挑む。

 

この映画の、共演主演女優は(右)マリア・イー(衣依)、惚れた女優(左)のノラ・ミャオ(苗可秀)は路上屋台の氷菓子売りの娘役(チョイ役)で特別出演。

ウエブ情報『ブルース・リーとマリア・イーの画像』から

 

『ドラゴン 怒りの鉄拳』1971

ウエブ情報『ブルース・リーとマリア・イーの画像』から

 

前作『ドラゴン危機一髪』の大ヒットを受け、ブルース・リー主演の第2作。前作から4か月後の1972年3月、香港で封切られるや興行記録を2週間で塗り替え、アジア全域で大ヒットとなる。

 

ストーリーは、20世紀初頭、清朝末期の上海で、精武館(上海精武体育会の前身である上海精武体操学校がモデル)の創始者中国武術の大家・霍元甲が謎の死を遂げた。その死を聞いて遠方から駆けつけた愛弟子の陳真(ブルース・リー)は、師の突然の死に疑問を抱き、日本人柔道場が死んだ師を侮辱したこともあって、日本人柔道場に単身、殴り込みをかける。

 

そんな抗争中、創始者中国武術の大家・霍元甲の娘(ノラ・ミャオ)は野宿している陳真を見つけ、幼いころから惹かれあっていたふたりは口づけをかわすが、陳真は敵のボス鈴木を倒すため、再び単身、日本人道場に殴り込み、これを倒す。

しかし精武館に戻った陳真を待っていたのは、精武館の存続と引き換えに、陳真をその場で射殺しようとする官憲の銃口であった。

 

ブルース・リーの数ある映画作品の中でのキスシーンはこれだけです。 丁度半世紀前ですので、東南アジア、香港でも、中国映画にはキスシーンはご法度ような状況でしたので貴重なカットでした。

ウエブ情報『ブルース・リーとノラ・ミャオの画像』から

 

『最後のブルース・リー ドラゴンへの道』1972

『ドラゴン危機一髪』、『ドラゴン怒りの鉄拳』で成功を収めたブルース・リー設立したコンコルド・プロダクションの第一回作品であり、リーが初めて監督・脚本・武術指導・主演の四役を務めた。

ウエブ情報(ブルース・リー ドラゴンへの道の画像)から

 

『燃えよドラゴン』1973

1973年に公開され、世界各国で大ヒットとなった。 ブルース・リーとカンフーが世界的なブームとなり、多くのフォロワーが生まれた作品である。 ゴールデン・ハーベスト傘下でブルース・リーが主宰するスタープロ、コンコルド・プロダクション(香港)とワーナー・ブラザーズ(アメリカ)の合作。

 

ストーリーは、少林寺の高弟で武術の達人であるリー(ブルース・チー)は国際情報局にかつて同じく少林寺で武術を学びながらも悪の道に手を染め破門となったハン(シー・キエン)が所有する島で3年に1度開催する武術トーナメントの参加を依頼される。 トーナメントの参加は表向きで、犯罪行為の疑いがあるハンの島の内偵をして欲しいという依頼に対してリーは消極的であったが、帰郷した際に家人から、数年前に妹スー・リン(アンジェラ・マオ)がハンの屈強な手下オハラ(ボブ・ウォール)と仲間達によって追い詰められた末に自害を遂げた事を聞き、ハンへの復讐をする。

ウエブ情報(ブルース・リー 燃えよドラゴンの画像)から

 

武道家・アクション俳優・脚本家・映画プロデューサーであった、ブルース・リーは、伝説になっても、ノラ・ミャオ(苗可秀)とベティ・ティン・ペイ(丁珮)の二人に恋して・愛した一人の人間でした。 ブルース・リー(李小龍)は、決してプレイボーイ(花花公子)ではなかった。

                     (20201228纏め #265-2)


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