他者との関係づくりに於いて、その最初のきっかけとなるのはお互いの「アイコンタクト」ではなかろうか。
私など、このアイコンタクトに多くの意味合いを見い出しつつ、他者との人間関係に於けるその後の更なる充実を図ってきている人間と自覚している。
例えば、つい先だっても義母所有不動産関連所用でとある場所へ出かけた。 この場へ出かけるのは3度目の事であり、私達に対応してくれる相手方2名ともお互いに認識済みの関係だ。
主たる相手方である片方の人物との関係に於いては双方のアイコンタクトが上手く機能しているようで、会話もスムーズに運ぶ。 ところが従たる相手方氏は、どうやらアイコンタクト自体が苦手な様子だ。
その辺を客観力がある私として気配りしつつも、ビジネス上の人間関係に於いては、お互いに物事をテンポよく進めねばならない任務も背負っているであろう。 結局はアイコンタクトが叶う主たる人物との間で取引を進めざるを得ない。
結果としてそれが苦手な同席人物は無視しての取引成立だったのだが、何だか後味が悪い感覚でその場を去らざるを得なかったものだ。
ここで一旦、私の結論を述べよう。
特に商取引等ビジネスの場面に於いては、ビジネスマンとして相手方との間にまずは「アイコンタクト」を実行出来る事など必須・最低条件であろう。 これが苦手で、その後の取引談話が進展するはずもない事をわきまえて職業選択をするべきではなかろうか。
今回のエッセイを綴るきっかけを得たのは、「原左都子エッセイ集」バックナンバー検索元の足跡による。
どうやら昨日、本エッセイ集 2008年11月8日 “旅行”カテゴリーに公開した「見つめるインド人」なるバックナンバーをご覧になられた方々が少なからず存在するようだ。
そこで、そのバックナンバー内容の一部を以下に紹介しよう。
インドは、(6年前の時点では)日本人を含む黄色人種系の観光客が少ないようだ。 私が今までに訪れた世界の国々の中で、一番日本人を見かけない国だったように感じる。 そのため物珍しいのか、インド人からの注目度が高い。 どこへ行っても大勢のインド人の大きな黒い瞳に見つめられる。 好奇心が強く純粋で素直な国民性なのかもしれないが、インドの皆さんは遠慮のない視線を投げかけてくる。
私など、こういう現地の人とのふれあいが旅行の大きな楽しみのひとつであるため、注がれた視線にいつもすかさず微笑み返すのだが、相手もとてもいい顔で微笑み返してくれる。(ただし微笑みを返してくれるのは中流階級以上のインド人だ。 下流階級の人々は決して微笑まない。 最低限の衣食住に精一杯で微笑む余裕などないのが現状なのであろう。)
子どもはもっと好奇心旺盛で、積極的に声をかけてくる。 「ナマステ!(ヒンズー語で“こんにちは”」「ハロー!」などなどと。 それに喜んで応じると、すぐになついてくる。至ってフレンドリーだ。 例えば、アグラの観光地“ファテープル・シクリー”で出会った、遠足か校外学習か何かで現地に来ていたプライベートスクールの小学生達は、目敏く日本人の私を見つけると、駆け寄って来て「ハロー!」と言って握手を求めてくる。 私が微笑みながら快く応じていると、引率の先生と思しき人や周囲にいた観光中のインド人の大人までが駆けつけてきて握手を求めてくる。 まるで売れっ子タレント並みの大人気者にでもなった気分の私である♪♪ その後、小学生(及び大人観光客も含めた)グループはずっと私の回りを取り囲みつつ付いてきて、皆が話しかけてきたりスキンシップを求めてきたり、とにかく何とも可愛らしい。
私が写真を撮ろうとすると皆が喜んで我先にとカメラの前に立ち、この写真(上記バックナンバー掲載写真を参照下さい。)のような満面の笑みを振りまいてくれる。 お陰でこの観光地を出るまで、この小学生たちとの楽しい一時を共有させてもらえた。
(以上、当エッセイ集 「旅行記」より一部を引用。)
ところが実に悲しい事には、現在東南アジア方面を訪れる日本人観光客にとって (インドを含めた)アジア圏の人々から観光客である自分を“凝視される事実”が迷惑、あるいは不可解らしいのだ……
これには驚かされるばかりだ。
何故に日本人観光客は、せっかく訪れた諸国現地の人達に「見つめられた」後、見つめ返して「笑顔」で対応出来ないのか?
あるいは、「ハロー」でも何でもいいから一声かけてコミュニケーションを持とうと志さないのか!?
それをせずして迷惑がっていては、相手方から「不審な人物」と疑われても致し方ないであろう…
お盆の海外旅行混雑時期も迫っているが、今年海外へ出かける予定がある人々には何のための海外旅行実施なのか、少し考えて欲しいものだ。
たとえ語学が苦手でも、現地の人から笑顔をもらったならばすかさず「笑顔」で返して欲しい。
それを実行する事により、必ずや訪れた諸国に対するさらなる興味や認識が深まる展開となる事と、私自身の経験からお伝えしたい。

私など、このアイコンタクトに多くの意味合いを見い出しつつ、他者との人間関係に於けるその後の更なる充実を図ってきている人間と自覚している。
例えば、つい先だっても義母所有不動産関連所用でとある場所へ出かけた。 この場へ出かけるのは3度目の事であり、私達に対応してくれる相手方2名ともお互いに認識済みの関係だ。
主たる相手方である片方の人物との関係に於いては双方のアイコンタクトが上手く機能しているようで、会話もスムーズに運ぶ。 ところが従たる相手方氏は、どうやらアイコンタクト自体が苦手な様子だ。

その辺を客観力がある私として気配りしつつも、ビジネス上の人間関係に於いては、お互いに物事をテンポよく進めねばならない任務も背負っているであろう。 結局はアイコンタクトが叶う主たる人物との間で取引を進めざるを得ない。
結果としてそれが苦手な同席人物は無視しての取引成立だったのだが、何だか後味が悪い感覚でその場を去らざるを得なかったものだ。
ここで一旦、私の結論を述べよう。
特に商取引等ビジネスの場面に於いては、ビジネスマンとして相手方との間にまずは「アイコンタクト」を実行出来る事など必須・最低条件であろう。 これが苦手で、その後の取引談話が進展するはずもない事をわきまえて職業選択をするべきではなかろうか。
今回のエッセイを綴るきっかけを得たのは、「原左都子エッセイ集」バックナンバー検索元の足跡による。
どうやら昨日、本エッセイ集 2008年11月8日 “旅行”カテゴリーに公開した「見つめるインド人」なるバックナンバーをご覧になられた方々が少なからず存在するようだ。

そこで、そのバックナンバー内容の一部を以下に紹介しよう。
インドは、(6年前の時点では)日本人を含む黄色人種系の観光客が少ないようだ。 私が今までに訪れた世界の国々の中で、一番日本人を見かけない国だったように感じる。 そのため物珍しいのか、インド人からの注目度が高い。 どこへ行っても大勢のインド人の大きな黒い瞳に見つめられる。 好奇心が強く純粋で素直な国民性なのかもしれないが、インドの皆さんは遠慮のない視線を投げかけてくる。
私など、こういう現地の人とのふれあいが旅行の大きな楽しみのひとつであるため、注がれた視線にいつもすかさず微笑み返すのだが、相手もとてもいい顔で微笑み返してくれる。(ただし微笑みを返してくれるのは中流階級以上のインド人だ。 下流階級の人々は決して微笑まない。 最低限の衣食住に精一杯で微笑む余裕などないのが現状なのであろう。)

子どもはもっと好奇心旺盛で、積極的に声をかけてくる。 「ナマステ!(ヒンズー語で“こんにちは”」「ハロー!」などなどと。 それに喜んで応じると、すぐになついてくる。至ってフレンドリーだ。 例えば、アグラの観光地“ファテープル・シクリー”で出会った、遠足か校外学習か何かで現地に来ていたプライベートスクールの小学生達は、目敏く日本人の私を見つけると、駆け寄って来て「ハロー!」と言って握手を求めてくる。 私が微笑みながら快く応じていると、引率の先生と思しき人や周囲にいた観光中のインド人の大人までが駆けつけてきて握手を求めてくる。 まるで売れっ子タレント並みの大人気者にでもなった気分の私である♪♪ その後、小学生(及び大人観光客も含めた)グループはずっと私の回りを取り囲みつつ付いてきて、皆が話しかけてきたりスキンシップを求めてきたり、とにかく何とも可愛らしい。

(以上、当エッセイ集 「旅行記」より一部を引用。)
ところが実に悲しい事には、現在東南アジア方面を訪れる日本人観光客にとって (インドを含めた)アジア圏の人々から観光客である自分を“凝視される事実”が迷惑、あるいは不可解らしいのだ……

これには驚かされるばかりだ。
何故に日本人観光客は、せっかく訪れた諸国現地の人達に「見つめられた」後、見つめ返して「笑顔」で対応出来ないのか?
あるいは、「ハロー」でも何でもいいから一声かけてコミュニケーションを持とうと志さないのか!?
それをせずして迷惑がっていては、相手方から「不審な人物」と疑われても致し方ないであろう…
お盆の海外旅行混雑時期も迫っているが、今年海外へ出かける予定がある人々には何のための海外旅行実施なのか、少し考えて欲しいものだ。
たとえ語学が苦手でも、現地の人から笑顔をもらったならばすかさず「笑顔」で返して欲しい。
それを実行する事により、必ずや訪れた諸国に対するさらなる興味や認識が深まる展開となる事と、私自身の経験からお伝えしたい。

