今を遡る事17年前の1994年に、オウム真理教が長野県松本市において無差別テロである「松本サリン事件」を引き起こしたのは、我が子が生まれて数ヶ月が経過した頃だったであろうか。
戦後50年も経過しているというのに、戦時中に密造され悪用された化学兵器である神経ガス “サリン” を用いた無差別テロ犯罪の底知れぬ不気味さに、日本中が震撼させられたものである。
(オウム真理教とは無関係だが) 我が子が1歳になって間もない1995年1月に、今度は「阪神淡路大震災」が勃発し数千人に上る犠牲者が出た。 テレビの生影像で高速道路が崩れ落ちた様子や町全体が焼け尽くされる惨像を見せつけらるごとくの経験は、私にとってその時が初めてだったかもしれない。
多少の事情故に手がかかる幼子を抱え日々悪戦苦闘していた私の脳裏には、度重なる信じ難い惨事の発生に、いやが上にも“世紀末”感が漂ったものである。
その直後に(種々の理由があり大損失を計上して住まいの物件を買い換え)転居をして新たな地で少し気分を持ち直し子育てに励んでいた私を、またもや“奈落の底”に引き落とすべく衝撃を与えたのは、1995年3月に東京都内において発生した「地下鉄サリン事件」である。
この時の様子は実によく憶えている。
午前中は1歳を過ぎた我が子をあやしつつ一緒にテレビの子供番組を見ながら、掃除をしたり布団を干したりするのが私の日課だった。
その時、テレビの画面にニュース速報のテロップが入った。 東京都内の地下鉄において多くの人が倒れたとの情報だった。
地下鉄霞ヶ関駅と言えば、私も独身時代に仕事先への通勤ルートの乗り換え駅として日々利用していた。 あの駅とは外が官庁街であるため、普段よりさほどの喧騒はなく混雑している時でもビジネスマン風の乗客が多いのが特徴である。 その一種特質的な都心の駅で人が大勢倒れただと??
この「地下鉄サリン事件」が勃発する以前に発生した冒頭の「松本サリン事件」後より、警察庁や公安の調査は水面下で進んでいたようだ。
「松本サリン事件」においては冤罪者を出すとの大失策を演じた警察庁及び公安であるが、さすがにその後、世にも稀な“毒ガステロ事件”の調査を虎視眈々と進めていた様子だった事は一応の評価に値するのかもしれない。
どうやら「松本サリン事件」後よりこの犯罪にはオウム真理教が関与しているとの憶測はあったようだ。
95年3月に「地下鉄サリン事件」が発生した後程なく「目黒公証人役場事務長拉致監禁致死事件」でオウム真理教に対する強制捜査が実施された。 その過程でオウム真理教幹部は、松本サリン事件がオウム真理教の犯行であることを自供したとのことだ。
オウム真理教の教祖麻原彰晃(松本智津夫)は、上記公証役場担当者よりの立ち退き請求の現実を打開するために、同教団信者である村井秀夫・新実智光・端本悟・中村昇・中川智正・富田隆・遠藤誠一らに、裁判を担当する判事の殺害を指示した。これを受け、同信者らは長野地方裁判所松本支部官舎に隣接する住宅街にサリンを散布した、というものであったとのことだ。 (以上、ウィキペディアより引用要約)
ところで、何故今回原左都子が“オウム真理教”関連事件を題材とした記事を綴っているのかに関しては、我が家なりの“迷惑事情”があったからに他ならない。
ちょうど上記の「地下鉄サリン事件」が勃発した直後頃であろうか。
転居して間もない我が家に警察官2人が昼間訪問して来た。 その2人から在宅していた私に“我が身内に関する詳細の質問”等が投げかけられたのである。
「ご主人は研究者でいらっしゃいますよね」 「現在○○会社の基礎研究員でおられるようですが、どのような研究をなさっていますか?」 「奥様はどのような業種で働かれていますか?」等々……
(どうもこの警察官達は、我が家の個人情報を徹底的に調べ上げた上で家まで押しかけているぞ。 それにしても一体何を聴取したいがために家まで直接訪問して来たのだろうか??)
身内が帰宅した後、早速これに関して話し合った。
その結果、「オウム真理教」関連で我が自宅まで警察官(公安)が押し寄せた確率が高いことは直ぐに察しがついた。
「オウム真理教」が教団内に“いわゆるエリート”を集結させていたことはその後のニュース報道等で解明された通りである。
中でも、例えば教団の公報を担当してテレビ出演していた“上裕○○氏”と我が身内(我が身内の方が先輩の立場なのだが)は、高校時代より大学博士課程まで同じ道程を歩んでいるのだ!
その大学や大学院で同じ学科に所属していた同窓生が「オウム真理教」に係わっていた事実も存在する中で、警察(公安)がその大学の理系博士課程まで進んだ人種を教団から入手した「同窓会名簿」等を頼りとして“しらみつぶし”に調査しても不思議ではない事だったのであろう。
その後も何年にも及んで、警察(公安)の我が家の追跡は現在の住まい地である住居までへも続行したのである。
何せ、幾度も住居を買い換えている我が家である。 それは決して“警察(公安)”の追跡から逃げるためではなく我が家自らの事情によるのであるが、どういう訳か、引き続き警察のフォローを受け続けたのだ。
次に転居した住居地にも警察は幾度かやって来た。
警察官氏が言うには 「この辺は強盗に遭った家もありますから、鍵をかけるようにお願いします」等々と私に伝える割には、集合住宅の他の住居に訪問するでもなくそそくさと帰ったのである…
現在の住居地に転居した時にも警察官がやって来た。
「何かお変わりありませんか?」 などと親切そうに言いつつ、「何か困ったことがありましたらお電話をいただきたいので、その電話番号を書く紙を持ってきてくれませんか?」と私に言うのだ。 “ちょっと待ってよ。こう言って私を安心させる強盗もいるじゃないか! それにしても相手は確かに警察官の恰好をしているぞ。 やはり、亭主がまだ“オウム真理教信者”だと疑って調べに来ているのか??” などと不信感を募らせつつ玄関まで紙を持参したところ、本当に管轄警察署の電話番号と自分の内線番号を書いて帰ったのである。(その紙片は今尚保存してあるのだが)
身内が帰宅後その警察の連絡先を見せつつ、“我が家はまだ公安にチェックされてるね” と話し合ったものである。
まあそれにしても今となっては、「オウム真理教」加害者としてよりもむしろ“被害者”候補者として暗黙に警察(公安)より保護されていたのかもしれないと、善意に解釈している我が一家である。
そんな一連の「オウム真理教」による残虐な事件の数々に係わった人物すべての死刑判決が先だって下されたとのことである。
どうやら我が家もそれに関連して追跡されていたように思うのだが、先だって「オウム真理教事件」に関する法的判決が一段落したことを受けて身内と語りあったのだ。
身内曰く、1990年代前半頃といえば博士課程まで進んだ研究者の卵が既に就職困難にあえぎ始めた時代であったとの事だ。
ここから原左都子の私論に入るが、そんな一種“世間知らずの頭でっかち人間”にとってはどこでもいいから自分の専門を貫きたい思いもあったのだろう。 そこに甘い汁を投げかけたのが「オウム真理教」だったのではなかろうか?
あの “サリン” を製造させてもらえる!?!
それが“ミラクル世界”である事は、元科学者の端くれである私にも少し理解できるような気がしないではない。
ところが人間とはそんな自分の身勝手な見識や立場を超えて、五感を磨きつつこの世に生きて行かねばならない事を運命付けられた生命体なのだ。
その意味で、愚かにも「オウム真理教」幹部の殺害指示に従いそれを実行して“死刑”判決を受けた死刑囚達は、その判決に従って命を閉じるしか道は残されていないのである……
戦後50年も経過しているというのに、戦時中に密造され悪用された化学兵器である神経ガス “サリン” を用いた無差別テロ犯罪の底知れぬ不気味さに、日本中が震撼させられたものである。
(オウム真理教とは無関係だが) 我が子が1歳になって間もない1995年1月に、今度は「阪神淡路大震災」が勃発し数千人に上る犠牲者が出た。 テレビの生影像で高速道路が崩れ落ちた様子や町全体が焼け尽くされる惨像を見せつけらるごとくの経験は、私にとってその時が初めてだったかもしれない。
多少の事情故に手がかかる幼子を抱え日々悪戦苦闘していた私の脳裏には、度重なる信じ難い惨事の発生に、いやが上にも“世紀末”感が漂ったものである。
その直後に(種々の理由があり大損失を計上して住まいの物件を買い換え)転居をして新たな地で少し気分を持ち直し子育てに励んでいた私を、またもや“奈落の底”に引き落とすべく衝撃を与えたのは、1995年3月に東京都内において発生した「地下鉄サリン事件」である。
この時の様子は実によく憶えている。
午前中は1歳を過ぎた我が子をあやしつつ一緒にテレビの子供番組を見ながら、掃除をしたり布団を干したりするのが私の日課だった。
その時、テレビの画面にニュース速報のテロップが入った。 東京都内の地下鉄において多くの人が倒れたとの情報だった。
地下鉄霞ヶ関駅と言えば、私も独身時代に仕事先への通勤ルートの乗り換え駅として日々利用していた。 あの駅とは外が官庁街であるため、普段よりさほどの喧騒はなく混雑している時でもビジネスマン風の乗客が多いのが特徴である。 その一種特質的な都心の駅で人が大勢倒れただと??
この「地下鉄サリン事件」が勃発する以前に発生した冒頭の「松本サリン事件」後より、警察庁や公安の調査は水面下で進んでいたようだ。
「松本サリン事件」においては冤罪者を出すとの大失策を演じた警察庁及び公安であるが、さすがにその後、世にも稀な“毒ガステロ事件”の調査を虎視眈々と進めていた様子だった事は一応の評価に値するのかもしれない。
どうやら「松本サリン事件」後よりこの犯罪にはオウム真理教が関与しているとの憶測はあったようだ。
95年3月に「地下鉄サリン事件」が発生した後程なく「目黒公証人役場事務長拉致監禁致死事件」でオウム真理教に対する強制捜査が実施された。 その過程でオウム真理教幹部は、松本サリン事件がオウム真理教の犯行であることを自供したとのことだ。
オウム真理教の教祖麻原彰晃(松本智津夫)は、上記公証役場担当者よりの立ち退き請求の現実を打開するために、同教団信者である村井秀夫・新実智光・端本悟・中村昇・中川智正・富田隆・遠藤誠一らに、裁判を担当する判事の殺害を指示した。これを受け、同信者らは長野地方裁判所松本支部官舎に隣接する住宅街にサリンを散布した、というものであったとのことだ。 (以上、ウィキペディアより引用要約)
ところで、何故今回原左都子が“オウム真理教”関連事件を題材とした記事を綴っているのかに関しては、我が家なりの“迷惑事情”があったからに他ならない。
ちょうど上記の「地下鉄サリン事件」が勃発した直後頃であろうか。
転居して間もない我が家に警察官2人が昼間訪問して来た。 その2人から在宅していた私に“我が身内に関する詳細の質問”等が投げかけられたのである。
「ご主人は研究者でいらっしゃいますよね」 「現在○○会社の基礎研究員でおられるようですが、どのような研究をなさっていますか?」 「奥様はどのような業種で働かれていますか?」等々……
(どうもこの警察官達は、我が家の個人情報を徹底的に調べ上げた上で家まで押しかけているぞ。 それにしても一体何を聴取したいがために家まで直接訪問して来たのだろうか??)
身内が帰宅した後、早速これに関して話し合った。
その結果、「オウム真理教」関連で我が自宅まで警察官(公安)が押し寄せた確率が高いことは直ぐに察しがついた。
「オウム真理教」が教団内に“いわゆるエリート”を集結させていたことはその後のニュース報道等で解明された通りである。
中でも、例えば教団の公報を担当してテレビ出演していた“上裕○○氏”と我が身内(我が身内の方が先輩の立場なのだが)は、高校時代より大学博士課程まで同じ道程を歩んでいるのだ!
その大学や大学院で同じ学科に所属していた同窓生が「オウム真理教」に係わっていた事実も存在する中で、警察(公安)がその大学の理系博士課程まで進んだ人種を教団から入手した「同窓会名簿」等を頼りとして“しらみつぶし”に調査しても不思議ではない事だったのであろう。
その後も何年にも及んで、警察(公安)の我が家の追跡は現在の住まい地である住居までへも続行したのである。
何せ、幾度も住居を買い換えている我が家である。 それは決して“警察(公安)”の追跡から逃げるためではなく我が家自らの事情によるのであるが、どういう訳か、引き続き警察のフォローを受け続けたのだ。
次に転居した住居地にも警察は幾度かやって来た。
警察官氏が言うには 「この辺は強盗に遭った家もありますから、鍵をかけるようにお願いします」等々と私に伝える割には、集合住宅の他の住居に訪問するでもなくそそくさと帰ったのである…
現在の住居地に転居した時にも警察官がやって来た。
「何かお変わりありませんか?」 などと親切そうに言いつつ、「何か困ったことがありましたらお電話をいただきたいので、その電話番号を書く紙を持ってきてくれませんか?」と私に言うのだ。 “ちょっと待ってよ。こう言って私を安心させる強盗もいるじゃないか! それにしても相手は確かに警察官の恰好をしているぞ。 やはり、亭主がまだ“オウム真理教信者”だと疑って調べに来ているのか??” などと不信感を募らせつつ玄関まで紙を持参したところ、本当に管轄警察署の電話番号と自分の内線番号を書いて帰ったのである。(その紙片は今尚保存してあるのだが)
身内が帰宅後その警察の連絡先を見せつつ、“我が家はまだ公安にチェックされてるね” と話し合ったものである。
まあそれにしても今となっては、「オウム真理教」加害者としてよりもむしろ“被害者”候補者として暗黙に警察(公安)より保護されていたのかもしれないと、善意に解釈している我が一家である。
そんな一連の「オウム真理教」による残虐な事件の数々に係わった人物すべての死刑判決が先だって下されたとのことである。
どうやら我が家もそれに関連して追跡されていたように思うのだが、先だって「オウム真理教事件」に関する法的判決が一段落したことを受けて身内と語りあったのだ。
身内曰く、1990年代前半頃といえば博士課程まで進んだ研究者の卵が既に就職困難にあえぎ始めた時代であったとの事だ。
ここから原左都子の私論に入るが、そんな一種“世間知らずの頭でっかち人間”にとってはどこでもいいから自分の専門を貫きたい思いもあったのだろう。 そこに甘い汁を投げかけたのが「オウム真理教」だったのではなかろうか?
あの “サリン” を製造させてもらえる!?!
それが“ミラクル世界”である事は、元科学者の端くれである私にも少し理解できるような気がしないではない。
ところが人間とはそんな自分の身勝手な見識や立場を超えて、五感を磨きつつこの世に生きて行かねばならない事を運命付けられた生命体なのだ。
その意味で、愚かにも「オウム真理教」幹部の殺害指示に従いそれを実行して“死刑”判決を受けた死刑囚達は、その判決に従って命を閉じるしか道は残されていないのである……