原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

再掲載「ディズニーリゾートに見る若者の“似非”同調思考」と、現在の我が思い…

2024年04月17日 | その他オピニオン
 冒頭から、「原左都子エッセイ集」2011.02.03 公開の上記バックナンバーを、以下に引用しよう。



 昨日(2011.02.03)、私は“千葉県”にある 東京ディズニーシー を訪れた。
 いい年をした大人がこんな寒い時期に、一体全体何が目的で“子供が喜ぶ”リゾート施設なんぞへ行ったのだろうかと不思議に思われる読者の方も多いことであろう。
 一昨日の2月1日から東京都内の私立中学の受験が一斉に実施されている。 その煽りで、毎年この時期は我が娘が通う私立中高も全校2連休とならざるを得ないのだ。
 我が娘は決して“ディズニー分野”に興味がある部類ではないのだが “ものは試し” ということで、一度ディズニーリゾートをこの空いている時期に視察しておこうかと言う話になったのである。

 参考のため、ここで原左都子の 東京ディズニー歴 を少し振り返ってみることにしよう。
 東京ディズニーランドが“千葉県”にオープンしたのは1983年の事である。 
 オープン当初は、特に首都圏近辺の国民の間ではまるで歴史的出来事かのような大騒ぎだったものだ。
 当時まだ独身だった私も(彼氏を取っかえひっかえしつつ)、カップルで何度かディズニーランドを訪れている。 その頃の印象では顧客層は千差万別であり、特に顧客の年齢層やグループ構成に偏りはなかったような記憶がある。 そしてまだまだ若かりし原左都子は、テーマアトラクションにもよるがそれなりに感激し楽しめたものである。

 その後私が東京ディズニーランドを訪れるのは、我が子を産んだ1990年代半ば頃からの事となる。 その後娘が小学校高学年頃まで親として現地に何度か同行したものだ。 この時代は母である私はあくまで引率者の立場であり、自分が楽しむと言うよりも我が子が好みのアトラクションやショップに付き合ったという感覚である。
 この頃からディズニーリゾートでは、アジア系の観光客が急増しつつあったであろうか?

 そして昨日、何年ぶりかに“ディズニーシー”へは 初めて 母娘で訪れたといういきさつである。
  その日は東京都内の私立中学受験の煽りか、“ディズニーシー”の顧客層に明らかに偏りがあったと考察できる。
 それが顕著化するのが各アトラクションの待ち時間なのだが、あの“順番待ち”の列の場とは原左都子にとっては得意の「人間観察」のまたとはないチャンスだ。 ところが昨日の場合、周囲の顧客層が上記のごとく(おそらく)私立中高生徒グループばかりなのだ。 「観察」などせずとて“かしましい”年頃の言動が狭い列の間で煩いばかり…。

 皆が皆、ディズニーキャラのカチューシャやリボン、帽子を頭に被り、手にはその種のぬいぐるみ等を抱いている。 これが女の子の場合はまだしも許される思いの原左都子だが、男子までもが(皆さん、中高生の年齢の男子ですよ!)同じようにディズニーキャラの帽子を被ったりしてはしゃいでいるのだ…  
 (これぞ、男子草食化のはしりか!) などと嘆いている場合ではない。

 さらに、この若年層グループがくっちゃべる会話のその内容とは呆れるばかりにアホらしくて聞いてられないのだ。  何と表現すればいいのだろう、要するに世間の主婦連中の井戸端会議の範疇を抜け出ていないのである。 もちろん、ここはリゾートの場である。こんな所で自分達が抱えている現実課題について語る訳もないであろうし、「今皆で楽しんでいるんだ!」という“場を読む”感覚は重要であろう。
 ただ、原左都子は聞き逃していない。 一見してこの中高生グループは皆仲が良さそうに見えるのだが、会話の中に「えーと? ○○さんは何処に住んでいるんだっけ?」等の会話も交錯する。 と言う事は、おそらくこれら若年者グループは“にわか仕立て”のグループであるとも推測できよう。(あるいは、この若年層が個人情報に配慮しているのか??)
 そうだとすると、この若年層グループがこの場で会話の内容にある程度以上踏み込めない事も理解できるというものだ。 (ただし、順番待ちの狭い列という場をわきまえず集合写真を撮ったり大声ではしゃいで列を乱している様子も合わせて考察すると、彼らが決して周囲の顧客に配慮して会話内容を深くまで踏み込まないよう調整しているのではなく、ただ単にグループが“にわか仕立て”であるが故なのであろう。)

 加えて興味深いのは、そんな若年層がリゾートの係員の指示には従順だと言う事だ。
 例えばあるアトラクションで集団で船に乗った時、係員が「はい、皆さん、チャオと言いましょう!」と声高々に指示すれば、若年層の皆がそれに従う…。 (いえいえ、もちろん客観力のある原左都子も“場を乱さない”ために一緒にそう叫びましたよ!) そして、やたらと「楽しいね!」「面白いね!」を皆が連発してノリノリであることを集団内で合意し合っているようにも見受けられた…
 だた、これに関しても私は表題に掲げた通り若者のその言動が「“似非”同調志向」の範疇を出ていないと考察して後味が悪い。 年齢を重ねた私がリゾートの地で客観力を持って周囲に同調する分には何ら不思議はないのだが、もしもうら若き中高生が自分の居場所を失わないために、ここはリゾート地だと割り切って演技で同調しているのだとすれば、それは若者のストレスを倍増させるのみだ…

 (途中、大幅略)   
 
 この長引く不況の時代にもかかわらず「東京ディズニーリゾート」は不況知らずの盛況ぶりだ。
 既に年老いている原左都子にとっては、昨日訪ねた“ディズニーシー”は子供達が同調し合うほど楽しくも面白くもなく、それ程の魅力を感じるコストパフォーマンスを見出せなかったと言うのが、残念ではあるが今回の率直な感想である。

 それでも今に至って尚活況を続ける「東京ディズニーリゾート」が、将来に夢を抱く子供達に何らかの影響力を及ぼす場であるとするならば、その“社会的責任”を背負うリゾート団体としての使命を重々自覚しつつ今後発展して欲しい思いでもある。

 (以上、「原左都子エッセイ集」2011年バックナンバーより一部を引用したもの。)



 話を、2024年の現代に移そう。

 当の昔に我が一人娘は自立して、我が家から出て行ったし。

 いまに至っては、「東京ディズニーランド」」とは何らの縁も無い人生に至っている私だが。
 
 それでも、「東京ディズニーランド」とは今尚営業を続行していると把握している。


 もしも私に孫がいたとして、その孫が「ディズニーランドに連れてって!!」などと嘆願したならば。
 おそらく、我が老夫婦もそれに喜んで従う事であろう!!?

 残念ながら、未だ(おそらく今後も)孫には恵まれないであろう事実を実感してそれを既に受け入れている立場にして。

 今となっては、「ディズニーランド」との夢?の世界は。
 我々夫婦や、(おそらく我が一人娘にとっては)。

 遠い過去に夢をもたらせたくれた、今となっては過ぎ去さりし「遠い夢の世界」となり果てた存在と結論づけられそうに思う…


2024 あけましておめでとうございます

2024年01月01日 | その他オピニオン
 (冒頭写真は、2024.01.01 朝7時に原左都子が集合住宅上階の我が家バルコニーより撮影した “2024初日の出”。)



 皆様、2024 新年あけましておめでとうございます。

 今年も何卒よろしくお願い申し上げます。



 元旦 今朝のテレビ番組内で富士山の初日の出を放映していたようだが。

 なんのなんの、大都会東京の高層ビル群の隙間から覗く初日の出も十分に風情があるのではなかろうか。


 参考のため、こちらの写真は新宿副都心のビル群を初日の出と同時に撮影したものです。

         

 新宿副都心から直線距離で約4~5kmのこの地に引っ越してきて、既に22年程の年月が流れている。
 新宿副都心のビル群は、この22年の年月の経過と共に急速な勢いで数を増しているのだが。
 引っ越し当初に比して、おそらく数倍の超高速ビルが立ち並んだ感覚がある。
 今や、新宿を中心に東は池袋や上野・浅草方面、西は中野・高円寺方面まで超高層ビル群がズラリと並んでいる光景だ。


 本日の元旦は晴天ではあるものの、東京では冷たい北風が吹いているようだが。
 
 午後になって北風が収まったならば、初ランニングに出かける予定です。 


郷里の実母へプレゼントとして送った「財布」が自宅郵便受けに返却されるトラブル発生

2023年12月27日 | その他オピニオン
 一昨日の12月25日月曜日夕刻の事だ。


 外出から我が家へ帰宅した私は、いつものように真っ先に集合玄関の集合郵便受けを開け、配達された郵便物や新聞夕刊を取り出そうとした。

 そうしたところ、何故か私が12月22日金曜日に近くの郵便局から郷里実母へのクリスマスプレゼントとして送った「財布を入れた封書」が返却されていた。
 こういう場合、いつもは郵便局から「返却の理由」が書かれたシールが貼られているのに、今回は何も貼られておらず。 私が近くの郵便局から送った封書が輸送中に傷んだ形でそのまま返却されていた。

 私が自分で切手を貼って郵便ポストに投入したのではなく。
 郵便局にて郵便局員が我が郵便物の重さやサイズ等々を判断して、その配達料が決定したため、代金不足であるとは考えられない。 何か他の理由があって返却されたのであろう。

 返却の理由が分からないのに苛つかされたが、とにかく返却されてしまっては仕方がない。
 
 とにかく翌日(昨日火曜日)の午後に、その実母へのプレゼントの財布を入れた封書をそれを持ち込んだ近くの郵便局に持参した。


 そうしたところ、やはり対応して下さった郵便局員が私に問うには。「何か返却の理由を書いたものを貼って無かったですか?」  当然「No!!」返答の私だが。
 局員氏も首を傾げつつ、とりあえず上司に相談に行ったようだ。
 その上司と2人で私の処へ戻って来て言うには。 「申し訳ないのですが返却理由が不明のため、今一度このままお預かりします。」
 私が返して、「これクリスマスプレゼントなのですが、私としてはクリスマスまでに届けて欲しかったのが正直なところです。」
 更に局員氏が平謝りしつつ、「宛先が徳島県ですね? 最短で27日の金曜日には届けますので、今回は大変申し訳ないですが今一度お預かり致します。 今回の返却理由に関しては、こちらから練馬本局へ再確認しておきます。」

 
 この実母への「財布のプレゼント」に関して、その背景を説明しておこう。
 11月に郷里へ行った際に、実母に会った話題はバックナンバーにて記載している。
 娘の私にとっては決して決して実母との“楽しい再会”ではなく、種々の事情で後味の悪い再会だったことに関してもバックナンバーにて記載済みだ。

 そんな二者関係だったが、タクシー道中実母がいうには「今欲しい財布が無くて困っている。 〇子(私の事)が持っているその財布を譲ってくれると嬉しい。」 
 私応えて、「こんなボロ財布でよければ、あげるよ。」
 ところが実母も、その後のらりくらりと話題を変えつつ何だかんだと私相手に実にくだらない訴えばかりをしてきて、すっかり財布の事は忘却したようだ。
 私の方もタクシーの中でそんな義母の悪態責めに反吐が出そうなほど嫌気がさしつつ、すっかり財布の事を忘却してしまった。

 それを思い出したのは、最近の事だった。
 そうだ、実母が財布が欲しいと言ってた! クリスマスも近いし、新しい財布を買って郷里の実母へ送ってやろう!


 そうして、送ったのがその財布だったとの訳だが。

 母子関係があまりうまく行っていない(と言うよりも、正確に言えば私側が現在の実母を毛嫌いしているだけの話だが)娘と母のプレゼントのやり取りとは、難儀することを実感させられる…

 
 そんなこんなで、とにかく再度実母宛に財布プレゼントを贈ることを、郵便局で実行してきた訳だが。

 その後、我が脳裏に浮かんだ事実がある。
 そう言えば、私が実母宛に送った封書の裏側の“キーボード打ちで糊で貼り付けた送信者である私の住所氏名の紙が、一部取れかかっていたことを思い起した。
 私側としては、表面の実母住所すら判明できたならば 裏の送り主の住所氏名など二の次でよさそうに思うのだが。
 もしかしたら、練馬本局が「これじゃあ送り主名が分かりにくいから、一度返却してきちんと貼り直してもらうべき」と判断して下さったとすれば。

 その練馬本局の“心配り”に感謝するべきかもしれない、と現在は考え直している。


 とにもかくにも、私が郷里の実母へ再度送ったクリスマスプレゼント到着は29日金曜日となるらしい。

 次女の私に対してはいつも悪態ばかりついている(私には甘えられるとの証拠だろうが)実母が、年末に受け取るであろう「クリスマスプレゼント」にどのように反応してくるのか?!?

 それにより、我が新年をどのように迎えられるかが左右するのかもしれない… 😖 😱 


「左鎖骨と右手首の同時骨折」と「左膝複雑骨折」、どっちが辛い??

2023年12月02日 | その他オピニオン
 本日午前中に見た「原左都子エッセイ集」編集画面内に、2014.07.09公開の「白いご飯にのっけるお菜もふたが開かねば食せない」と題するバックナンバーが、上位にランクインしていた。



 早速、以下にその一部を要約引用させていただこう。

 7月5日朝日新聞別刷「be」“RANKING”のテーマは、「白いご飯にのっけたいもの」だった。
 そのランキング結果を以下に紹介しよう。
  1位  生卵        2位  辛子めんたいこ     3位  のり(乾燥のり)
  4位  納豆        5位  ふりかけ        6位  梅干し
  7位  のりのつくだ煮   8位  たらこ         9位  ちりめんさんしょう
 10位  とろろ      11位  さけフレーク     12位  しらす
   (以下略)

 何処のご家庭にも白いご飯のお伴である常備菜として、冷蔵庫内や食品棚等に保存されているであろう食材の数々が、ズラリとランクインしている。

 このコラム記事を見た私の脳裏に真っ先に蘇ったのが、4月中旬の骨折直後の“悲惨な状況”である。 
 自宅ベランダで転び負傷し、左鎖骨鎖骨骨折(全治2ヶ月)右手首骨折(全治1ヶ月)の診断が下ったのは今から遡ることおよそ3か月前の4月半ばの事である。
 医師の指示として「絶対安静」と宣言されたところで、一応一家の主婦(この言葉は嫌いだが)の立場にして安静になどしていられるはずもない。 料理嫌いな私とて最低限可愛い娘の朝食準備ぐらいは母である私の責務との使命感は強い。  骨折中にも激痛に耐えつつ、娘が起床するまでに何とかテーブルの上に形のみの朝食を繕い続けた。 (参考のため、定年退職後の亭主に関しては起床時間が一定していないため、自主朝食制度を採用している。)
 日々の私自身の朝食行動に関して記すと、まず一家の先陣を切って朝起きる。 そして大学へ通っている娘の朝ご飯の準備をするのと並行して、私自身は“ビュッフェ形式”で台所で朝食を採る。
 上記“ビュッフェ形式”について説明するならば、要するに娘に出す朝食の残り物や白いご飯のお菜を頼り、娘が起きてくる前に台所に立ったままでそそくさと朝食を済ませるとの事だ。
 ところが骨折直後は、いつもなら白いご飯のお菜として食している常備菜数々の蓋が“開かない!”
 (それ以前の問題として、布団から起き上がる動作も命がけなら、トイレに入っても紙を手に巻き取れないし、パンツもまともに上げられない。  死に物狂いでそれをこなして台所に立ったとて、食器棚や冷蔵庫を開ける動作もままならない。)
 それでも我が命を持たせるためには、とにかく「食わねば!」と決死の覚悟で摂食行動に挑んだものだ。
 両腕骨折被害に遭う事とは、食事との何でもない動作すら難儀な事態に陥るものと一番に思い知らされたのが、我が起床間際の“ビュッフェ”朝食時の無念さだった。 
 例えば朝日新聞調査1位に君臨した「生卵」。  両腕骨折状態で左手は当初腰までしか上がらず右腕は箸を持つのがやっと状態で、卵を割る動作すら叶わず断念した。
 3位に位置付けている「のり」。  やはり特に右手首の細かい作業が不能なため、これを包んでいる袋の封も切れない。
 私が一番好んでいる6位の「梅干し」。 郷里の母が毎年漬けて送ってくれてはいるが、そのタッパーを開けるには程遠く断念…。
 7位の「のりのつくだ煮」に関しても、市販品のビンの蓋が開けられない始末…。
 ずっと飛ばして、11位の「さけフレーク」も上記と同様の利用で蓋が開けられない…。
 そうだとしても、早朝に未だ睡眠中の家族を起こすとの迷惑など掛けたくはない。 何とか白いご飯のお菜となる食材はないものかと台所内を探索し、私はそれを冷蔵庫内に発見したのだ!

 それは “マヨネーズ” だった!
 現在市販されているマヨネーズとは蓋が二段構造になっていて、上の蓋をプチッと片手で開けると少量のマヨネースが出る仕組みとなっている。 これを骨折した右腕で持ち上げ、前日の晩娘が焚いて冷蔵庫で保存してくれている御茶碗一杯のご飯をレンジでチンして、マヨネーズをかけて食する決断をした。
 何だか泣く泣く苦し紛れの決断だったとはいえ、この判断で骨折直後の我が朝食が叶った事実こそを、「マヨネーズ様様」と感謝申し上げたい思いだった。 (中略)
 その間、我が家族に「できたら常備菜の蓋を軽く閉めて欲しい」との要求は提示した。

 ところが、自分自身が“不自由な身”になってみないとその辛さが理解できないのであろう事態に直ぐに直面させられる…
 次の日起きてみても、やはり常備菜の蓋は固く閉めらているではないか!
 「私が昨日言ったことを覚えいる?」 と日々尋ねてみれば、若き娘からは「覚えているよ!」との返答が来るものの、亭主からはくる日も来る日も「あっ、忘れていた…。ごめん。」との返答に、体が健全な人には身体的弱者の苦悩など一生理解し得ないものと改めて悟る始末だ…
 そして白いご飯をレンジでチンしたものにマヨネーズと醤油をかける私の「犬食い」朝飯は、その後もしばらく続くはめとなった…。
 お陰様で私の骨折後の予後は比較的良好で、現在では右手首関節に多少の後遺症を残すのみとなっている。
 昨日整形外科医を受診したところ、右手首の後遺症も(私のリハビリ努力によれば)日々快方に向かうであろうとの担当医の診察結果だ。

 それにしても日本人にとっての朝食に於いて、白いご飯にお菜をのせる事は欠かせない習慣であろう。
 ある日そのお菜の蓋が開けられない日が訪れる事態とは、大袈裟に表現するならば、安倍政権による「集団的自衛権」が与党内で身勝手に合意され発令されようとしている事と同等の危機感が漂う程の恐怖心を国民に及ぼす惨劇ではあるまいか!?
 今現在国民からの支持率を大幅に下げようとしている安倍政権も、今一度頭を柔らかくして、国民から放出している「集団的自衛権」行使絶対反対意見に耳を傾けられないものなのか!?
 国民からの反対世論に配慮して、安倍政権は少しは「蓋をゆるめられない」のだろうか。  悲しいかな、それが不能な事態にまで与党政権は「蓋を固く閉めた」まま、現在がんじがらめ状態なのか…?

 私自身にとって両腕骨折とは突然の予期せぬ事故であった。
 そんな不自由な現状を経験してみて、理不尽な要求を国家政権より突然課される事実こそが如何に辛いのかを、我が身にして人生世観が揺らぐ程に学ぶ思いだ。
 そんな我が思いを、今回のエッセイで少しだけ公開した。 

 (以上、「原左都子エッセイ集」バックナンバーより一部を引用したもの。)



 2023.12の現在尚、我が「左膝複雑骨折」が完治したとは言い難い。😨 
 左膝が未だに曲がり切らず正座は無理状態を強いられている。 膝がしらの骨に関しては完璧にくっついたからこそ、病院受診は“無罪放免”されているものの… 
 私の診断では、“腱”等の結合組織が未だ損傷したままの状態なのであろう。 これ もしかしたら我が余生に於いてずっと完治しない恐れもあり、その覚悟を決めておくべきとすら腹をくくりかけている。


 そんな身にして、表題に戻ろう。

 2014年春の大怪我だった「左鎖骨と右手首の同時骨折」と、現在未だ引きずっている「左膝複雑骨折」。
 どっちが我が身にとっては“辛い”(“辛かった”)のかを天秤にかけると。

 これ、2014年の「左鎖骨と右手首の同時骨折」の方に“辛さ”の軍配が上がりそうだ。
 
 と言うのも、当時と今とでは家庭内条件が大幅に異なるのが大きな理由だろう。
 2014年当時は未だ娘が大学生だったと記憶しているが、その娘の学問や生活のフォローを母の私が陰で積極的に行っていた時期だ。
 大学の「卒論」こそは娘本人に取り組ませたが、その他の諸授業や家庭内での実習記録作成等々は、出来る限り母の私が手伝っていたものだ。

 あの頃を思い起すと、娘が家を出て独り立ちしている現在の何ともラクなこと!!

 やはり娘が独り立ちしてくれた効用とは、予想以上に大きい事を実感させられる。 
 加えて、我が身が高齢域に突入している事実も一種の安堵材料であろう。
 たとえ 今後我が左膝が「正座」できるまで曲がらずとて、特段問題は無いと私は受け止めている。
 既に趣味のランニングもゆっくりペースだが楽しんでいるし。 日常生活上、私としては特段の不都合は無い。


 それにしても。
 上記2014年に私が記した引用文を読むと、当時の安倍政権の体たらくぶりが思い起されて 今尚腹立たしいものがある!!😱 
 安倍氏の死にざまに関しては、世の反応が割れているようだが。
 原左都子の感覚としては、安倍氏は既に“忘れ去られた存在”と概ね受け止められているものと捉えている。


全国の百貨店の「屋上遊園地」が姿を消しつつあるらしい

2023年11月07日 | その他オピニオン
 (冒頭写真は、2023.11.06付朝日新聞夕刊記事「消えゆく屋上遊園 残したい レジャー多様化、維持費負担に 屋上遊園地のある百貨店は5店のみ」より転載したもの。)


 早速当該朝日新聞記事の一部を以下に要約引用しよう。

 朝日新聞は10月、日本百貨店協会に加盟する全170店舗を対象に、常設の屋上百貨店があるかを電話で尋ねた。 今も営業をしていると答えたのは松坂屋高槻店、松坂屋名古屋店、大和香林店、いよてつ高島屋、浜屋百貨店の5店舗。 このほかにも小規模な遊具コーナーを設けている百貨店があったが、屋上遊園地という認識ではなかった。 (中略)
 屋上遊園地の起源は、100年以上前まで遡るが、設置が加速したのは戦後の高度経済成長期。 百貨店が次々とでき、屋上遊園地も「必須アイテム」のように造られた。 (中略)
 だが、郊外型ショッピングセンターの盛況、バブル崩壊や2000年代の不景気など、百貨店を取り巻く環境は厳しさを増していく。 テーマパークなどレジャーも多様化。 集客装置としての屋上百貨店の役割は維持費と見合わなくなり、00年前後から徐々に閉園していったとみられる。

 (以上、朝日新聞記事より一部を引用したもの。)



 実はこの原左都子、私自身の子供の頃にもデパートの屋上遊園地に行った記憶がうっすらあるものの、さほどの思い出は無い。

 それよりも。
 晩婚高齢出産にて産んだ一人娘を都内のデパート屋上や、近くの大規模スーパーマーケットの屋上の小型遊園地へ頻繁に連れて行った記憶が、今尚鮮明だ。

 先程その写真を探してみたのだが、どうやらデパート屋上遊園地にて撮影した写真は残念ながら見つからなかった。 おそらく カメラを持参せずに出かけたものと思われる。😂 😔 

          

          

          

 その代わりと言ってはなんだが。 
 我が一人娘をデパート屋上へ連れて行った幼少の頃に他の場所で撮影した写真が複数見つかったので、それらを公開させていただこう。

 一番上は、おそらく「としまえん」にて夜間撮影した写真のようだ。
 2枚目は、その当時の自宅近くに存在した大規模中央公園にて撮影したもの。
 一番下は、我が家にての撮影だが。 我が一人娘は私が写真撮影をしようとすると、姉妹がいなかったせいかいつもこうやって家中の“お友達”を集めてはポーズをとったものだ。
 面白いのは、その際に「はい〇ちゃん、ちゃんと前を向いて! △ちゃんはおりこうさんね」等々と“いっぱしの”指導を始めるのには驚かされた。😁  将来は教員でも目指すのかと一時思ったりしたが、そうではなかったようだ。😝 


 話題をデパート屋上遊園地に戻すと。
 我が一人娘は、幼少の頃からそれを大いに好んでいた。 
 その後も平日幼稚園や学校から下校した際に、「屋上遊園地へ行こうか?!」と声掛けすると喜び勇んだものだ。 平日は近くのスーパーの屋上、土日祝日には池袋の(今は無き)西武デパートの屋上へ足繁く母娘で通ったものである。 (さすがに亭主は、それには同行しなかったなあ…)
 我が子の場合、大規模遊園地よりもむしろ デパート屋上遊園地を好んでいた思い出がある。  おそらく大混雑が一切無いため、我が子なりに安心してゆったりと遊べたのであろう。

 確かに 我が子が小学生になった頃には、既にデパート屋上遊園地はさびれかけていて、人口密度がかなり低かった記憶がある。    


 かく言う私も、我が子が小さい頃にはディズニーランド等の巨大施設へ連れて行くよりも。(もちろん連れて行きましたけど。)
 近くのデパートやスーパー屋上遊園施設の方が安心感が大きかったし、私自身も我が子が喜ぶ姿を間直に見れて、ずっと楽しかった記憶があるなあ。😃