昨日行きつけの美容院へ行った折りに、私のヘアケアをもう2年来担当して下さっている美容師氏とヘアカット中に“子どもの教育談議”になった。
その美容師氏(4歳児を持つお母様でいらっしゃるのだが)は、先だって米国に於ける国際ピアノコンクールで優勝したピアニストの辻井伸行氏を引き合いに出して、以下のようにぼやかれるのだ。
「辻井氏に関してはお母上が生後わずか8ヶ月の伸行氏の音楽的天才性を見抜いてピアニストとして育て上げたと聞いているし、原さん(私の事だが)もお嬢さんの適性をお母様として早い時期から見抜いて支援していらっしゃる。 それに引きかえ我が息子など、どういう角度から観察しても何の取り得もない子で、親として今後一体何を伸ばしてやればいいのか途方にくれている…」
(プロの美容師氏としての“営業挨拶談議”の範疇の話題であることは重々承知つつ、それに応える私である……)
「確かに辻井氏の場合、音楽的“天才性”を生来持ち合わせていたのに加えて、お母上が伸行氏のピアニストとしての今日の成功の陰で多大な愛情と熱意を注がれたようですね。 我が家の場合はそもそも子育ての趣旨がまったく違って、親としてはただ単に我が子に将来何かの分野で“一人で飯を食って生きて欲しい”思いで、娘の尻を叩き続けているだけの話ですよ。 それにしても美容師さん、わずか4歳の幼児にして、何らかの分野での才能が表出している子なんていないに等しいと私は思いますけどね。 息子さんも今後様々な分野で大きく成長されることでしょう。云々……」
(この美容師氏ご自身の子育てのモットーが「その場の“空気”を読める子に育てたい!」との、なかなかの客観力のあるお母上であるが故に、私が心配せずとて御二世もきっとよい子に育つことでしょう。)
この美容師氏のお陰で、辻井伸行氏に関する記事を今回やっと綴れるきっかけを得た私である。
実は至って僭越ながら、辻井氏のピアニストとしての今日の成功の報道に接した私は、恐れ多くもそのお母上がなされた事と我が拙い子育てとの間に重複する部分があるように錯覚し、感慨深い思いを抱いたというおこがましい事実があるのだ。
辻井氏のお母上は、伸行氏の音楽的“天才性”を生後早くも見抜いた上で、その英才教育に熱意を注がれた模様である。
それらの報道の中で私が特別感銘を受けたのは、お母上が伸行氏の芸術性を磨くために「音楽」のみならず「美術」鑑賞も並行されたとの報道である。目の見えない伸行氏を美術館へ誘い、その一枚一枚の絵画の前でお母上が“口述で”その色彩構成等の絵画の世界を伸行氏に伝えたそうである。
そのお母上の類稀な熱意により、伸行氏はそれらの絵画が目には見えずとも心情風景として脳裏に刻み込まれたお陰で、現在の自身の精神構造を形創ることが可能となり感性の豊かさが培われた云々…、との報道である。
不運にも「五体不満足」で出生して来ざるを得なかった我が子を母親として支え抜くためには(その“不満足”のレベルの差はあれども)、母親の子育てにおける理想が常識を遥かに超えて高くないことには、その情熱を注ぎ切れないことは私も実感なのだ。
そういった母親の“尋常ではない意気込み”なくして「五体不満足」な子どもが“世間が認めるレベル”もしくは“それ以上”に育ち得ないことは、実際にそういう子どもを身近に育てている母親のみが知るところの、想像を絶する程に過酷な試練なのである。
そういった“凄まじい”までの現実を母である私が乗り切って来ていることを、遠隔地に住む我が母でさえほとんど知らない。 言うまでもなく、近くに住む義理母も十分には把握していない。(普段の子育てを私に委ねている我が亭主ですら、どこまで理解できているのやら……)
そんな我が娘が現在高校生になっている今、あくまでも学力的な面のみで評価すると(世間一般に分かり易い表現で申し上げて)難関大学も目指せそうな程に学力を付けてくれている現在である。
この現状を、我が子が出生した当時の事情を知る親族一同が今どれ程に感慨深く思ってくれていることやら…。
皆が口々に言うのだ。 「この子は、私の血筋で元々頭がいいからここまで来た…」「出産直後は心配したけど、私に似て“努力家”だから今の成長に繋がっている…」
まあ何でもいいけど、どういう訳か実際に日々我が子を育てている“母親の努力”とは表舞台には出にくく報われないことを実感である。(それでいいんだけどね。トホホ…)
私の“お抱え美容師氏”がおっしゃる通り、我が子の“天才性”を見抜き育てる以前の問題として、「その場の“空気”を読める客観性」をとりあえず子どもに育成していくことが今の時代先決問題だとは私も思うよ。
とにもかくにも“子育て”とは子ども本人に“天才性”があろうがなかろうが、常に身近で子どもに寄り添って世話をし続けている(通常は)母親の力量次第であることを、我が子より実感させてもらえる今日この頃である。
その美容師氏(4歳児を持つお母様でいらっしゃるのだが)は、先だって米国に於ける国際ピアノコンクールで優勝したピアニストの辻井伸行氏を引き合いに出して、以下のようにぼやかれるのだ。
「辻井氏に関してはお母上が生後わずか8ヶ月の伸行氏の音楽的天才性を見抜いてピアニストとして育て上げたと聞いているし、原さん(私の事だが)もお嬢さんの適性をお母様として早い時期から見抜いて支援していらっしゃる。 それに引きかえ我が息子など、どういう角度から観察しても何の取り得もない子で、親として今後一体何を伸ばしてやればいいのか途方にくれている…」
(プロの美容師氏としての“営業挨拶談議”の範疇の話題であることは重々承知つつ、それに応える私である……)
「確かに辻井氏の場合、音楽的“天才性”を生来持ち合わせていたのに加えて、お母上が伸行氏のピアニストとしての今日の成功の陰で多大な愛情と熱意を注がれたようですね。 我が家の場合はそもそも子育ての趣旨がまったく違って、親としてはただ単に我が子に将来何かの分野で“一人で飯を食って生きて欲しい”思いで、娘の尻を叩き続けているだけの話ですよ。 それにしても美容師さん、わずか4歳の幼児にして、何らかの分野での才能が表出している子なんていないに等しいと私は思いますけどね。 息子さんも今後様々な分野で大きく成長されることでしょう。云々……」
(この美容師氏ご自身の子育てのモットーが「その場の“空気”を読める子に育てたい!」との、なかなかの客観力のあるお母上であるが故に、私が心配せずとて御二世もきっとよい子に育つことでしょう。)
この美容師氏のお陰で、辻井伸行氏に関する記事を今回やっと綴れるきっかけを得た私である。
実は至って僭越ながら、辻井氏のピアニストとしての今日の成功の報道に接した私は、恐れ多くもそのお母上がなされた事と我が拙い子育てとの間に重複する部分があるように錯覚し、感慨深い思いを抱いたというおこがましい事実があるのだ。
辻井氏のお母上は、伸行氏の音楽的“天才性”を生後早くも見抜いた上で、その英才教育に熱意を注がれた模様である。
それらの報道の中で私が特別感銘を受けたのは、お母上が伸行氏の芸術性を磨くために「音楽」のみならず「美術」鑑賞も並行されたとの報道である。目の見えない伸行氏を美術館へ誘い、その一枚一枚の絵画の前でお母上が“口述で”その色彩構成等の絵画の世界を伸行氏に伝えたそうである。
そのお母上の類稀な熱意により、伸行氏はそれらの絵画が目には見えずとも心情風景として脳裏に刻み込まれたお陰で、現在の自身の精神構造を形創ることが可能となり感性の豊かさが培われた云々…、との報道である。
不運にも「五体不満足」で出生して来ざるを得なかった我が子を母親として支え抜くためには(その“不満足”のレベルの差はあれども)、母親の子育てにおける理想が常識を遥かに超えて高くないことには、その情熱を注ぎ切れないことは私も実感なのだ。
そういった母親の“尋常ではない意気込み”なくして「五体不満足」な子どもが“世間が認めるレベル”もしくは“それ以上”に育ち得ないことは、実際にそういう子どもを身近に育てている母親のみが知るところの、想像を絶する程に過酷な試練なのである。
そういった“凄まじい”までの現実を母である私が乗り切って来ていることを、遠隔地に住む我が母でさえほとんど知らない。 言うまでもなく、近くに住む義理母も十分には把握していない。(普段の子育てを私に委ねている我が亭主ですら、どこまで理解できているのやら……)
そんな我が娘が現在高校生になっている今、あくまでも学力的な面のみで評価すると(世間一般に分かり易い表現で申し上げて)難関大学も目指せそうな程に学力を付けてくれている現在である。
この現状を、我が子が出生した当時の事情を知る親族一同が今どれ程に感慨深く思ってくれていることやら…。
皆が口々に言うのだ。 「この子は、私の血筋で元々頭がいいからここまで来た…」「出産直後は心配したけど、私に似て“努力家”だから今の成長に繋がっている…」
まあ何でもいいけど、どういう訳か実際に日々我が子を育てている“母親の努力”とは表舞台には出にくく報われないことを実感である。(それでいいんだけどね。トホホ…)
私の“お抱え美容師氏”がおっしゃる通り、我が子の“天才性”を見抜き育てる以前の問題として、「その場の“空気”を読める客観性」をとりあえず子どもに育成していくことが今の時代先決問題だとは私も思うよ。
とにもかくにも“子育て”とは子ども本人に“天才性”があろうがなかろうが、常に身近で子どもに寄り添って世話をし続けている(通常は)母親の力量次第であることを、我が子より実感させてもらえる今日この頃である。