国家や経済界上層部の人事面での発想とは、何故これ程までに単細胞なのだろう。
過去から現在に至って、国家及び民間企業の上層部が結論付けている “女性の数だけ増加させればそれが女性の活躍を示す指標になる” との短絡的思考には、いつもいつもウンザリさせられ続けてばかりだ…。
もちろん原左都子自身も、有能な女性が国家や企業の上層部で活躍する事を決して否定する訳ではない。
むしろ我が現在に至るまでの医学分野民間企業や教育業界等での職業経験を通じて、有能な女性上司に出会った経験があり、その種の人物とは必ずやこの世に存在する実態にも触れてきている。
冒頭より「有能」に関する私論を述べよう。
人は何を持って、人を「有能」と判断するのか? あるいはするべきか??
これに関しては、私が過去に「経営法学修士」を取得した大学及び大学院にて学んだ知識を少しだけ紹介しよう。
それを記述するに当たり、「原左都子エッセイ集」開設直後の2007年11月9日公開 「組織論におけるパワー概念」 なるエッセイの一部を以下に要約させていただこう。
組織論に「パワー」という概念がある。
この場合の「パワー」とは、個人ないし集団が相互に行使するあらゆる種類の影響を意味する。 Max Weber は、「パワーとは行為者が社会関係の中で抵抗を排除してでも、それが依拠する基盤が何であれ自己の意思を貫徹する立場にある可能性である。」と定義している。 Blau は、このWeber の定義を拡張して「パワーとは、定期的に与える報酬を差し止める形態をとろうと、罰の形態をとうろと、脅かすことで抵抗を排除してでも人々あるいは集団がその意思を他者に強いる能力である。」としている。
「パワー」を一種の心理的力として、個人間の相互作用におけるその潜在性の側面を強調する立場もある。 French=Raven は「パワーとは与えられたシステム内で集団ないし他人に影響を与える潜在的な能力である。」と定義する。 「パワー」の定義は多様であるがこれらの定義に一致していることは、パワー現象は二人あるいはそれ以上の人々の相互作用という複数の状況のみに生起することであり、社会的行為者間の関係においてのみ意味のある概念であるとしていることである。
上記のFrench=Raven は、潜在力としての「パワー」を“報償的パワー”、“強制的パワー”、“正当的パワー”、“同一的パワー”、“専門的パワー”の5類型に細分化した。この「パワーの5類型」は経営組織論上の学説としては認められていないようだが、興味深い考え方であるのでここで紹介しよう。
(以下、中略)
さて、皆さんはいかなる「パワー」をお持ちでしょうか? あなたがお持ちのその「パワー」が周囲に影響を及ぼし、世界をも動かしているのかもしれませんね。
(以上、「原左都子エッセイ集」開設初期のバックナンバーより一部を引用)
私論に戻ろう。
各種組織に於いて一体誰を「有能」と認識判断し、その人物を職場の上位に位置付けるのか?
その判断に際して、上記の組織論こそが一つの基礎となり得るのではなかろうか?
「あの人は素晴らしい」 「あの人の下でなら私は安心して働ける」 等々と僕(しもべ)から訴えたところで、その見解自体が多様性に満ち満ち千差万別である事だろう。
片や「有能」と位置付けられ組織上部に君臨した人物側が、それが負担になる事も重々あり得る。
事例が悪いかもしれないが、一時公立小中学校で民間校長を募った時代がある。 この制度により校長に任命された人物が長年に渡り公立学校長を全うされたとの話を私は聞いた事が無い。
一時あれ程まで世間を騒がせた“杉並区立和田中学”の校長であられた(東大卒元リクルート㈱出身の)藤原氏とて、公立学校長として世を騒がせた後にすぐさま現場を去り、その後のご活躍の程を今や見聞する事はない……
経団連が7月14日、(国内巨大企業である)役員企業47社に女性登用計画をまとめたところ、約6割の27社が「女性管理職を2020年までに3倍にする」等の回答を得たとのことだ。
ただ女性の役員を増やすにあたって男性も含めた働き方や意識を変えないと、経団連の目標達成に向けた企業の本質度は問えないであろう。(以上、朝日新聞記事より一部を引用。)
最後に、原左都子の私論で締めくくろう。
国家や経済界に於いて、過去から現在に至る過程で幾度となくその上部に「女性登用」が持ち上げられて来たと認識している。
現在に至って尚、その根拠なき貧弱な「女性登用」手法に依存するのは何故なのか?
国政が諸外国事例を参照するとの手段は、過去に於いても実施されてきた“陳腐な政策”に過ぎないであろう。
ここは国政や経団連も今一度経営学に於ける初歩の「リーダーシップ論」でも学び直して、単なる一時の女性優遇でない、真の女性活性化政策に期待したいものだ。
過去から現在に至って、国家及び民間企業の上層部が結論付けている “女性の数だけ増加させればそれが女性の活躍を示す指標になる” との短絡的思考には、いつもいつもウンザリさせられ続けてばかりだ…。
もちろん原左都子自身も、有能な女性が国家や企業の上層部で活躍する事を決して否定する訳ではない。
むしろ我が現在に至るまでの医学分野民間企業や教育業界等での職業経験を通じて、有能な女性上司に出会った経験があり、その種の人物とは必ずやこの世に存在する実態にも触れてきている。
冒頭より「有能」に関する私論を述べよう。
人は何を持って、人を「有能」と判断するのか? あるいはするべきか??
これに関しては、私が過去に「経営法学修士」を取得した大学及び大学院にて学んだ知識を少しだけ紹介しよう。
それを記述するに当たり、「原左都子エッセイ集」開設直後の2007年11月9日公開 「組織論におけるパワー概念」 なるエッセイの一部を以下に要約させていただこう。
組織論に「パワー」という概念がある。
この場合の「パワー」とは、個人ないし集団が相互に行使するあらゆる種類の影響を意味する。 Max Weber は、「パワーとは行為者が社会関係の中で抵抗を排除してでも、それが依拠する基盤が何であれ自己の意思を貫徹する立場にある可能性である。」と定義している。 Blau は、このWeber の定義を拡張して「パワーとは、定期的に与える報酬を差し止める形態をとろうと、罰の形態をとうろと、脅かすことで抵抗を排除してでも人々あるいは集団がその意思を他者に強いる能力である。」としている。
「パワー」を一種の心理的力として、個人間の相互作用におけるその潜在性の側面を強調する立場もある。 French=Raven は「パワーとは与えられたシステム内で集団ないし他人に影響を与える潜在的な能力である。」と定義する。 「パワー」の定義は多様であるがこれらの定義に一致していることは、パワー現象は二人あるいはそれ以上の人々の相互作用という複数の状況のみに生起することであり、社会的行為者間の関係においてのみ意味のある概念であるとしていることである。
上記のFrench=Raven は、潜在力としての「パワー」を“報償的パワー”、“強制的パワー”、“正当的パワー”、“同一的パワー”、“専門的パワー”の5類型に細分化した。この「パワーの5類型」は経営組織論上の学説としては認められていないようだが、興味深い考え方であるのでここで紹介しよう。
(以下、中略)
さて、皆さんはいかなる「パワー」をお持ちでしょうか? あなたがお持ちのその「パワー」が周囲に影響を及ぼし、世界をも動かしているのかもしれませんね。
(以上、「原左都子エッセイ集」開設初期のバックナンバーより一部を引用)
私論に戻ろう。
各種組織に於いて一体誰を「有能」と認識判断し、その人物を職場の上位に位置付けるのか?
その判断に際して、上記の組織論こそが一つの基礎となり得るのではなかろうか?
「あの人は素晴らしい」 「あの人の下でなら私は安心して働ける」 等々と僕(しもべ)から訴えたところで、その見解自体が多様性に満ち満ち千差万別である事だろう。
片や「有能」と位置付けられ組織上部に君臨した人物側が、それが負担になる事も重々あり得る。
事例が悪いかもしれないが、一時公立小中学校で民間校長を募った時代がある。 この制度により校長に任命された人物が長年に渡り公立学校長を全うされたとの話を私は聞いた事が無い。
一時あれ程まで世間を騒がせた“杉並区立和田中学”の校長であられた(東大卒元リクルート㈱出身の)藤原氏とて、公立学校長として世を騒がせた後にすぐさま現場を去り、その後のご活躍の程を今や見聞する事はない……
経団連が7月14日、(国内巨大企業である)役員企業47社に女性登用計画をまとめたところ、約6割の27社が「女性管理職を2020年までに3倍にする」等の回答を得たとのことだ。
ただ女性の役員を増やすにあたって男性も含めた働き方や意識を変えないと、経団連の目標達成に向けた企業の本質度は問えないであろう。(以上、朝日新聞記事より一部を引用。)
最後に、原左都子の私論で締めくくろう。
国家や経済界に於いて、過去から現在に至る過程で幾度となくその上部に「女性登用」が持ち上げられて来たと認識している。
現在に至って尚、その根拠なき貧弱な「女性登用」手法に依存するのは何故なのか?
国政が諸外国事例を参照するとの手段は、過去に於いても実施されてきた“陳腐な政策”に過ぎないであろう。
ここは国政や経団連も今一度経営学に於ける初歩の「リーダーシップ論」でも学び直して、単なる一時の女性優遇でない、真の女性活性化政策に期待したいものだ。