原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

眠れぬ夜の妄念

2009年07月10日 | 医学・医療・介護
 今年の夏は7月中旬にさしかかった今尚梅雨の曇天が続いているせいか、未だ“熱帯夜”を経験せずして朝を迎えられることに心底救われる思いである。


 夏の夜の寝苦しさにはかかわらず、老いも若きも“不眠症状”を訴える人種が増殖している今の世の中であるが、この私もその例外ではない。

 私の場合、“不眠症状”発症の引き金は高齢出産後の“夜中の授乳”であったと自己診断している。 

 当ブログバックナンバー「聖母マリアにはなれない」においても記述済みなのだが、私が当時出産した産院の“授乳指導”が驚くべき“杓子定規のスパルタ方式”だったのである。 (当時の産院はどこも、母子の個性や医学的特質を一切無視して担当職員が独りよがりの指導に走るレベルだったのだろうか??)
 (不眠症の話題からは少しずれるが、出産時に入院した産院の杓子定規の“授乳指導”に苦しめ抜かれた私はその実態を今尚忘れ得ずにいるのであるが、そのアンビリーバブルな“授乳指導”について、ここでその詳細を紹介することにしよう。)
 毎日決められた授乳時間(夜中も3回)になると、(私のように帝王切開の場合でも手術の3日後から、切り裂かれたお腹を抱えてよたよた歩きで)全員授乳室へ集合させられる。 そして、赤ちゃんの体重を例えば「3257g」等のごとく一の位の数値まで精密に測定し、その体重に見合った授乳量を自分で計算する。母乳でそのすべての量をまかなえる母親は、授乳後の再度の赤ちゃんの体重測定により必要量をクリアしていれば授乳室から“釈放”されるからまだしもラッキーだ。
 この必要授乳量を満たす母乳を赤ちゃんに供給できない母親は残量を人工乳で補うのであるが、まず赤ちゃんの再度の体重測定により自分が何gの母乳を赤ちゃんに供給できたかを算出する。 そして必要量の残量の人工乳を、赤ちゃんの出生後の日数に応じた濃度によりその総量を一の位まで精密に計算して、自分で作成した上での補給なのである。
 しかもその全量を赤ちゃんが飲み切るまで、親子で授乳室に“監禁”状態におかれるのだ。 我が子など出産時のトラブルによる“事情”を抱えての誕生だったせいか、どうも食(飲)が細いのに加えて飲む速度が他の赤ちゃんよりも極端に遅い。下手をすると、授乳を終えて授乳室から“釈放”されるまでに次の授乳時間近くまでかかってしまうのだ。 それでも“助産婦”たる国家資格を取得している職場主任の“杓子指導”に容認の余地は一切なく、私を筆頭とする“母乳落ちこぼれ組”の母子にあくまでも授乳室での「居残り」を強要するのである。
 そんな訳で、私の入院中はこの“杓子定規の授乳指導”のせいで、そのほとんどを昼夜“授乳室”で過ごしたとも言えるのだ。 これでは母体も赤ちゃんも心身共に休まる暇がない。 親である私は手術後の回復が遅れ疲労困憊状態、一方で子は痩せ細ったままの退院だった。(それでも、地獄のごとくの“授乳指導”から金輪際解放されることに命拾いした思いであった。)

 ところが悲しい事に、心身共に憔悴し切って頭が正常に働かず判断能力を完全に失っている私は、愚かなことに退院後も産院における“杓子定規の授乳習慣”の医学的信憑性の検証の意欲も回復しないまま、自宅でほぼ同一の授乳日程を続行してしまうのである。 日中はもちろんの事、夜中も3回きちんと起きて、スヤスヤ寝ている赤ちゃんをたたき起こして、朦朧とした頭で母乳と規定量の人工乳の授乳に日夜励むのである。
 その私の異様に切羽詰った心身状態を見かねた母や義母が「そこまで正確に丁寧に授乳しなくとも赤ちゃんは育つと思うから、ちょっと気持ちを楽に持ってとにかく母体を休めなさい」との適切な助言をしてくれるのだ。 だが産後の肥立ちの悪さから一向に回復しない私は、体調の悪さにムチ打ってこの授乳習慣を産後4ヶ月位まで続けることとなる。
 不幸中の幸いは、赤ちゃんである子どもの方は日毎にお乳を飲む量が激増し、体型的にはすくすく(というよりも“丸々”と)成長してくれたことである。
 (その後、私の心身状態も徐々に快方に向かうのであるが。)
 

 ここでやっと話を今回の記事の本題である“不眠症状”に軌道修正しよう。

 当時の産後の授乳習慣が元で夜中に3回起き続けた私は、その後夜中に3、4回目覚める日々が長い年数続いてしまうのだ。
 もう少し若い年齢での出産だったならば、回復も早かったのであろうかとも推測する。 私の場合、産後の子育て中に間もなくプレ更年期に突入し、精神的不安定さに拍車がかかってしまったのかもしれない。

 今現在は、数年前までと比較して“不眠症状”が相当緩和されていることを自覚して一安心している私でもある。

 
 そんな私も今尚、日常生活において厄介な事象に直面して大きなストレスに見舞われていたり、あるいは寝る前にお酒を飲み過ぎたり等の心身を揺るがすマイナス要因を背負ったまま寝床に就くと、必ずや“不眠症状”が出現するのである。

 その“不眠症状”がもたらす私の夜中の“妄念”たるや凄まじいものがあるのだ。 この年齢になってこれ程夜中に闘わねばならぬのかと思うほどの、心身消耗状態を余儀なくされるのである。
 その一例を挙げると、この「原左都子エッセイ集」を綴る事を“妄念”の中で義務化されたり、はたまたそのコメント返答をすることを強要されてうなされて夜中に目覚めてしまうことも、実はよくある有り様なのだ。 
 あるいは、現在高校生の我が子の“お弁当”をこの料理嫌いを自負する私が4月から毎日作るはめになっているのだが、朝方恐怖におののいて目覚めてしまうのは、このお弁当がどうしても作れない夢を見た瞬間である。

 こういった“夢現象”に関しては「無意識の観念」として心理学者のユングやフロイトも分析済みであることは私も既に心得ている。 
 それにしても、一旦目覚めてみれば取るに足りない事象であるどころか、普段はそれらの事象によってプラスの喜びも同時に得ていることを重々承知しているのに、“不眠症状”とは人の“悲しみ”“辛さ”“プレッシャー”等のマイナス面の無意識感情を増強した上で人に“悪さ”をするものだよね。

 だが人生経験を経て“要領の良さ”も持ち備えている私は、夜中に目覚めてしまった場合でも再び寝入る要領もちょっとわきまえてる。
 それの効用は人それぞれに異なると思うが、とにかく妄念を意識的に振り払って“もっと寝たい”と素直に思ってみるのも一つの方法かもしれないね。

 ところが、そんなに簡単な問題で済まされないのが真の「不眠症」の辛いところなのだろうなあ。 
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