原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

「悔しさ」は明日へのエネルギー

2009年07月01日 | 教育・学校
 今日から学校の1学期の期末試験が始まった我が娘が、何やらしきりと悔しがりつつ先程帰宅した。
 どうせ試験の出来が悪かったのだろうと思い確認してみると、娘曰く
 「英語で“一箇所”間違えたように思う… 
 どうやら、得意の英語で今回は100点満点を目指していたのに、帰宅の道中自分の解答を振り返ってみると、一箇所誤答をしてしまっていることに気が付いたようだ。

 (おーー、そうかそうか、よく頑張ったぞ。  その「悔しさ」は必ずや明日のパーフェクトへ繋がるぞ。)とまんざらでもない母の私である。


 折りしも、娘が昼ごはんを食べる横で新聞を広げた私は、朝日新聞6月29日(月)朝刊「ひととき」欄で、そんな我が娘の姿と重複する内容の投稿を見つけた。
 「初めて『悔しい』と言った娘」と題する56歳の主婦からの投稿を、以下に要約して紹介しよう。
 20歳の娘が酔って帰ってきた。いつもはゴキゲンなのにその日は雲行きが違い、急に「悔しい」と言い出した。娘の口からそんな言葉を聞いたのは初めてだった。小学校の徒競走でメンバーに選ばれなかったときも、中学で応援団に入れなかったときも「悔しい」と言わず、いつも明るく真面目で、親とすると「悔しくないの?」とじれったくなるぐらいだった。そんな娘が「悔しい」を連発する姿を見て、この子にもそういう気持ちがあって素直に表現してくれたことに私はうれしくなった。気持ちの動きを大切にして、それをため込まないで時には聞かせて欲しい。親としての手助けには限界があるが「悔しさ」をバネに解決していって欲しい。


 まさに、我が家の娘もこの投稿の中のお嬢さんと“瓜二つ”とも言える道程を歩んできている。
 小学校の合奏祭では、万年“その他大勢”の「リコーダー」に甘んじ、それでも努力家の娘は一生懸命練習して本番では隅っこで健気に演奏している。 また、バレエの発表会では、これまた舞台の“下手(しもて)の端っこ”が我が娘の定位置(身長のバランス等の要因もあることは承知しているのだが)で、やはりそれでもいつも皆と一緒に楽しそうに練習に励んでいる娘であった。

 端で見ている親の私の方が、大人気(おとなげ)なくも“悔しい”気持ちが抑えきれず、当時そんな娘をよく責めたものだ。
 例えば小学校の合奏祭などは楽器の選択が立候補制であったため、「あなたも万年“リコーダー”ばかりに立候補してないで、もっと“目立つ”楽器に立候補しなさいよ!」 今思えば親たり得ない“浅はかさ”なのであるが、そんな浅はかな親に対し、娘は消え入りそうな声でこう答えたものだ。「だって“リコーダー”が好きなんだもの……」 
 バレエに関しては親負担の“高額!”の発表会費用が、子どもの位置が“下手(しもて)の端っこ”でも中央に近くても、同じコールド(その他大勢)であるならば同額であることが親としてはどうしても“悔しく”て、一度バレエ教室へ異議申し立てをしようかと企てたりもしたものだ。 だが、娘本人が皆と一緒に楽しそうに練習に励む場に親が場違いにしゃしゃり出て、娘の顔に泥を塗ることだけは避けるべきと悟り思いとどまったものである。(端っこで身長が高いと、舞台上では以外と目立つのも事実だったしね~~ 


 以上のように多少“浅はか”な人格の一面も兼ね備えている親として、何がもっと“悔しい”のかと言うと、幼き頃の我が子本人の内面から「悔しい」という感情が見出せなかったことである。 (よその子が“悔し泣き”している姿等を垣間見て、どれほど羨ましいと感じたことか…)

 この朝日新聞の投稿者も述べておられるが、「悲しい」「情けない」「悔しい」といった一見マイナス要因の心模様とは、実は人間が生きていく上で欠かせない情感であると実感しつつ、この私も長い人生を歩んできている。 このような“一見”マイナーな感情は、実は明日の人間の成長を導く土台となりエネルギー源となるのである。これらの感情なくしては人類の未来は無いも等しいとすら思える程、この私もこれらマイナー感情の力を借りつつ生き延びてきているとの実感があるのだ。

 そんな思いの私は、浅はかにも一時この「悔しい」感情“さえをも”我が子に“教育”するべく躍起になったものである。
 しかし、内面から本能的に湧き出てくるものである「感情」を“教育”や“指導”により教授することは困難であることに気が付いたのは、娘に「悔しい」感情が芽生えるのをキャッチして以降である。
 我が娘の場合、中学受験がその引き金となったように思う。 
 中学受験というまだ年端も行かない子どもにとってのビックイベントにおいて、第二志望校ではあったものの自分の力で合格をゲットした!と確かに感じ取った娘は、この時点で初めて幼心にも確固たる「成功感」を得た模様である。
 これがきっかけとなり、未熟な我が娘本人なりの「成功感」が心の中に基盤として出来上がり、その表裏の感情として、その後徐々に「悔しい」思いが我が子に自然と熟成されてきたように私の目には映っている。


 子どもの「感情」までをも“教育指導”しようとすることは、元々不条理な事態なのであろう。 子ども本人が本来持って生まれた個性である“感情気質”を尊重しつつ大事に育成していくことで、むしろ「悔しい」をはじめとする“マイナー感情”もバランスよく熟成されることを、我が子から実感させてもらっている今日この頃の私である。


 P.S.
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