原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

“色の後からものが見える”

2014年07月23日 | 芸術
 (写真左は、ラウル・デュフィ作「オーケストラ」、右は同「オペラ座」。 国内美術館で買い求めた絵葉書より転載したもの。 画像不鮮明で恐縮ですが…)

 当エッセイ集2012.10.10バックナンバー 「原左都子プロフィール」内に、私は以下の記述をしている。
 お気に入りのアート :  アンリ・マチス、 ラウル・デュフィ、 ……

 実は、私は以前より人知れず画家ラウル・デュフィのファンである。 

 ファンとは言えども何分芸術にはズブの素人である私にとって、デュフィという画家を十分に理解した上でそう言っている訳ではない。 ただ単に、その色遣いや筆のタッチ等を直感的に好むだけの話である。

 私が一番最初にデュフィにはまったのは、今から遡ること9年前の2005年に東京で開催されたフィリップスコレクションを、おそらく上野の何処かの美術館へ未だ11歳の娘と一緒に観に行ったのがきっかけだ。
 その時に展示されていたのが冒頭写真の右側 「オペラ座 」である。 東京開催フィリップスコレクション目玉の一つが、本邦初公開のこの作品だったと記憶している。
 当時クラシックバレエをたしなんでいた我が娘だが、娘が通うバレエ教室がパリオペラ座バレエスタイルを採用していた。 普段の練習着等もパリオペラ座直輸入ものを教室が取り寄せて生徒達に使用させていたため、娘本人もオペラ座には興味津々だったようだ。
 さほど混雑していない美術館会場内で、デュフィ作「オペラ座」の前には人だかりが出来ていた事を記憶している。 予想に反して小さいサイズの作品であり、列に並び順番待ちをして観賞したものだ。
 ピンク色を好む私にとって、この作品は実に美しかった。 (実はピンクではなく、専門家の間ではこの作品は「赤」主体と表現されているようだが)  特にオペラ座の中2階、中3階、中4階当たりの座席のピンク色が私の目にはとても綺麗で、一生に一度はあの席に座ってバレエを観賞してみたい思いに駆られたものだ。  (参考のため、その後年月が流れ娘が高校の修学旅行でパリを訪れることとなり、自由行動時間に娘は迷いなくパリオペラ座を見学に行ったようだ。)


 ここで、ウィキペディアを頼り、画家ラウル・デュフィに関して少し紹介しよう。

 ラウル・デュフィ(Raoul Dufy, 1877年6月3日 - 1953年3月23日)は、野獣派に分類される19世紀末から20世紀前半のフランスの画家。「色彩の魔術師」20世紀のフランスのパリを代表するフランス近代絵画家。 
 アンリ・マティスに感銘を受け、彼らとともに野獣派(フォーヴィスム)の一員に数えられるが、その作風は他のフォーヴたちと違った独自の世界を築いている。 デュフィの陽気な透明感のある色彩と、リズム感のある線描の油絵と水彩絵は画面から音楽が聞こえるような感覚をもたらし、画題は多くの場合、音楽や海、馬や薔薇をモチーフとしてヨットのシーンやフランスのリビエラのきらめく眺め、シックな関係者と音楽のイベントを描く。 また本の挿絵、舞台美術、多くの織物のテキスタイルデザイン、莫大な数のタペストリー、陶器の装飾、『VOGUE』表紙などを手がけ多くのファッショナブルでカラフルな作品を残している。 
 1938年 パリ電気供給会社の社長の依頼で、パリ万国博覧会電気館の装飾に人気の叙事詩をフレスコ画の巨大壁画「電気の精」として描く。イラストレーターと兼アーティストとしての評判を得る。
 (以上、ウィキペディアより引用。)


 今回このエッセイを綴るきっかけを得たのは、7月20日にNHK Eテレにて放送された「日曜美術館」を見た事による。
 「色彩の魔術師デュフィ …」と題された番組のゲストは、日比野克彦氏であられた。
 この日比野氏の解説が何ともソフィスティケートされた内容で、私は1時間に渡りラウル・デュフィの世界に引き込まれた。

 その中でも、私の脳裏に一番刻み込まれたのは今回のエッセイ表題に掲げた 「“色の後からものが見える”人物」 との、日比野氏が発したラウル・デュフィなる画家に関するフレーズである。

 咄嗟にこの言葉を聞いて、それが何を意味しているのかが理解出来る人間は恐らく少数なのではなかろうか。
 ところが、実は私は、我が娘幼少期から現在までを通じてこの事象を実際に幾度も経験しているため、容易に理解可能だったのだ。

 それでは、我が娘が持って生まれている“特異性”の一部を以下に披露しよう。
 何分、産まれ持っての事情を抱えている我が娘だ。 発語は遅いし運動能力の開花も遅れている中、親として気付く“特異性”があった。
 人より遅く歩き始めた娘をよく散歩に連れ出したのだが、未だ発語のない娘が東武東上線の電車を指さして「ワイン」と言う。 最初何を言ったのか理解できなかったが、我々の前を通り過ぎる電車に塗られたラインカラーが娘の言う通り「ワイン色」である事に気付かない私ではなかった。 電車が走る事象よりも、この子は「色」に着目したものと、初めて我が娘の特異性に気付かされた事件だった。

 その後、家庭内でも娘の“色表現”は続く。
 電話が鳴ると「クロ、クロ」と騒ぐし(参考のため当時の我が家の電話は黒色だった)、花の名前が言えない段階から「赤」「黄色」「ピンク」などの色彩表現力は鋭かったようだ。

 極めつけは、娘の発語が多少出て来た時点(恐らく2歳半頃)地下鉄(現在の東京メトロ有楽町線だが)に幾度か乗せた後の出来事だ。  娘が地下鉄駅に着く都度繰り返す。「次は白」「次はピンク」「次は灰色」「次は虹色」等々と…。 これに関しても母である私は娘が意図する思いを十分に理解した上で、親馬鹿ながら娘の色彩記憶力に脱帽させられたものだ。 (私自身も、新富町駅がピンク色、江戸川橋駅が娘が言うところの虹色程度は記憶しているが…
 地下鉄とは道中が真っ暗闇である。 そんな電車に乗せられた幼き娘の関心事とは、次に着く駅の「壁の色」だったとの事だ。 それにしてもよくぞまあ、地下鉄有楽町線内のすべての駅の壁色を記憶しているとは、我が子ながら“天才”素質があると驚かされたものである。

 現在20歳を過ぎた我が娘は、今尚、ものを“色”で表現する特質性から完全に抜け出ていないのが困りものだ。 例えば「お母さん、そのピンク取って!」 「お父さんが茶色を持って出かけたよ。」等々…。
 娘が持つ特質を十分理解している母であるが故に、これが家族内で成り立ってしまうところが弱点なのか?!?


 そんな娘の“色特異性”こそを芸術方面で活かそうと過去に於いて策略した親としての思いは、当の昔に挫折している。

 それでも今後娘が社会に旅立つに当たり、「色彩の魔術師」ラウル・デュフィを参考にして、娘が持つ色彩感覚の特異性の一面を尊重してやるべきなのか!?

 (庶民の立場にして既にそうではないとの結論に達していますので、皆様ご心配なきように…)