冒頭より、用語解説をしておこう。
“メッシー君”とは飯(メシ)に英語で「~する人」という意味にする接尾辞「-ee」をつけ、さらに人名っぽくするために「君」をつけたものである。 この場合の飯とは食事(特に外食)をさし、メッシー君で女性に食事を奢る男性を意味する。 男性側が食事以上の関係を望むか否かに関係なく、女性側にとって暇なとき食事に付き合ってくれ、それを奢ってくれるだけの男性をさしてメッシー君と呼ぶ。 バブル期に流行語になったメッシー君はアッシー君、ミツグ君とセットで都合のいい男性の代名詞として使われたが、バブルが崩壊し、時代が厳しくなるとともに、これらの言葉は死語となっていった。
(以上、ネット上の日本語俗語辞典より引用)
“アッシー君”とは、女性に自ら運転する自家用車で送り迎えを任される男性のこと。 語源は移動手段としての自動車を俗に「足」と呼ぶことに由来する。
(以上、ウィキペディア情報より一部を引用)
早速私論に入ろう。
「キープ君」や「ミツグ君」も含め、これらの用語とは、要するに未だ“男尊女卑思想”が日本に蔓延っていた1970年代終盤頃から80年代の時代背景下に於いて、経済的にも人格的にも独り立ちし切れない独身女性陣が、自分に都合よく男を利用せんとしていた頃の流行り言葉である。
これらと並行して、当時「3高」「4高」なる用語も流行した。
これも上記同様まさに“男尊女卑思想”に基づき、女性側が自分自身が自立する以前の課題として、自分より優れた男を結婚相手として選択せんと欲した思想に基づく用語だ。
参考のため、「3高」とは、“高学歴”“高収入”“高身長”だったと記憶している。
(更に参考だが、私自身も“高身長”だけは外せない理想男性像として目指していたなあ…。 これが結構厳しいのよ。 何分私自身が165㎝の身長に加えて、10㎝程の高さのハイヒールを履くと自ずと175㎝になる。 パートナーをそれ以上身長がある男性に絞り込む作業とは、実に大変だったものだ…。)
話題を大幅に変えよう。
本日も朝から我が娘が「就活」に出かけると言う。
「お昼はどうするの?」との母の我が質問に対し、「たぶん外で食べてくる。」との回答。
それに私が応じて曰く、「就活者同士で昼ごはん一緒に食べよう!などとの話題は出ないの? 食事の場で個々人の就活状況を学生同士で話し合ったりしないの?」
応えて娘曰く、「個人的に食事をする学生はいるかもしれないが、その場で個人情報である自分の就活実態を食事時の話題として出す人など今は一人とていない。」
いや、確かに娘が言う通りだ。 私自身も街中で2人連れ程度の女性同士就活学生に出会うことはあれども、数人以上の就活学生団体に出会うことは一切ない。 まさに、個人情報保護・プライバシー保護観念が徹底した時代を実感だ。
表題の「メッシー君・アッシー君」に関しては、娘に我が実経験を話した事がある。 私が若き独身時代はこの“恩恵”に十分に与ったとの事実を、私は娘につい最近も語った。
例えば上京した後の話だが、私が業務を終えて退社しようとすると「一緒に夕飯食べよう」と誘ってくれる男性がいる。ちょうど帰宅時間が重なったのかもしれないし、そうでなかったのかもしれない。 何はともあれく“料理嫌い”な私としてはラッキーだ。 調子よく同意して、夕食を一緒したものだ。
あるいは会社から帰宅後、タイムリーに我が家に電話を寄越す同僚先輩男性もいた。 「これから車で迎えに行くから夕食を一緒に食べようか?」 これもまたまたウェルカムだ。
(参考だが、当時の時代は職場に於いても電話番号等々の個人情報を大っぴらに全社員に公開していた。)
それら職場の独身男性達と夕餉の場で何を話し合ったかと思い起こすに、おそらく私自身が当時集中していた自らの職務内容を熱く語ったものと振り返る。 当時色気の端くれもないと自覚していた私に対し“メッシー君”を申し出てくれる男性陣は数多かったものだ。
それが証拠に、その中の誰氏からも求婚などされたことはない。 ただただ私を食事に誘ってくれ私側としては対等な関係で有意義な時間を過ごせた事に今更ながら感謝申し上げよう。 (あっ、失礼。 夕食料金は相手方男性が全部支払ってくれたかなあ??)
そんなこんなの我が「メッシー君」「アッシー君」人生は、まさに晩婚直前のバブル崩壊期まで続いたと言えよう…。
最後に、私論でまとめよう。
確かに「メッシー君」「アッシー君」文化が我が国に蔓延っていたバブル前後の頃とは、未だ日本女性が自立とは程遠い過程を彷徨い、“男依存傾向”を余儀なくされた時代だったと結論付けらるかもしれない。
それでも私は、もっと以前の「ナンパ」文化をも含め、我が国は貴重な人と人との出会いのチャンスを喪失し続ける人間関係時代へと後退の一途を辿っている感が否めないでいる。
とにもかくにも、人間関係のきっかけとはどちらかが声を掛けなければ始まりもしない事は歴然だ。 声掛けの理由は何であれ相手を気に入ったならば素直に声をかける。 これは「メッシー君・アッシー君」「ナンパ」文化を底辺で支えていた人の出会いに関する貴重な我が国の所産だ。
諸外国は如何なものか? しばらく海外を訪れていない身にして残念ながら論じられないテーマだ。
とにもかくにも、日本国内に於けるこれ程までに歪んで成長を遂げた「プライバシー保護」及び「個人情報保護」政策が人間関係の希薄化に拍車をかけ、国内の犯罪を多発させる元凶と化している感を私は抱く。
「メッシー君」「アッシー君」の是非はともかく、お互いに好意を抱いた人と人とがもっと自由にかかわれるチャンスを得て、その関係を充実させられる平和な時代に戻る事に期待したいものだ。
“メッシー君”とは飯(メシ)に英語で「~する人」という意味にする接尾辞「-ee」をつけ、さらに人名っぽくするために「君」をつけたものである。 この場合の飯とは食事(特に外食)をさし、メッシー君で女性に食事を奢る男性を意味する。 男性側が食事以上の関係を望むか否かに関係なく、女性側にとって暇なとき食事に付き合ってくれ、それを奢ってくれるだけの男性をさしてメッシー君と呼ぶ。 バブル期に流行語になったメッシー君はアッシー君、ミツグ君とセットで都合のいい男性の代名詞として使われたが、バブルが崩壊し、時代が厳しくなるとともに、これらの言葉は死語となっていった。
(以上、ネット上の日本語俗語辞典より引用)
“アッシー君”とは、女性に自ら運転する自家用車で送り迎えを任される男性のこと。 語源は移動手段としての自動車を俗に「足」と呼ぶことに由来する。
(以上、ウィキペディア情報より一部を引用)
早速私論に入ろう。
「キープ君」や「ミツグ君」も含め、これらの用語とは、要するに未だ“男尊女卑思想”が日本に蔓延っていた1970年代終盤頃から80年代の時代背景下に於いて、経済的にも人格的にも独り立ちし切れない独身女性陣が、自分に都合よく男を利用せんとしていた頃の流行り言葉である。
これらと並行して、当時「3高」「4高」なる用語も流行した。
これも上記同様まさに“男尊女卑思想”に基づき、女性側が自分自身が自立する以前の課題として、自分より優れた男を結婚相手として選択せんと欲した思想に基づく用語だ。
参考のため、「3高」とは、“高学歴”“高収入”“高身長”だったと記憶している。
(更に参考だが、私自身も“高身長”だけは外せない理想男性像として目指していたなあ…。 これが結構厳しいのよ。 何分私自身が165㎝の身長に加えて、10㎝程の高さのハイヒールを履くと自ずと175㎝になる。 パートナーをそれ以上身長がある男性に絞り込む作業とは、実に大変だったものだ…。)
話題を大幅に変えよう。
本日も朝から我が娘が「就活」に出かけると言う。
「お昼はどうするの?」との母の我が質問に対し、「たぶん外で食べてくる。」との回答。
それに私が応じて曰く、「就活者同士で昼ごはん一緒に食べよう!などとの話題は出ないの? 食事の場で個々人の就活状況を学生同士で話し合ったりしないの?」
応えて娘曰く、「個人的に食事をする学生はいるかもしれないが、その場で個人情報である自分の就活実態を食事時の話題として出す人など今は一人とていない。」
いや、確かに娘が言う通りだ。 私自身も街中で2人連れ程度の女性同士就活学生に出会うことはあれども、数人以上の就活学生団体に出会うことは一切ない。 まさに、個人情報保護・プライバシー保護観念が徹底した時代を実感だ。
表題の「メッシー君・アッシー君」に関しては、娘に我が実経験を話した事がある。 私が若き独身時代はこの“恩恵”に十分に与ったとの事実を、私は娘につい最近も語った。
例えば上京した後の話だが、私が業務を終えて退社しようとすると「一緒に夕飯食べよう」と誘ってくれる男性がいる。ちょうど帰宅時間が重なったのかもしれないし、そうでなかったのかもしれない。 何はともあれく“料理嫌い”な私としてはラッキーだ。 調子よく同意して、夕食を一緒したものだ。
あるいは会社から帰宅後、タイムリーに我が家に電話を寄越す同僚先輩男性もいた。 「これから車で迎えに行くから夕食を一緒に食べようか?」 これもまたまたウェルカムだ。
(参考だが、当時の時代は職場に於いても電話番号等々の個人情報を大っぴらに全社員に公開していた。)
それら職場の独身男性達と夕餉の場で何を話し合ったかと思い起こすに、おそらく私自身が当時集中していた自らの職務内容を熱く語ったものと振り返る。 当時色気の端くれもないと自覚していた私に対し“メッシー君”を申し出てくれる男性陣は数多かったものだ。
それが証拠に、その中の誰氏からも求婚などされたことはない。 ただただ私を食事に誘ってくれ私側としては対等な関係で有意義な時間を過ごせた事に今更ながら感謝申し上げよう。 (あっ、失礼。 夕食料金は相手方男性が全部支払ってくれたかなあ??)
そんなこんなの我が「メッシー君」「アッシー君」人生は、まさに晩婚直前のバブル崩壊期まで続いたと言えよう…。
最後に、私論でまとめよう。
確かに「メッシー君」「アッシー君」文化が我が国に蔓延っていたバブル前後の頃とは、未だ日本女性が自立とは程遠い過程を彷徨い、“男依存傾向”を余儀なくされた時代だったと結論付けらるかもしれない。
それでも私は、もっと以前の「ナンパ」文化をも含め、我が国は貴重な人と人との出会いのチャンスを喪失し続ける人間関係時代へと後退の一途を辿っている感が否めないでいる。
とにもかくにも、人間関係のきっかけとはどちらかが声を掛けなければ始まりもしない事は歴然だ。 声掛けの理由は何であれ相手を気に入ったならば素直に声をかける。 これは「メッシー君・アッシー君」「ナンパ」文化を底辺で支えていた人の出会いに関する貴重な我が国の所産だ。
諸外国は如何なものか? しばらく海外を訪れていない身にして残念ながら論じられないテーマだ。
とにもかくにも、日本国内に於けるこれ程までに歪んで成長を遂げた「プライバシー保護」及び「個人情報保護」政策が人間関係の希薄化に拍車をかけ、国内の犯罪を多発させる元凶と化している感を私は抱く。
「メッシー君」「アッシー君」の是非はともかく、お互いに好意を抱いた人と人とがもっと自由にかかわれるチャンスを得て、その関係を充実させられる平和な時代に戻る事に期待したいものだ。