原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

原左都子が水面下で学者を目指していた裏話

2015年04月29日 | 自己実現
 朝日新聞夕刊紙面で、4月20日から上野千鶴子氏に関するインタビュー記事が連載されている事は承知していた。

 ところが何分、時を同じくして我が身内が手術入院と相成り、新聞を開く時間すら確保出来ない日々を過ごす羽目と相成った。 
 (お陰様で身内は昨日退院致しました。 現在自宅にて静養中です。)


 私が若かりし頃、上野千鶴子氏の一ファンであったことは当エッセイ集バックナンバーに於いて幾度か記載している。
 現在に至っては、上野氏のご活躍の程に直に触れるのは朝日新聞「悩みのるつぼ」のみなのだが、この新聞コラムを拝見する都度、(僭越ながらも)氏のご回答と原左都子の私論が一致する現象を実感し、身勝手にも上野氏に対して“同朋意識”を抱かせて頂いているのだ。
 何と言っても、上野千鶴子氏の相談者に対する“ズバッと繰り出す直言(苦言も含めて)”が痛快だ! (同様に美輪明宏氏のご回答の程にも、同様の快感を見い出させて頂ける。)
 参考のため他の回答者の場合、朝日新聞読者の視点に気遣っている様子は一応伺える。 が、メジャー新聞のたかが一コラムを受け持っているといったところで、一体誰に迎合せんとしているのか、何やら中途半端な回答にゲンナリする事が多い事実だ。

 
 私が上野千鶴子氏のファンになったのは、遠い昔の我が20代後半期である。 
 当時の私は既に結婚願望がさほど抱けないまま、医学関連企業内での日々の昼休み中に朝日新聞をむさぼるように読み込んでいた。
 おそらく当時の上野氏とは、氏の一番最初の就職先である地方短大の講師をされていた頃だったのではあるまいか?  その時代に上野氏が朝日新聞紙上で展開された持論(今となっては内容を記憶していないが)に大いに触発された私である。 
 その頃とは、我が国のメディア上で“女性学者”の意見が取り上げられ始めた創世期だったように記憶している。

 当時の私は所属していた医学関連企業を退職する事を視野に入れ、虎視眈々と次なる活動を開始し始めていた。  そんな我が行動に大いなる影響を与えてくれたのは、おそらく上野千鶴子氏を筆頭とする若き女性学者達が“世に意見申せる”立場に昇格していた事実である。 (後の考察だが、結果として当時より現在までメディア上で生き延びておられるのは上野千鶴子氏のみではなかろうか? その時代に新聞紙上で活躍していたその他の女性学者達が、現在に至っては“影が薄い”事実が多少気にかかる…)

 そして私は20代後半期にして、今後の我が身の振り方を熟慮した。 ここは私も「学者」を視野に入れた将来を見つめようではないか! 
 私が30歳間際にして学問分野を180°方向転換したいきさつには、そのような背景事情も存在したものだ。


 実際その後、私は30代後半にして大学院修士課程修了直前の秋頃、新聞広告に頼り某私立短期大学専任講師一般公募に応募して、書類選考段階で即刻落とされる運命を経験した。
 ところが当時の現実を語るならば、大学教官になりたい場合(たとえその立場が講師であろうと)自分が所属する大学院ゼミ教官氏の縁故に頼るのが常識だったのだ。
 その事を露知らなかった訳でもないのだが、偶然他ゼミ生の女子学生が教授の縁故に頼り某私立短大の講師に採用“されそうになった”と言う。 その内部実態を彼女から聞きて私は驚いた。 何と、専任講師とは言えども結局は“言っちゃ悪いが”某無名私立短大教授の秘書役。 週に2時間程しか授業をもたせてもらえず、その内容もまったく専門外の「秘書論」との事だ。 しかもその報酬とは年俸たったの300万円程也との薄給たる始末!

 勘弁してよ! との事実だが、要するに国公立大学院出身者と言えどもそれが天下の“東大京大”でもない限り、他大学(短大)にて学者を目指そうとてこれが日本国内の貧弱な実態だったのだろう。
 結果として、当時既に公立高校教員を務めていた私の年収が、名も無き短大にて講師をする事の“倍程”だったため、何の迷いもなくそれを続行する道を選択した。


 話題を冒頭に戻そう。
 
 社会学者の上野千鶴子氏が大学教員を目指されたのは、1979年との事だ。
 氏曰く、その頃の時代背景とは指導教授ですら女には就職を世話しない時代背景。 公募に送って落ちまくり、ぎりぎり決まったのが京都市内の短大だった。 何せ、女とて食わなきゃいけない。 求人欄募集要綱を見るにつけ、自分自身が無芸無能で能力も資格もない女だということに初めて気が付いた。 もうここは、無名短大で専任講師として食っていくしかしょうがないと思った。

 その後の上野氏のご活躍の程が素晴らしい事実こそを、原左都子が存じている。
 確かに、1980年頃の上野千鶴子氏の所属大学が“無名”だった事実を私も記憶している。 京都大学・大学院ご出身の世に名を売られている学者氏にしては、所属大学の名を聞いた事すらないなあ… なる感想を描いた記憶がある。
 上野氏はその後のメディア上でのご活躍による“売名”により、東大助教授及び大学院教授の立場で招かれたと記憶している。 残念ながらその後の上野氏の学者としての業績の程を、さほど認識していない私だ。


 最後に、原左都子の私論でまとめよう。
 
 そうだとしても、上野千鶴子氏はやはり素晴らしい。
 恵まれた実家に生まれ出ていながら、こと就職に当たってはご自身のポリシーで積極的に動かれた事が実に素晴らしい。 元を辿れば、それ程のポリシーと行動力を京都大学・大学院時代に培われていた事実こそが圧巻だ。
 そんな勢いがあられたからこそ、上野千鶴子氏とは自分自身の力で学者としてのスタートラインである最初の大学に出逢われたのであろう。

 人々の成功とは、偶然彼方からやって来るものではあり得ない。 本人が本気で努力した結果の賜物であることに間違いない。
 そういう意味では原左都子の場合「学者」になりたいと一時脳裏に浮かんだとは言えども、今振り返ってみても、その夢を本気で描いていたとは到底思えない。
 そんな中途半端な事実こそを反省材料として、ここはあくまでも我が過去に於ける「学者」との夢物語をこっそり“水面下”で語らせて頂くに留めておこう。