私が今現在、現実世界で人と会話して一番の充実感が得られる相手はおそらく“我が娘”であるように思う。
娘が幼少の頃からずっと母である私が「お抱え家庭教師」をしつつ育ててきているという特殊事情のある親子関係であるため、娘より“絶大な信頼”を得ている実感が持てる私である。 それ故に、娘が高校生という一種難しい年頃になっているにもかかわらず、今尚娘とは大の仲良しであり会話も大いにはずむのだ。 外では口数の少ない娘であるが、家庭では私相手に大いに弾けてお喋りを楽しみ親子で笑い転げる日々である。
我が娘との会話においては、実感として思っていることと口にしている言葉とのギャップ感はほとんどなく、“ツーカー”で通じ合っている感覚が持てる親子関係を築けてきた歴史を幸せと捉える私である。
さて、11月28日(土)朝日新聞夕刊“こころ”のページの“悩みのレッスン”は、28歳会社員男性による「本音を話せない」と題する相談だった。
私の場合、他者に対して「本音を話せない」との感覚自体もなきにしもあらずなのだが、それ以前の問題としてこの男性の相談内容の一部が、人との会話において私が日常経験している感覚とピッタリ重複するのだ。
今回の相談の中からその“ピッタリ重複”部分のみをピックアップして、以下に紹介することにしよう。
私は話をするときに、実感として思っていることと口にする言葉のギャップがあるような気がして、居心地の悪さを感じている。表面的な話はできるが、どうも薄っぺらく、ウソっぽい感じがする。 例えば何かを見たり読んだりしたあとの感想を聞かれると困る。できるだけ伝わるようにしたいと思うが、うまくできた実感が持てない。他人との会話においても、本音で話していないような気がする。
(以上、“悩みの相談”内容より一部のみ抜粋引用)
私論に入るが、相談の上記の部分に関してまったく同感である。
私も既に中学生位の思春期頃から同様の感覚があり、今尚他者との会話等においてこの種のジレンマ感が否めない場面が多いのだ。
もしかしたら、会話の場面において常に自己表現に意欲的で多弁な人とは、自己の内面に抱いている情景や感覚を言葉というツールに置き換えることが得意で、リアルタイムでいくらでも対面している他者相手に、自己を十分に表出することが可能であるのかもしれない。
ところが人間関係を客観的に捉え、他者が共存する時間空間の中で自己があるべき立場の整合性を取るべく相対性を描いてしまう人種にとっては、その場でどのような対応をするのがベストか、などという命題が常に脳裏を過ぎってしまうのである。
そんな私のような(“客観性”があると豪語させていただくが)人種が全体の整合性を捉えようとして発言を見計らっている合間に、先導力があって(?)多弁な人の独断場となってしまうのが、人間同志のあらゆる会話の場における現実であり宿命であるのではなかろうか。
ただ、場をわきまえず自己を小集団内で披露して喋り続ける人種が展開する話とは、大抵の場合は独りよがりでつまらない内容であり、端で聞いていて忍びない場合がほとんどであるのも事実ではなかろうか。
そもそも人間が複数集まる会合の場において先導を切って喋り続ける“多弁型人種”が「実感と言葉のギャップ感」に悩むことなどあるのだろうか?? 恐らくそういう感覚を持ち得たためしがないからこそ、他者相手に一人で延々と喋り続けられるのであろう。 その種の人種が一体全体、如何なる内在心理や思想を抱えて生きているのか、それで満足し得る人生を歩めているのか解明したい気もする私である。
相談内容の後半部分であるが、「何かを見たり読んだりした後の感想を“直後”に聞かれると困る」に関しても、まったく同感の私である。
既に小学生時代から、私もその感覚に悩んでいたものである。 例えば、国語や道徳の授業で何らかの教材を見聞した直後に「皆さんはどう思いますか?」と担任が尋ねる。それに即座に我先に「ハイ!」「ハイ!」と反応する単純な生徒が何とまあ、多いこと… 私など、当時から物事を多角的、論理的に捉えようとする心理習慣があったがために即答など出来やしないのだ。 それで時間をかけてあれこれと思いを巡らせていると、必ずや担任から「○○ちゃん(私のこと)も積極的に発表しなきゃダメよ!」 (もう、勘弁してよ…) の心理状態を引きずったものである。
今の時代は言葉による“プレゼンテーション力”も重要とのことで、小学生時代から義務教育のすべての子ども達に「発表力」を習得させるべく国語教育も展開されているようである。 その“成果”であるのか? 確かに、若い世代に「発表力」が育ってきているような場面にも出くわす。
ところが、実は一番肝要なのはそのプレゼンテーションの“内容”であるということが、まだ義務教育段階では認識されていないように見受けられるのだ。 独りよがりに何を喋っても認められる訳がないことを教育せずして、ただただプレゼンテーションとは“人前で堂々と話す度量”との教育は意味をなさないことを教育関係者は再確認するべきである。
人との“会話における実感と言葉のギャップ”に悩むごとくの繊細さ緻密さや他者に対する配慮こそが豊かな会話関係、ひいては人間関係を創りゆくことを学習して、真に充実した会話を日々楽しもうじゃないですか。
娘が幼少の頃からずっと母である私が「お抱え家庭教師」をしつつ育ててきているという特殊事情のある親子関係であるため、娘より“絶大な信頼”を得ている実感が持てる私である。 それ故に、娘が高校生という一種難しい年頃になっているにもかかわらず、今尚娘とは大の仲良しであり会話も大いにはずむのだ。 外では口数の少ない娘であるが、家庭では私相手に大いに弾けてお喋りを楽しみ親子で笑い転げる日々である。
我が娘との会話においては、実感として思っていることと口にしている言葉とのギャップ感はほとんどなく、“ツーカー”で通じ合っている感覚が持てる親子関係を築けてきた歴史を幸せと捉える私である。
さて、11月28日(土)朝日新聞夕刊“こころ”のページの“悩みのレッスン”は、28歳会社員男性による「本音を話せない」と題する相談だった。
私の場合、他者に対して「本音を話せない」との感覚自体もなきにしもあらずなのだが、それ以前の問題としてこの男性の相談内容の一部が、人との会話において私が日常経験している感覚とピッタリ重複するのだ。
今回の相談の中からその“ピッタリ重複”部分のみをピックアップして、以下に紹介することにしよう。
私は話をするときに、実感として思っていることと口にする言葉のギャップがあるような気がして、居心地の悪さを感じている。表面的な話はできるが、どうも薄っぺらく、ウソっぽい感じがする。 例えば何かを見たり読んだりしたあとの感想を聞かれると困る。できるだけ伝わるようにしたいと思うが、うまくできた実感が持てない。他人との会話においても、本音で話していないような気がする。
(以上、“悩みの相談”内容より一部のみ抜粋引用)
私論に入るが、相談の上記の部分に関してまったく同感である。
私も既に中学生位の思春期頃から同様の感覚があり、今尚他者との会話等においてこの種のジレンマ感が否めない場面が多いのだ。
もしかしたら、会話の場面において常に自己表現に意欲的で多弁な人とは、自己の内面に抱いている情景や感覚を言葉というツールに置き換えることが得意で、リアルタイムでいくらでも対面している他者相手に、自己を十分に表出することが可能であるのかもしれない。
ところが人間関係を客観的に捉え、他者が共存する時間空間の中で自己があるべき立場の整合性を取るべく相対性を描いてしまう人種にとっては、その場でどのような対応をするのがベストか、などという命題が常に脳裏を過ぎってしまうのである。
そんな私のような(“客観性”があると豪語させていただくが)人種が全体の整合性を捉えようとして発言を見計らっている合間に、先導力があって(?)多弁な人の独断場となってしまうのが、人間同志のあらゆる会話の場における現実であり宿命であるのではなかろうか。
ただ、場をわきまえず自己を小集団内で披露して喋り続ける人種が展開する話とは、大抵の場合は独りよがりでつまらない内容であり、端で聞いていて忍びない場合がほとんどであるのも事実ではなかろうか。
そもそも人間が複数集まる会合の場において先導を切って喋り続ける“多弁型人種”が「実感と言葉のギャップ感」に悩むことなどあるのだろうか?? 恐らくそういう感覚を持ち得たためしがないからこそ、他者相手に一人で延々と喋り続けられるのであろう。 その種の人種が一体全体、如何なる内在心理や思想を抱えて生きているのか、それで満足し得る人生を歩めているのか解明したい気もする私である。
相談内容の後半部分であるが、「何かを見たり読んだりした後の感想を“直後”に聞かれると困る」に関しても、まったく同感の私である。
既に小学生時代から、私もその感覚に悩んでいたものである。 例えば、国語や道徳の授業で何らかの教材を見聞した直後に「皆さんはどう思いますか?」と担任が尋ねる。それに即座に我先に「ハイ!」「ハイ!」と反応する単純な生徒が何とまあ、多いこと… 私など、当時から物事を多角的、論理的に捉えようとする心理習慣があったがために即答など出来やしないのだ。 それで時間をかけてあれこれと思いを巡らせていると、必ずや担任から「○○ちゃん(私のこと)も積極的に発表しなきゃダメよ!」 (もう、勘弁してよ…) の心理状態を引きずったものである。
今の時代は言葉による“プレゼンテーション力”も重要とのことで、小学生時代から義務教育のすべての子ども達に「発表力」を習得させるべく国語教育も展開されているようである。 その“成果”であるのか? 確かに、若い世代に「発表力」が育ってきているような場面にも出くわす。
ところが、実は一番肝要なのはそのプレゼンテーションの“内容”であるということが、まだ義務教育段階では認識されていないように見受けられるのだ。 独りよがりに何を喋っても認められる訳がないことを教育せずして、ただただプレゼンテーションとは“人前で堂々と話す度量”との教育は意味をなさないことを教育関係者は再確認するべきである。
人との“会話における実感と言葉のギャップ”に悩むごとくの繊細さ緻密さや他者に対する配慮こそが豊かな会話関係、ひいては人間関係を創りゆくことを学習して、真に充実した会話を日々楽しもうじゃないですか。