つい先日発見したのだが、Googleの検索画面にキーワードの「エッセイ集」を入力すると、そのトップページにタレント等有名人のエッセイ集に混じって、本ブログ「原左都子エッセイ集」が検索できるのである。
これには「原左都子エッセイ集」の著者である原左都子自身が驚くと同時に、大変光栄なことと一人で密かにほくそ笑んでいる。
Azby Clubやgooの検索画面でも、同様に「エッセイ集」で我がブログがトップページで検索できる。
Googleの場合、「エッセイ集」の検索結果総数が本日現在約755,000件であるのだが、その中で、著者である私がまったく気付かないうちに、我がブログがトップページの上から6番目に位置するまでの成長を遂げていることを発見し、感慨深い思いで自己満足に浸る私なのである。
(ネット世界なんて明日は暗闇の、先が見えない不確実性の高い世界であることは重々承知しているんですけどね…)
そのGoogleの「エッセイ集」の検索画面トップページに、「原田芳雄エッセイ集」も名を連ねている。(本日つい先程の検索では、「原左都子エッセイ集」の真下に位置しているのだが。)
原田芳雄氏と言えば、一定年齢以上の方々は知らない人がいない程の、渋い個性が持ち味の大物俳優でいらっしゃる。その原田氏が「B級パラダイス」と題するエッセイ集を綴っておられるようだ。
そのGoogle検索画面の「原田芳雄エッセイ集」を紹介した一節が大いにインパクトがあるのだ。
以下に、その一節を紹介しよう。
(原田芳雄エッセイ集 B級パラダイス 俺の昨日を少しだけ <ワニの選書>より) 僕が権力持ったら、いちばん最初にやることは、トマトの栽培を禁止することです。色がヤだしね。あの風情がいやですね。味もヤだし。でも、小さい時分食べていました…
おいおい。ニヒルな大物俳優が、権力を持った場合にいちばん最初に思いつくのがトマトの栽培を禁止する事などと血迷った事を言ってないで、権力者として他に思いつくべき事があるだろ!
などと笑いつつ、意表を付かれるユニークな原田氏の発想についつい唸った私である。どういう訳かこの文章は何とも興味深く私に迫ってくる。(エッセイ集の本文も読まずしての論評を、何卒お許し下さいますように。)
このトマトの栽培を禁止したい原田芳雄氏の気持ちが、何だか私も少し分かる気がする。
世にありふれたオーソドックスな食べ物の中に、この私にも嫌いなものが沢山あるのだ。今思いつくところでは、例えば私は“リンゴ”が嫌いだ。見た目は可愛いリンゴであるが、あの酸っぱさと、私に言わせてもらえば中途半端な歯ごたえの食感を、私は小さい頃からどうしても受け付けられないでいる。切った後すぐに茶色く変色してしまう汚らしさも好まない。 “じゃがいも”も子どもの頃は苦手だった。食べていると喉に詰まって窒息しそうな気がするのだ。今現在は多少クリアできているが、気をつけて食べないとやはり窒息しそうだ。 それから、“蒸しパン”が私は嫌いだ。やはりあの食感がいただけない。それにどういう訳か蒸しパンとは他のパンに比して味が絶対的にまずい。 さらには、“いちごショート”のようにケーキの中に生の果物を混ぜ込んだケーキ類の存在も、私には理解し難い。果汁がケーキのスポンジに滲み出てせっかくのスポンジの食感と味を崩してしまい、私に言わせてもらうと、あれは“食べ物とは言わない”。
それらのすべては、単なる個人の嗜好の問題に過ぎないことは重々承知の上ではある。だが、嫌いな立場の人間からすると、なぜこんなまずい食べ物が生産されて世に蔓延っているのか、原田氏のごとく“栽培”を禁止しよう、と言いたくなる気持ちは多少理解できる。
原田氏のおっしゃる“トマト”に関しても、私も同様に苦手である。
ところが、私の姉が小さい頃からこのトマトが大好物で、丸ごとムシャムシャと食べているのを私は側でよく見ている。姉に言わせれば、あの独特の味と食感がたまらない、とのことであった。さらには、我が姉のトマトを最高に美味しく味わうための秘訣は、生の丸ごとのトマトに“塩”ならぬ“味の素”を振り掛けて食することだそうで、それをいつも実行していた子ども時代の姉であった。
トマトは弁当作りには欠かせない素材である。原田氏が“ヤだ”とおっしゃる色が、私にはとっては赤くて美しいため、私は娘のお弁当にプチトマトを多用している。その我が娘もトマトは基本的に嫌いだそうだが、見た目の体裁のために入れることを娘に承諾してもらい、「食べなくていいからね」と娘に伝える呆れた母親である。(ところが、必ず食べてきてくれる母よりも“お利口”な我が娘である。)
今回は「原左都子エッセイ集」の“雑記”カテゴリーとして綴った記事であり、何らかの私論の結論を導くことを目的としたものではない。
その上で、今回たまたま私がネットの検索画面に目を通したことにより、タレント等の有名人(のゴーストライター??)が有名であることに甘んじつつ綴っているエッセイの中にも、他者に訴える何らかの力がある場合もあるのかもしれないということを、検索画面の片隅から認識させていただいたという話なのである。
これには「原左都子エッセイ集」の著者である原左都子自身が驚くと同時に、大変光栄なことと一人で密かにほくそ笑んでいる。
Azby Clubやgooの検索画面でも、同様に「エッセイ集」で我がブログがトップページで検索できる。
Googleの場合、「エッセイ集」の検索結果総数が本日現在約755,000件であるのだが、その中で、著者である私がまったく気付かないうちに、我がブログがトップページの上から6番目に位置するまでの成長を遂げていることを発見し、感慨深い思いで自己満足に浸る私なのである。
(ネット世界なんて明日は暗闇の、先が見えない不確実性の高い世界であることは重々承知しているんですけどね…)
そのGoogleの「エッセイ集」の検索画面トップページに、「原田芳雄エッセイ集」も名を連ねている。(本日つい先程の検索では、「原左都子エッセイ集」の真下に位置しているのだが。)
原田芳雄氏と言えば、一定年齢以上の方々は知らない人がいない程の、渋い個性が持ち味の大物俳優でいらっしゃる。その原田氏が「B級パラダイス」と題するエッセイ集を綴っておられるようだ。
そのGoogle検索画面の「原田芳雄エッセイ集」を紹介した一節が大いにインパクトがあるのだ。
以下に、その一節を紹介しよう。
(原田芳雄エッセイ集 B級パラダイス 俺の昨日を少しだけ <ワニの選書>より) 僕が権力持ったら、いちばん最初にやることは、トマトの栽培を禁止することです。色がヤだしね。あの風情がいやですね。味もヤだし。でも、小さい時分食べていました…
おいおい。ニヒルな大物俳優が、権力を持った場合にいちばん最初に思いつくのがトマトの栽培を禁止する事などと血迷った事を言ってないで、権力者として他に思いつくべき事があるだろ!
などと笑いつつ、意表を付かれるユニークな原田氏の発想についつい唸った私である。どういう訳かこの文章は何とも興味深く私に迫ってくる。(エッセイ集の本文も読まずしての論評を、何卒お許し下さいますように。)
このトマトの栽培を禁止したい原田芳雄氏の気持ちが、何だか私も少し分かる気がする。
世にありふれたオーソドックスな食べ物の中に、この私にも嫌いなものが沢山あるのだ。今思いつくところでは、例えば私は“リンゴ”が嫌いだ。見た目は可愛いリンゴであるが、あの酸っぱさと、私に言わせてもらえば中途半端な歯ごたえの食感を、私は小さい頃からどうしても受け付けられないでいる。切った後すぐに茶色く変色してしまう汚らしさも好まない。 “じゃがいも”も子どもの頃は苦手だった。食べていると喉に詰まって窒息しそうな気がするのだ。今現在は多少クリアできているが、気をつけて食べないとやはり窒息しそうだ。 それから、“蒸しパン”が私は嫌いだ。やはりあの食感がいただけない。それにどういう訳か蒸しパンとは他のパンに比して味が絶対的にまずい。 さらには、“いちごショート”のようにケーキの中に生の果物を混ぜ込んだケーキ類の存在も、私には理解し難い。果汁がケーキのスポンジに滲み出てせっかくのスポンジの食感と味を崩してしまい、私に言わせてもらうと、あれは“食べ物とは言わない”。
それらのすべては、単なる個人の嗜好の問題に過ぎないことは重々承知の上ではある。だが、嫌いな立場の人間からすると、なぜこんなまずい食べ物が生産されて世に蔓延っているのか、原田氏のごとく“栽培”を禁止しよう、と言いたくなる気持ちは多少理解できる。
原田氏のおっしゃる“トマト”に関しても、私も同様に苦手である。
ところが、私の姉が小さい頃からこのトマトが大好物で、丸ごとムシャムシャと食べているのを私は側でよく見ている。姉に言わせれば、あの独特の味と食感がたまらない、とのことであった。さらには、我が姉のトマトを最高に美味しく味わうための秘訣は、生の丸ごとのトマトに“塩”ならぬ“味の素”を振り掛けて食することだそうで、それをいつも実行していた子ども時代の姉であった。
トマトは弁当作りには欠かせない素材である。原田氏が“ヤだ”とおっしゃる色が、私にはとっては赤くて美しいため、私は娘のお弁当にプチトマトを多用している。その我が娘もトマトは基本的に嫌いだそうだが、見た目の体裁のために入れることを娘に承諾してもらい、「食べなくていいからね」と娘に伝える呆れた母親である。(ところが、必ず食べてきてくれる母よりも“お利口”な我が娘である。)
今回は「原左都子エッセイ集」の“雑記”カテゴリーとして綴った記事であり、何らかの私論の結論を導くことを目的としたものではない。
その上で、今回たまたま私がネットの検索画面に目を通したことにより、タレント等の有名人(のゴーストライター??)が有名であることに甘んじつつ綴っているエッセイの中にも、他者に訴える何らかの力がある場合もあるのかもしれないということを、検索画面の片隅から認識させていただいたという話なのである。