7月6日(日)朝日新聞朝刊のコラムで「忘れ去られる恐怖」と題する朝日新聞編集委員による記事を見つけた。
興味深いコラムであると同時に、本ブログの前回の記事「正しい携帯電話の持たせ方」の内容にも通じるエッセイであるため、前回の続編の意味合いも兼ねて今回の記事で取り上げることにする。
それでは早速、上記コラム記事「忘れ去られる恐怖」を以下に要約してみよう。
“死んだ女よりもっと哀れなのは忘れられた女です”こんな堀口大学訳の「月下の一群」に収められた画家マリー・ローランサンの詩「鎮静剤」の一節が頭から離れない。 あの秋葉原の悲惨な事件の容疑者が、現実にもネット上でさえも孤独であったと述べている。 近年、この“忘れ去られる恐怖”が静かに広がりつつあるように感じる。携帯電話への過剰な寄りかかり、ネット上で過熱する自己主張…。
浅羽道明氏著「昭和三十年代主義」という本がある。昭和30年代が多くの人がノスタルジックに讃えるほど明るくて前向きでいい時代だとは思ってはいないが、なぜこの時代がブームになったのかと言うと、この時代は、不便だから仕方なく成立していた、人が誰かのために体を動かして働いていることが目に見える「協働体」のような関係の広がり、いわば、お互いの存在が“忘れられない”世界であったためという。
便利さや豊かさとは、そんな人の働きを機械や見知らぬ人々のサービスに置き換えていくことだった。そして、働く人々は効率化のため機械の一部品のように使い捨てられていく。誰のために、何の役に立つのかわからない働き…。(自分の存在が)忘れ去られたと思い込む人々が増える世間なんて、あまりろくな物でもない。
以上が、朝日新聞コラム記事「忘れ去られる恐怖」の要約である。
本ブログの前回の記事「正しい携帯電話の持たせ方」には多くの反響コメントをいただいた。 そのコメント欄で、奇しくも上記コラムと同様の議論を読者の方々と展開させていただいている。
昔、電話さえもなかった時代は、人と人とのかかわりのすべてが“生身”の人間同士のかかわりであった。科学技術の発展と共に文明の利器が次々と登場するにつれて、“生身”の人との間に距離感が生じてくる。今や、パソコン、携帯を経由したネット上での人とのかかわりが日常茶飯事に展開される時代と化している。この現象は人間関係の希薄化に追い討ちをかけ、希薄化を決定的なものとしている。そして、子どもまでもが人とのかかわりを携帯等を通じたネット社会に依存する時代となってしまった。
“出会い系”というサイトが存在する。なぜネットを通さなければ人と出会えないのか、私には理解し難い世界である。普段の普通の生活の中で生身の相手に出会い、かかわれば済むはずなのに…。もちろん、ネット社会には普段出会えるはずもない遠方の相手等とも瞬時にして出会える等のメリットもあることは認める。 だがその背景には、生身の人間同士のコミュニケーションの希薄化という病理が現代社会に蔓延りつつあることは否めない。それでも人間とは本能的に自分の存在を“忘れ去られ”たくない生き物なのだ。誰でもいいから手っ取り早く出会える相手をネット上で見つけてでも、自分の存在を認めて欲しいのであろう。
メール交換も同様だ。大した用件もないのにむやみやたらとメールを送り、相手に強迫観念を抱かせる程の返信を要求するのも“寂しさ”のなせる業、すなわちやはり“忘れ去られ”たくない心理を物語る行為である。
ネット上でさえも孤独であったと言う秋葉原事件の容疑者。だがそもそも、ネットというバーチャル世界で真の人間同士のコミュニケーションがとれていつまでも“忘れ去られない”関係が築けるのがどうか、それ自体が疑わしい。
加えて、どのような人間関係であれいつかは終焉が訪れるものでもある。自分の存在を“忘れ去られ”てしまう恐怖に怯えネット社会をさまようことよりも、忘れ去られる勇気を持って現実社会で人とかかわり人の温もりを感じていたいものである。
興味深いコラムであると同時に、本ブログの前回の記事「正しい携帯電話の持たせ方」の内容にも通じるエッセイであるため、前回の続編の意味合いも兼ねて今回の記事で取り上げることにする。
それでは早速、上記コラム記事「忘れ去られる恐怖」を以下に要約してみよう。
“死んだ女よりもっと哀れなのは忘れられた女です”こんな堀口大学訳の「月下の一群」に収められた画家マリー・ローランサンの詩「鎮静剤」の一節が頭から離れない。 あの秋葉原の悲惨な事件の容疑者が、現実にもネット上でさえも孤独であったと述べている。 近年、この“忘れ去られる恐怖”が静かに広がりつつあるように感じる。携帯電話への過剰な寄りかかり、ネット上で過熱する自己主張…。
浅羽道明氏著「昭和三十年代主義」という本がある。昭和30年代が多くの人がノスタルジックに讃えるほど明るくて前向きでいい時代だとは思ってはいないが、なぜこの時代がブームになったのかと言うと、この時代は、不便だから仕方なく成立していた、人が誰かのために体を動かして働いていることが目に見える「協働体」のような関係の広がり、いわば、お互いの存在が“忘れられない”世界であったためという。
便利さや豊かさとは、そんな人の働きを機械や見知らぬ人々のサービスに置き換えていくことだった。そして、働く人々は効率化のため機械の一部品のように使い捨てられていく。誰のために、何の役に立つのかわからない働き…。(自分の存在が)忘れ去られたと思い込む人々が増える世間なんて、あまりろくな物でもない。
以上が、朝日新聞コラム記事「忘れ去られる恐怖」の要約である。
本ブログの前回の記事「正しい携帯電話の持たせ方」には多くの反響コメントをいただいた。 そのコメント欄で、奇しくも上記コラムと同様の議論を読者の方々と展開させていただいている。
昔、電話さえもなかった時代は、人と人とのかかわりのすべてが“生身”の人間同士のかかわりであった。科学技術の発展と共に文明の利器が次々と登場するにつれて、“生身”の人との間に距離感が生じてくる。今や、パソコン、携帯を経由したネット上での人とのかかわりが日常茶飯事に展開される時代と化している。この現象は人間関係の希薄化に追い討ちをかけ、希薄化を決定的なものとしている。そして、子どもまでもが人とのかかわりを携帯等を通じたネット社会に依存する時代となってしまった。
“出会い系”というサイトが存在する。なぜネットを通さなければ人と出会えないのか、私には理解し難い世界である。普段の普通の生活の中で生身の相手に出会い、かかわれば済むはずなのに…。もちろん、ネット社会には普段出会えるはずもない遠方の相手等とも瞬時にして出会える等のメリットもあることは認める。 だがその背景には、生身の人間同士のコミュニケーションの希薄化という病理が現代社会に蔓延りつつあることは否めない。それでも人間とは本能的に自分の存在を“忘れ去られ”たくない生き物なのだ。誰でもいいから手っ取り早く出会える相手をネット上で見つけてでも、自分の存在を認めて欲しいのであろう。
メール交換も同様だ。大した用件もないのにむやみやたらとメールを送り、相手に強迫観念を抱かせる程の返信を要求するのも“寂しさ”のなせる業、すなわちやはり“忘れ去られ”たくない心理を物語る行為である。
ネット上でさえも孤独であったと言う秋葉原事件の容疑者。だがそもそも、ネットというバーチャル世界で真の人間同士のコミュニケーションがとれていつまでも“忘れ去られない”関係が築けるのがどうか、それ自体が疑わしい。
加えて、どのような人間関係であれいつかは終焉が訪れるものでもある。自分の存在を“忘れ去られ”てしまう恐怖に怯えネット社会をさまようことよりも、忘れ去られる勇気を持って現実社会で人とかかわり人の温もりを感じていたいものである。
