『小泉八雲 漂泊の果てにたどり着いた神々の国日本で精神性の豊かさ発見』
『ギリシャ生まれの感性で「神々の国の首都に住まふ443日」の足跡が凄い』
62年ぶりの松江・出雲の旅で、是が非でも立ち寄りたかったのが、『小泉八雲記念館』と『小泉八雲旧居』です。 松江城の鬼門である水ノ手門跡の必見『巨大、食違い石垣』の目と鼻の先にありました。
小泉 八雲(こいずみ やくも、1850/06/27 – 1904(明治37年)/09/26)は、ギリシャ生まれの新聞記者(探訪記者)、紀行文作家、随筆家、小説家、日本研究家、英文学者。
八雲が居間として使用の、9畳の部屋からは三方(の南側・左と、西側・右)に日本庭園を望む
ウエブ情報から引用
八雲が居間として使用の、9畳の部屋からは三方(の北)に日本庭園を望む
ウエブ情報から引用
昔、夢中になって読んだ本と、俳優が変わるたびに、何度も見た映画が『怪談』でした。 『怪談』は、小泉八雲が著した怪奇文学作品集、最晩年の1904年に出版された。 八雲の妻である節子から聞いた日本各地に伝わる伝説、幽霊話などを、独自の解釈を加えて情緒豊かな文学作品としてよみがえらせ、17編の怪談を収めた『怪談』と3編のエッセイを収めた『虫界』の2部からなる。
1890年から晩年14年間は日本で大活躍され、この間、1896年には松江の士族の娘、小泉セツと正式に結婚し、日本に帰化。 三男一女に恵まれます。 著作家としては、翻訳・紀行文・再話文学のジャンルを中心に生涯で約30の著作を遺しました。
大活躍・波乱万丈の54年の生涯年譜抜粋
- 1850年– ギリシャにて誕生。
- 1967年- 大叔母の破産でダラム大学セント・カスバーツ・カレッジを退学。
- 1869年- 米国のニューヨークへ移民船で渡り、シンシナティに。
- 1872年- トレード・リスト紙の副主筆。
- 1874年- インクワイアラー社に入社。 黒人マティとの結婚で、正式な届け出が受理された形跡はない。
- 1875年- マティとの結婚も一因となり、インクワイアラー社を退社。
- 1876年- インクワイアラー社のライバル会社だった、シンシナティ・コマーシャル社に入社。
- 1882年- タイムズ・デモクラット社の文芸部長になる。
- 1884年- 8月末から1か月余り、メキシコ湾内のグランド島に滞在する。ニューオーリンズで開催された万国博覧会の会場で高峰譲吉に会う。
- 1890年- 世界一周旅行の世界記録を無理やり競わされた女性ジャーナリストのエリザベス・ビスランド(アメリカ合衆国でのハーンの公式伝記の著者)から旅行の帰国報告を受けた際に、いかに日本は清潔で美しく人々も文明社会に汚染されていない夢のような国であったかを聞き、ハーンが生涯を通し憧れ続けた美女でもあり、かつ年下ながら優秀なジャーナリストとして尊敬していたビスランドの発言に激しく心を動かされ、急遽日本に行くことを決意する。 なお、来日の動機は、このころ英訳された『古事記』に描かれた日本に惹かれたとの説もある。
- 7月、アメリカ合衆国で知り合った服部一三(この当時は文部省普通学務局長)の斡旋で、島根県尋常中学校(現・島根県立松江北高校)と島根尋常師範学校(現・島根大学)の英語教師に任じられる。
- 8月30日、松江到着。
- 1891年
- 1月 - 中学教頭西田千太郎のすすめで、松江の士族小泉湊の娘・小泉節子(1868/02/04 – 1932/02/18)と結婚する。 同じく旧松江藩士であった根岸干夫が簸川郡長となり、松江の根岸家が空き家となっていたので借用する(1940年、国の史跡に指定)。
- 11月、熊本市の第五高等中学校(熊本大学の前身校。 校長は加納治五郎)の英語教師となる。 熊本転居当時の家は保存会が解体修理を行い、小泉八雲熊本旧宅として復原され、熊本市指定の文化財とされた。
- 1894年– 神戸市のジャパンクロニクル社に就職、神戸に転居する。
- 1896年– 東京帝国大学文科大学の英文学講師に就職。 日本に帰化し「小泉八雲」と名乗る。秋に牛込区市谷富久町(現・新宿区)に転居する(1902年の春まで在住)。
- 1903年- 東京帝国大学退職(後任は夏目漱石)。 1月15日付、東京帝国大学学長・井上哲次郎名で、解雇通知を受け取る。3月、英文科の学生数名が八雲の留任を請うが、結局3月31日、東京帝国大学講師を辞す。
- 1904年 - 2月、早稲田大学講師として招聘され、3月9日より出勤。
4月、『怪談』を出版。
9月、『日本―ひとつの解明』が出版される。09/26 - 狭心症により東京の自宅にて死去、満54歳没。
『知られぬ日本の面影』(Glimpses of Unfamiliar Japan )は小泉八雲が来日後初めて著した作品集。 1894年に出版された。 日本語訳は他にも『知られざる日本の面影』『日本瞥見記』などがある。 『怪談』『心』と並ぶ八雲の代表作の一つ。 出雲地方と松江でのエピソードを中心に描かれている。
ウエブ情報にある『出雲』の由来の抜粋引用です。
出雲(いずも)は、かつての令制国の出雲国にあたる地域。 現在の島根県東部にあたり、雲州(うんしゅう)とも呼ばれる。 出雲(いずも)という地名は、「八雲立つ出雲」と言われるように、美しく雲が湧き出る様子から名付けられたというのが一般的である。
日本に来て6年目の1896(明治29)年、ようやくその願いが叶い日本国籍を取得し、“小泉八雲”と改名を果たします。 “小泉”は妻・セツの姓であり、“八雲”は日本最古の歴史書『古事記』の中にある、八雲が日本に来て初めて住んだ土地、松江の伝説に由来する『八雲たつ 出雲八重垣妻ごみに 八重垣作る その八重垣を』の出雲にかかる枕言葉からとったものだそうです。
他方、一説には、出生名はパトリック・ラフカディオ・ハーン (Patrick Lafcadio Hearn)。ラフカディオが一般的にはファーストネームとして知られているが、実際はミドルネーム。 この『ハーン』が『ハウン』と読めるので『八雲(ハウン)』と漢字を充てたともいわれ、こじつけの様にも見えますが、捨てがたいものです。
稀代の博識多才の小泉八雲のこと、ますます興味津々です。
(記事投稿日:2023/02/19、#628)
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