原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

昔受けた「いじめ」をあなたは許せますか?

2013年09月21日 | 人間関係
 朝日新聞9月12日付「声」欄に、心温まる投稿を発見した。

 (余談ではあるが、現在「声」欄は“無断転載禁止”扱いとなっている。 これは、「声」欄が読者から寄せられた投稿を実名にて紙面で公開している故のトラブルを回避する目的と私は解釈している。 従って、個人が匿名で転用する分には“無断転載禁止”措置違反とはならないであろうと我が身息災に捉え、紹介させていただく事とする。)


 早速67歳主婦による 「昔のいじめ許してあげます」 と題する投稿を、以下に要約して紹介しよう。
 故郷で行われた中学校の同窓会に出席した。 各自の近況報告の後私はある人のそばに行き、「私、あなたにいじめられていたことがあるのだけれど覚えてる?」と聞いてみた。 その人は私の名札をじっと見て、「本当?」 「あの頃は太っていたから当時のプロレスラーの名前で呼ばれていた」事を伝えると、瞬間彼は遠くを見た。 「そんなこと言ったの。ごめん。本当にごめん。」両手を合わせ頭を下げ「ごめんなさい」を連発する姿が可笑しく、何だか可愛そうにもなって「もういいよ」と許してあげた。
 同窓会の時間は流れ、眼下を流れる水の青さや夏の日差しを受けて光る橋が美しい!と思った。 帰り際に彼は手を差し出し「本当にごめんね。またね」と言う。 その手は大きく、温かかった。
 (以上、朝日新聞「声」欄への投稿より引用。)

 ここで少しだけ原左都子の私論を語ろう。
 上記事例の場合はそもそも「いじめ」と表現するより、多少口の悪い男子生徒が女子をからかった程度の、級友同士のコミュニケーション場面の一つとも受け取れる。
 ただ投稿者である女性が、数十年前に浴びせられた当時の自分の身体的特徴に関する呼称を今現在まで「いじめ」として認識していた事実にも同感できそうにも思う。
 
 実はこの原左都子も、小学6年生時の話だが 「がいこつ骨子(ほねこ)」 の異名を取っていた。  要するにやせ細っていたのだ。 何分伸び盛りで1年間に十数cm身長が高くなった時期である。 元々長身ではあったが、早熟女子達数人に一時身長を追い越されていたのを1年間で抜き返してまだまだ伸びた。 
 「がいこつ骨子」の異名を誰が名付けたのかは今となっては記憶していない。 それにしても今分析するに、当時より手足がひょろ長かった私を上手く表現したあだ名であると考察するし、当時の私にとってもさほどの抵抗がなかった故かこれを「いじめ」とまでは解釈せずして過ごしてきた。

 それに引き換え、今の時代とは友の身体的特徴をあだ名とする事が即「いじめ」と解釈される事は推測可能だ。 その中でも、やはり「低身長・高体重」を表現する呼び名が現在に於いては「いじめ」に繋がり易い事実も把握できている。


 さて表題に戻って、昔受けた「いじめ」を許せるか? のテーマに関する私事を再び紹介しよう。

 私の場合、正面切って「いじめ」を受けた記憶がない人間であることはバックナンバーでも幾度か公開しているのだが、もしかしたら相手が私をいじめたかったのではなかろうか?と考察できる事件は幾度か経験している。

 例えば同じく小学6年生の時に、クラスの某男子生徒(参考のため警察官の息子氏だったことを記憶している)が私に面と向かって「挑戦状」のような言動をしてきた事がある。 
 男子生徒曰く「おまえのような女子が一番嫌いだ! 担任先生に向かって“えこひいき”するなと責めるし、クラスの皆で一致団結している事に反発ばかりしている。 皆が仲良くしようとしているのに何でおまえはクラスを乱すのか!」 (いやはや、我が天邪鬼気質が小6にして既に表出していた事を、実感させられる事件なのだが) これを面と向かって一男子児童に訴えられた事実は今尚忘れもしない。 ただ当時の私は既に、この男子児童からの1対1での直談判に屈するつもりなど一切無かった事のみは事実だ。 相手男児に何と言って反論したかの記憶はない。 だが、もしも今後小6の同窓会に出席する機会があったならば、「当時幼い私が取った態度こそが、同じく幼い立場で私に歯向かって来た単純思考の貴方を超越していたよ!」と言い返したい思いはある。

 もう一つ我が記憶にある私事を話そう。
 中学1年生時の出来事であろうか。 赤い羽根運動で学校から全員強制で購入させられた“針付き羽”をクラスの前席に座っている女子相手に、「小娘倒れろ!」などと小声で言いつつ男子生徒が女子の背中に突き刺すのだ! 当時授業中にこの被害を受けているのは私のみではなかったのだろうが、授業を行っている教員が気付かない。 これが実際結構痛いのだが、女子の誰も騒がなかったのは何故なのだろう?
 それを考察するに、当時の国内文化とはまさにまだまだ男尊女卑時代だった。 「羽飛ばし」遊びのターゲットになる女子とはそれを行う男子がむしろ好意的に捉えていたのかもしれない。 だからこそ、多少の「痛さ」に耐えつつ女子は騒がなかったのではあるまいか??
 そうではないにせよ、私自身もこれは「いじめ」ではないとの感覚を抱いていたのは確かな事実だ。  


 いやいや同窓会が果す役割とは、当時の同級生個々の“対決場面”を出席者間で演出したり、当時の男子生徒のいたずらが“何が目的だったの?”かを数十年経過した今こそ検証する場を設けてくれるべく会合であるべきで、その趣旨で同窓会が開催されるならばこの私とて出席したいものだ。
 ところが実際の同窓会とは、それを開催する幹事連中が自分らの狭い認識の下好き勝手に騒ぎつまらなく運営したり、あるいは恩師を思いやるばかりに“恩師迎合集会”となるのが現状実施されている「同窓会」の実態ではなかろうか??
 そんな中身の乏しい同窓会が全国各地で開催されている寂しい現状であることは否めない事実であろう。

 その折に冒頭の朝日新聞「声」欄投稿女性は、果敢にも数十年来胸に秘めていた過去の「いじめ」に関する自分なりの決着を果したことを、心より賞賛したい原左都子である。