原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

“聞き上手”の言い分

2009年11月03日 | 人間関係
 本ブログ「原左都子エッセイ集」において勝手なオピニオンを“言いたい放題”発信し続けている原左都子であるが、ネットを離れた現実社会においては、以外や以外“聞き上手”であると自己診断している。


 昔から生来的にそうであった訳では決してない。 ご覧の通り、常に発信したい種々のオピニオンを我が心中に山と抱えている私であるが故に、もしも話す場さえセッティングされれば、存分に喋り倒すエネルギーは常に内在している。 それが証拠にアルコールが入ると冗舌となり、周囲の迷惑を顧みずに一人芝居の演説をぶって顰蹙を買うことも少なくない。


 そんな“浅はか”な私が気が付けば“聞き上手”に転身していたのは、そのように志向してそうした訳ではなく、様々な人生経験がもたらした自然の成り行きであるのだろうと分析する。

 例えば職場において上司の立場となったり外部交渉の業務を経験することは、まだ若かりし私にとって“聞き上手”のノウハウを習得するにはまたとはない修行の場であったものだ。
 あるいは学校の教員など、生徒の話の“聞き上手”であることが生徒指導の第一歩であるとも言える。(ところが、こんな指導の初歩すら理解せずして、説教好きの“勘違い組”の熱血教員が学校現場には何とまあ多くのさばっていること…。 生徒に人気のある教員とは例外なく生徒の話の“聞き上手”であるのにねえ…)

 子を持つ母となって以降は、これぞ“聞き上手”の力量発揮の舞台である。
 子どもがまだ物心付かない頃に、人間特有に備わっている“話す”という能力を徐々に発揮し始める子どもが発するたどたどしい言語に耳を傾け反応することは、日々その子をじかに育てる母でしか享受できない至福の時間であろう。
 既に高校生に成長している我が子の「日課報告」を毎日聞きつつ、親子で笑い転げたり、ある時は子の苦悩に耳を傾け親子で対策を練る貴重な時間も、出来ればずっと末長く子どもと共有し続けたい一時である。

 故郷で一人暮らしの年老いた実母の話を電話で聞くのも、娘としての私のノルマである。
 これが、いつも嫌になるほど長~~いし、何度も同じ話を繰り返すという年寄りに特徴的な習性に例外がないのである。  時々堪忍袋の緒が切れそうになる私であるが、80歳近くになって尚、一緒に暮らしたいとも訴えずに田舎で一人で気丈に頑張っている母の“並々ならぬ決意”の程を思えば、“聞き上手”であることがせめてもの親孝行かと、親を放ったらかしている我が身として罪滅ぼしをする私である…


 一方で、私が“聞き上手”であらねばならぬ場面でないにもかかわらず、話を聞いてもらっていることに気付きもしないで、くだらない話をくっちゃべり続ける“単細胞人間”が、今の時代老若男女にかかわらずなんと多い実態なのであろう。

 例えば、ある場である人物とあくまでも対等関係で初対面であるようなシチュエーションにおいて、私としては話のとっかかりを繕うためにいつもの“聞き上手”のサービス精神でこちらから相手に語りかける。 そうした場合、私の問いかけに一通り答えた後で、通常は同様の質問を問い返す等の配慮をするのが会話関係の常識と私は認識しているのだが、こんな初歩的で簡単な会話術を心得る人がほとんどいない現状なのである。 引き続きその相手との会合を続行し時間を持たせるためには、こちらから“興味もなく聞きたくもない”質問を続け相槌を打つしかないのだが、相手は相変わらずそんな聞き手側の思惑を推し量る事ができず、問いかけに対して一人でくっちゃべるのみである。 こちらは欲してもいない回答を聞かされてばかりで、とてつもなくつまらない時間が過ぎ去るのだ。(こんな相手とは、今後一切付き合いたいとは思わないよな~~)

 どなたも自分の事を話す事には熱心である。 特にこちらが誠意を持って聞き役に徹した場合、自分の事を“聞かれる”ことはそれはそれはうれしいようで、喜んでいろいろと答えてくれる。 ところが、“聞き返し”という技をこれ程一般庶民が身に付けていないのは、一体どういう訳なのだろう??
 これはやはり、学校教育における「横並び教育の所産」(本ブログ同名のバックナンバー記事をご参照下さい。)であり、またこの国における“人間関係の希薄化現象”の成せる業であろう。
 早い話が、自分とそれに利害関係のある周辺にしか興味がなくて狭い視野しか持てず、自己中心の閉鎖空間で生きる国民が増殖している現状なのである。こんなことでは国民のグローバル性が育つ訳など到底ない。
 そんな現状にさらに拍車をかけるごとく、新政権は国民に“スズメの涙”程の手当をバラまくと言う。そのような短絡的な政策では、「友愛」の原点となるコミュニケーション能力が末端庶民に育つはずもないであろう。


 (最近テレビの国会答弁を好んで見ている私であるが、昨日昼間に放映された予算委員会国会答弁における自民党の大島さんの代表質問は、冷静沈着かつ専門力も伴っていてなかなかのものがあるぞ、頑張れ!!、とついついテレビの前で力を入れて応援した原左都子である。 それに答える鳩山さんも“敵の攻め”に対して“聞く耳”をお持ちのようだし、相当の頭脳の持ち主であられるのをこの原左都子も実感できて、“結構いけてましたよ~”と褒めて差し上げたいところである。  ところが残念なことに、鳩山総理はいざ答弁の段になると、その頭の良さ故に言葉を選び過ぎるのか、あるいはあえて丁寧な言葉を使うことで国民の耳を錯乱しようと企てているのか、ご自身の主義主張が曖昧模糊としてしまうところが難点であるなあ~。 原左都子としては、大島さんが何度も指摘されたように、質問に対してもっと単刀直入に答えてくれた方が一般国民に分かりやすいのかとも感じたものでありますぞ。)
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