“訃報”とは、いつの時代もどなた宛にも「突然舞い込んで来る」性質の便りであろう。
それを承知の上ではあるが、一昨日原左都子の手元に届いた“訃報”は今までの我が人生最大のショックであり、現在も憔悴し切っている…。
それにしても今年の年度末は、どういう訳か我が身にビックイベントや予期せぬ出来事が次から次へと展開し、我が心身がそれに何とこさついていっているような有様である。
まずは我が子の高校卒業式に謝恩会。 その通過儀式に於いて親としての役割が一段落した後、今度は恩師の文化勲章叙勲受章お祝いパーティへ出席させていただくことと相成った。
その3日後のお彼岸の日に訪れた我が嫁ぎ先親族の墓参りにおいては、いよいよ義母の介護の重荷を背負う覚悟を決める段取りとなった事を自覚した。
来る4月2日には娘の大学入学式に出席予定、引き続いて4月4日に亭主が定年退職を向かえる。
それに先立ち来週中のビックイベントとして、アートフェア東京にギャラリーを出展される知人より招待状を頂戴し、オープニングレビューに出席させていただけるスケジュールとなっている。 そのパーティ会場で女優・タレントとしてもご活躍の 画家 城戸真亜子氏 にお目にかかれる予定である。(詳細につきましては、後日当エッセイ集にて報告致します。)
そのアートフェアに着ていく衣裳でも考えつつ、少しは腰を落ち着けて現在最終段階に入っている娘の大学入学準備課題を応援しようと思っていた矢先、我が身に舞い込んできたのが予期せぬ“訃報”であった。
“訃報”の差出人は故人のお姉様であられた。
頂戴したお便りの文面を少し紹介しよう。
「突然のお便りをお許し下さいませ。 私は○子の姉でございます。
○子、2月5日(推定) 蜘蛛膜下出血のため死去いたしました。
生前仲良くしていただきましたことを、○子より伺っておりました。有難うございます。
2月23日に身内にて葬儀を執り行いました。
近く△△霊園にて両親のもとに送ってやりたいと思っております。
○子の冥福を祈っていただければ幸甚に存じます。
……… 」
唖然……、 としか表現しようがない。
この故人を私は「ヨーコちゃん」と呼んで懇親にさせていただいていた。
私がヨーコちゃんと知り合ったのは、30代後半に新人として赴任した高校教員時代に遡る。 職場の大先輩であり人生の大先輩でもあるヨーコちゃんとはお互いに「独身」という共通項があったことが一番の理由と分析するが、とにかく直ぐに意気投合した。 私よりも13歳年上であられたヨーコちゃんを、そのように呼称しても許されるごとくの仲良しだった。(あちらも私のことをいつも“○ちゃん”と呼んで下さっていた。)
ヨーコちゃんは「原左都子エッセイ集」のバックナンバーにも匿名、別名で何度か登場しているが、我が黄金独身時代を実質的に支えてくれた第一人者であると言い切れる。 ヨーコちゃんに頼らなくてはおそらく私の独身時代は成り立たなかったと言える程に慕わせていただき、応援いただいた人物である。
例えば、ヨーコちゃん自身はお酒が一滴も飲めない体質であるにもかかわらず、酒好きな私に付き合って居酒屋やカラオケにもよく同行し一緒に楽しんで下さった。 職場の近くにヨーコちゃんのご自宅があるのをよいことに、仕事帰りに頻繁に立ち寄らせていただいたりもした。 ヨーコちゃんが職場異動した後にも、私は合鍵を持たせてもらい勝手に部屋に上がりこんでヨーコちゃんが作っておいてくれたおでんを温めて酒を飲みつつ、ヨーコちゃんの帰りを待ったりもした。 お母上からご伝授されたと言う手作りの“たまり醤油漬けらっきょ”をヨーコちゃんはいつも常備されており、それをさかなに飲むお酒が何と美味だったことだろう…
ヨーコちゃんとのお付き合いは、私の婚姻・出産、職場退職後もまだまだ続く。
私の結婚式は「親族版」と「友人・知人版」を別枠として2本立てで執り行ったのだが、ヨーコちゃんには「親族版」にもご出席いただいた。 何故ならば、上京後の私にとっては遠方に暮らす親族よりも、ヨーコちゃんこそが我が実質的親族であると判断したためである。 それ程までに私にとってヨーコちゃんの存在とは親族よりも濃い間柄だったと表現できるのだ。
我が娘の誕生直後にも遠路はるばるお起し下さった。
40歳にして私が癌を患い闘病を余儀なくされた時に、弱音を吐きたくない私がその現状を一番に知らせたのもヨーコちゃんである。(もう一方「梅さん」とおっしゃる我が尊敬すべき恩人にもお知らせし、ご両人のみに闘病中の私を見舞っていただいたのだが…。)
その後もヨーコちゃんには我が子の成長を見守っていただいている。 親子でヨーコちゃんのご自宅に押しかけたこともあれば、我が子のバレエの舞台の招待状を送らせていただきご観賞いただいたこともある。
我が子の中学受験の頃からヨーコちゃんとは少し疎遠となってしまったのだろうか??
それでも、例えば職場の同窓会合に出席する等何らかの用件があれば電話をさせて頂いたり、また年賀状は毎年かかさず投函させていただいていた。
2年程前に“目を患った”と訴えれらていたヨーコちゃんである。 その目の症状に関して尋ねたところ「片目は十分見えていて、○ちゃん(私のこと)が送ってくれた年賀状の写真はとても美しいのは分かってるよ!」などと昔ながらに気丈かつご配慮心をもって返答を頂戴したものだ。
その年賀状の返答が今年に限って、律儀なヨーコちゃんから届かない事が大変気掛かりな私と娘だった事には間違いない。
我が子が大学に入学した暁には、じっくりとヨーコちゃんに連絡を取って再会しようと志していた私の判断は、実に残念な事に時既に遅しだった……
本日、ヨーコちゃんのお姉様宛に“霊園でのご法事には是非共出席させていただきたい”意向のお手紙を綴り投函させていただいた私だ…
それにしても前回の記事に於いても公開したが、墓前で既に帰らぬ人の冥福を祈ろうがその思いが故人に届かない虚しさを実感させられるのは私だけなのだろうか…。
私の場合、ヨーコちゃんご生前の時期にご連絡差し上げる手立てが十分あったにもかかわらず、それを一時怠っていた間にヨーコちゃんが死に至ったことが、実に、実に、実に悔やまれるのだ……
そんな正に“お悔やみ”の思いをせめてもご遺族にお伝えすることが今の私に残された最後の任務と心得て、是非共ヨーコちゃんのご法事には末席に参列させていただきたいと欲している私である……
それを承知の上ではあるが、一昨日原左都子の手元に届いた“訃報”は今までの我が人生最大のショックであり、現在も憔悴し切っている…。
それにしても今年の年度末は、どういう訳か我が身にビックイベントや予期せぬ出来事が次から次へと展開し、我が心身がそれに何とこさついていっているような有様である。
まずは我が子の高校卒業式に謝恩会。 その通過儀式に於いて親としての役割が一段落した後、今度は恩師の文化勲章叙勲受章お祝いパーティへ出席させていただくことと相成った。
その3日後のお彼岸の日に訪れた我が嫁ぎ先親族の墓参りにおいては、いよいよ義母の介護の重荷を背負う覚悟を決める段取りとなった事を自覚した。
来る4月2日には娘の大学入学式に出席予定、引き続いて4月4日に亭主が定年退職を向かえる。
それに先立ち来週中のビックイベントとして、アートフェア東京にギャラリーを出展される知人より招待状を頂戴し、オープニングレビューに出席させていただけるスケジュールとなっている。 そのパーティ会場で女優・タレントとしてもご活躍の 画家 城戸真亜子氏 にお目にかかれる予定である。(詳細につきましては、後日当エッセイ集にて報告致します。)
そのアートフェアに着ていく衣裳でも考えつつ、少しは腰を落ち着けて現在最終段階に入っている娘の大学入学準備課題を応援しようと思っていた矢先、我が身に舞い込んできたのが予期せぬ“訃報”であった。
“訃報”の差出人は故人のお姉様であられた。
頂戴したお便りの文面を少し紹介しよう。
「突然のお便りをお許し下さいませ。 私は○子の姉でございます。
○子、2月5日(推定) 蜘蛛膜下出血のため死去いたしました。
生前仲良くしていただきましたことを、○子より伺っておりました。有難うございます。
2月23日に身内にて葬儀を執り行いました。
近く△△霊園にて両親のもとに送ってやりたいと思っております。
○子の冥福を祈っていただければ幸甚に存じます。
……… 」
唖然……、 としか表現しようがない。
この故人を私は「ヨーコちゃん」と呼んで懇親にさせていただいていた。
私がヨーコちゃんと知り合ったのは、30代後半に新人として赴任した高校教員時代に遡る。 職場の大先輩であり人生の大先輩でもあるヨーコちゃんとはお互いに「独身」という共通項があったことが一番の理由と分析するが、とにかく直ぐに意気投合した。 私よりも13歳年上であられたヨーコちゃんを、そのように呼称しても許されるごとくの仲良しだった。(あちらも私のことをいつも“○ちゃん”と呼んで下さっていた。)
ヨーコちゃんは「原左都子エッセイ集」のバックナンバーにも匿名、別名で何度か登場しているが、我が黄金独身時代を実質的に支えてくれた第一人者であると言い切れる。 ヨーコちゃんに頼らなくてはおそらく私の独身時代は成り立たなかったと言える程に慕わせていただき、応援いただいた人物である。
例えば、ヨーコちゃん自身はお酒が一滴も飲めない体質であるにもかかわらず、酒好きな私に付き合って居酒屋やカラオケにもよく同行し一緒に楽しんで下さった。 職場の近くにヨーコちゃんのご自宅があるのをよいことに、仕事帰りに頻繁に立ち寄らせていただいたりもした。 ヨーコちゃんが職場異動した後にも、私は合鍵を持たせてもらい勝手に部屋に上がりこんでヨーコちゃんが作っておいてくれたおでんを温めて酒を飲みつつ、ヨーコちゃんの帰りを待ったりもした。 お母上からご伝授されたと言う手作りの“たまり醤油漬けらっきょ”をヨーコちゃんはいつも常備されており、それをさかなに飲むお酒が何と美味だったことだろう…
ヨーコちゃんとのお付き合いは、私の婚姻・出産、職場退職後もまだまだ続く。
私の結婚式は「親族版」と「友人・知人版」を別枠として2本立てで執り行ったのだが、ヨーコちゃんには「親族版」にもご出席いただいた。 何故ならば、上京後の私にとっては遠方に暮らす親族よりも、ヨーコちゃんこそが我が実質的親族であると判断したためである。 それ程までに私にとってヨーコちゃんの存在とは親族よりも濃い間柄だったと表現できるのだ。
我が娘の誕生直後にも遠路はるばるお起し下さった。
40歳にして私が癌を患い闘病を余儀なくされた時に、弱音を吐きたくない私がその現状を一番に知らせたのもヨーコちゃんである。(もう一方「梅さん」とおっしゃる我が尊敬すべき恩人にもお知らせし、ご両人のみに闘病中の私を見舞っていただいたのだが…。)
その後もヨーコちゃんには我が子の成長を見守っていただいている。 親子でヨーコちゃんのご自宅に押しかけたこともあれば、我が子のバレエの舞台の招待状を送らせていただきご観賞いただいたこともある。
我が子の中学受験の頃からヨーコちゃんとは少し疎遠となってしまったのだろうか??
それでも、例えば職場の同窓会合に出席する等何らかの用件があれば電話をさせて頂いたり、また年賀状は毎年かかさず投函させていただいていた。
2年程前に“目を患った”と訴えれらていたヨーコちゃんである。 その目の症状に関して尋ねたところ「片目は十分見えていて、○ちゃん(私のこと)が送ってくれた年賀状の写真はとても美しいのは分かってるよ!」などと昔ながらに気丈かつご配慮心をもって返答を頂戴したものだ。
その年賀状の返答が今年に限って、律儀なヨーコちゃんから届かない事が大変気掛かりな私と娘だった事には間違いない。
我が子が大学に入学した暁には、じっくりとヨーコちゃんに連絡を取って再会しようと志していた私の判断は、実に残念な事に時既に遅しだった……
本日、ヨーコちゃんのお姉様宛に“霊園でのご法事には是非共出席させていただきたい”意向のお手紙を綴り投函させていただいた私だ…
それにしても前回の記事に於いても公開したが、墓前で既に帰らぬ人の冥福を祈ろうがその思いが故人に届かない虚しさを実感させられるのは私だけなのだろうか…。
私の場合、ヨーコちゃんご生前の時期にご連絡差し上げる手立てが十分あったにもかかわらず、それを一時怠っていた間にヨーコちゃんが死に至ったことが、実に、実に、実に悔やまれるのだ……
そんな正に“お悔やみ”の思いをせめてもご遺族にお伝えすることが今の私に残された最後の任務と心得て、是非共ヨーコちゃんのご法事には末席に参列させていただきたいと欲している私である……