今朝方、高齢者有料介護施設に入居中の義母より、電話が入った。
義母からの電話は特段今日に限った事ではなく、下手をすると一日3度電話を私宛に掛けて来て、様々な不都合を訴えて来る。
いつもの事ながら、決して切羽詰まった用件ではない。 義母の場合、入居介護施設のケア体制が充実していることもあり、真に義母が切羽詰まる状況に陥った場合は施設のケアマネジャー氏より自宅まで連絡を頂戴出来る体制は整っている。
さてさて今朝の義母の用件とは、通例通りだ。 届いた郵便物の内容が把握しかねるとの内容である。
それを以前より重々承知している我が家は、私の判断により義母宛の郵便物を我が家まで転送する手続きを郵便局に申し出ている。
ところが一部の杓子定規対応に固執する公的私的組織団体は、この「郵便物転送」を一切認可していない。 どうしても本人居住の住所地宛のみに郵便物を届けるとの方策に執着している諸企業は、今尚少なくない。
本日も義母からの電話内容に関して私なりにその詳細を確認しようにも、とにかく耳が遠い、痴呆症状はある、それに伴い今となっては如何程の会話力や文書読解力があるのやらないのやら…、 恐らく“無い”と私は判断している。
そんな義母相手に、我が亭主(義母の長男)は、未だに義母に新聞購読を勧める有様だ…。 本人がもう読みたくないと訴えているのに、「やっぱり社会と通じているためには新聞は読むべきだよ」などと自分の母が置かれている現実を知ろうともせず、母の知力を信じつつ(信じたいのだろう…)、他人事のように綺麗ごとを言う亭主のアドバイスに対しては、何故か素直な義母だ。
ところが、こと嫁である私に対しては“恥を知らない”(善意に解釈すると“素直な”)義母である。
分からない事は分からないと、明瞭に訴えてくれる。 これは好都合だ。 そうでなければ、我が義母の介護支援は今後に至ってままならない事であろう。
今朝の郵便物の内容が理解できないとの義母からの電話内容に対しても、私は事前対応を施している。 内容が分からない郵便物はそのまま返信用封筒(我が家の住所を書き切手を貼った大型封筒を義母に持たせているのだが)に郵便物を入れてポストに入れてくれれば、私宛に届くと指導している。(幸いな事に義母が住むケアマンションの程近い場所に郵便ポストがあるのだ。)
私が現在、何故義母相手に適切な対応が可能かとの命題に関して、以下に考察してみよう。
これぞ、微小ではあるが“障害”を持って出生せざるを得なかった我が子を「サリバン先生」の立場で育てた(現在まだ子育て進行中とも言えるが)経験が、大いに活きていると結論付けられそうな気がする。
もしも、我が娘が大した苦労もなくして育ち今現在社会人として飛び立とうとしているのなら、私は単に普通の母親としてその成長を見守るだけの陳腐な存在だったのであろう。
我が娘はラッキーな事に、生まれ持ってのDNA面で義母家系も含め様々な良質DNAに依存して、予想をはるかに超える成長を遂げられた事と自負する。
それでも私がサリバン先生として我が娘をここまで導いた道程とは、決して尋常な過程ではなかったのは確かだ。
その道程を思い起こすと、私にとって義母のケアをする事など大した仕事ではないのが事実だ。
何分、義母は自身の判断(及び自己資金力)で既に高齢者有料介護施設へ自主的に入居してくれている。
そして嫁である私に訴えてくる事象も、さほどの手が係る課題でもない。 それでも実の息子である亭主は、私が義母の相手が嫌ならばその場で「電話を掛けてくるな」と義母に宣言してよいとも言う。
まったくもって、自分自身で要支援の娘や要介護者の実親と一切かかわっていない人間とは、とてつもなく馬鹿な発言をするものだ…
ここで少し古くなるが、朝日新聞6月掲載“悩みのるつぼ”の相談内容を以下に紹介しよう。
47歳女性だが、お年寄りをいたわったり優しくしようとの気持が全く持てない。 寝たきりになったり車椅子でボーッと座っている老人をみると、いけない事だが、「生物学的にも社会的にも死んでいるのに、この人たちは何で生きているのだろう」と思ってしまう。 これから死ぬ年寄りの介護のために膨大な税金を投入し、がっぽり年金をもらう年寄りがいる事に対し許せない気持ちになる。「どうせ数年で死んでしまうのに」と思ってしまう。 ただ、障害をお持ちの方や身体が不自由な方に対しては当たり前だがいたわってあげたい気持ちになる。 とにかくお年寄りにだけ嫌悪感を抱くのだ。 自分自身で分析してなぜそうなのか分からない。 今後自分も老人の仲間入りをすることを思うだけで嫌な気持ちになり、生きて行きたくなくなる。 とのように年を重ねていけばよいのかアドバイスをお願いしたい。
最後に、私論に入ろう。
上記“悩みのるつぼ”相談者女性とは、ご自身が人を愛したり愛されたりとの経験に全く欠如している感覚を抱く。 人とのかかわりに於いて相当希薄な人生を歩み、今に至って尚、世の常識を四角四面に形式としてのみしか捉えられないままに、現在47歳との熟年期に突入してしまったのではあるまいか??
もしかしたら、ずっと独身を貫いておられるのだろうか?
それは我が希望でもあった。 それにしても40近くまでの我が独身時代とは人間関係に溢れていた。その時代に於ける人とのかかわりは、その後の我が人生に続く貴重な所産だ。
何故相談者女性は、高齢者の存在を頭から拒絶し今後も拒絶し続けるのか??
貴方がもしも高額所得者であり巨額の公的年金料をずっと支払っているとすれば、それに甘んじて現在生き延びている高齢者連中が憎たらしいのかもしれない。 ただ我が推測によれば、貴方は決してその身分ではなさそうだよねえ…
子育て経験もなさそうな貴女とは、今後ご自身が老後に至った時点で国家財源を一番食い潰しそうな輩だよ。 貴女の老後を支えるために、今後如何程の国民の財源が係ると推測しているの??
少しは自身の老後を推し量れば、現在貴女が老人虐待せんと欲する年代間での差別化魂胆に基づいた虐待思想のみすぼらしさの程に、少しは目覚めるのではあるまいか?
義母からの電話は特段今日に限った事ではなく、下手をすると一日3度電話を私宛に掛けて来て、様々な不都合を訴えて来る。
いつもの事ながら、決して切羽詰まった用件ではない。 義母の場合、入居介護施設のケア体制が充実していることもあり、真に義母が切羽詰まる状況に陥った場合は施設のケアマネジャー氏より自宅まで連絡を頂戴出来る体制は整っている。
さてさて今朝の義母の用件とは、通例通りだ。 届いた郵便物の内容が把握しかねるとの内容である。
それを以前より重々承知している我が家は、私の判断により義母宛の郵便物を我が家まで転送する手続きを郵便局に申し出ている。
ところが一部の杓子定規対応に固執する公的私的組織団体は、この「郵便物転送」を一切認可していない。 どうしても本人居住の住所地宛のみに郵便物を届けるとの方策に執着している諸企業は、今尚少なくない。
本日も義母からの電話内容に関して私なりにその詳細を確認しようにも、とにかく耳が遠い、痴呆症状はある、それに伴い今となっては如何程の会話力や文書読解力があるのやらないのやら…、 恐らく“無い”と私は判断している。
そんな義母相手に、我が亭主(義母の長男)は、未だに義母に新聞購読を勧める有様だ…。 本人がもう読みたくないと訴えているのに、「やっぱり社会と通じているためには新聞は読むべきだよ」などと自分の母が置かれている現実を知ろうともせず、母の知力を信じつつ(信じたいのだろう…)、他人事のように綺麗ごとを言う亭主のアドバイスに対しては、何故か素直な義母だ。
ところが、こと嫁である私に対しては“恥を知らない”(善意に解釈すると“素直な”)義母である。
分からない事は分からないと、明瞭に訴えてくれる。 これは好都合だ。 そうでなければ、我が義母の介護支援は今後に至ってままならない事であろう。
今朝の郵便物の内容が理解できないとの義母からの電話内容に対しても、私は事前対応を施している。 内容が分からない郵便物はそのまま返信用封筒(我が家の住所を書き切手を貼った大型封筒を義母に持たせているのだが)に郵便物を入れてポストに入れてくれれば、私宛に届くと指導している。(幸いな事に義母が住むケアマンションの程近い場所に郵便ポストがあるのだ。)
私が現在、何故義母相手に適切な対応が可能かとの命題に関して、以下に考察してみよう。
これぞ、微小ではあるが“障害”を持って出生せざるを得なかった我が子を「サリバン先生」の立場で育てた(現在まだ子育て進行中とも言えるが)経験が、大いに活きていると結論付けられそうな気がする。
もしも、我が娘が大した苦労もなくして育ち今現在社会人として飛び立とうとしているのなら、私は単に普通の母親としてその成長を見守るだけの陳腐な存在だったのであろう。
我が娘はラッキーな事に、生まれ持ってのDNA面で義母家系も含め様々な良質DNAに依存して、予想をはるかに超える成長を遂げられた事と自負する。
それでも私がサリバン先生として我が娘をここまで導いた道程とは、決して尋常な過程ではなかったのは確かだ。
その道程を思い起こすと、私にとって義母のケアをする事など大した仕事ではないのが事実だ。
何分、義母は自身の判断(及び自己資金力)で既に高齢者有料介護施設へ自主的に入居してくれている。
そして嫁である私に訴えてくる事象も、さほどの手が係る課題でもない。 それでも実の息子である亭主は、私が義母の相手が嫌ならばその場で「電話を掛けてくるな」と義母に宣言してよいとも言う。
まったくもって、自分自身で要支援の娘や要介護者の実親と一切かかわっていない人間とは、とてつもなく馬鹿な発言をするものだ…
ここで少し古くなるが、朝日新聞6月掲載“悩みのるつぼ”の相談内容を以下に紹介しよう。
47歳女性だが、お年寄りをいたわったり優しくしようとの気持が全く持てない。 寝たきりになったり車椅子でボーッと座っている老人をみると、いけない事だが、「生物学的にも社会的にも死んでいるのに、この人たちは何で生きているのだろう」と思ってしまう。 これから死ぬ年寄りの介護のために膨大な税金を投入し、がっぽり年金をもらう年寄りがいる事に対し許せない気持ちになる。「どうせ数年で死んでしまうのに」と思ってしまう。 ただ、障害をお持ちの方や身体が不自由な方に対しては当たり前だがいたわってあげたい気持ちになる。 とにかくお年寄りにだけ嫌悪感を抱くのだ。 自分自身で分析してなぜそうなのか分からない。 今後自分も老人の仲間入りをすることを思うだけで嫌な気持ちになり、生きて行きたくなくなる。 とのように年を重ねていけばよいのかアドバイスをお願いしたい。
最後に、私論に入ろう。
上記“悩みのるつぼ”相談者女性とは、ご自身が人を愛したり愛されたりとの経験に全く欠如している感覚を抱く。 人とのかかわりに於いて相当希薄な人生を歩み、今に至って尚、世の常識を四角四面に形式としてのみしか捉えられないままに、現在47歳との熟年期に突入してしまったのではあるまいか??
もしかしたら、ずっと独身を貫いておられるのだろうか?
それは我が希望でもあった。 それにしても40近くまでの我が独身時代とは人間関係に溢れていた。その時代に於ける人とのかかわりは、その後の我が人生に続く貴重な所産だ。
何故相談者女性は、高齢者の存在を頭から拒絶し今後も拒絶し続けるのか??
貴方がもしも高額所得者であり巨額の公的年金料をずっと支払っているとすれば、それに甘んじて現在生き延びている高齢者連中が憎たらしいのかもしれない。 ただ我が推測によれば、貴方は決してその身分ではなさそうだよねえ…
子育て経験もなさそうな貴女とは、今後ご自身が老後に至った時点で国家財源を一番食い潰しそうな輩だよ。 貴女の老後を支えるために、今後如何程の国民の財源が係ると推測しているの??
少しは自身の老後を推し量れば、現在貴女が老人虐待せんと欲する年代間での差別化魂胆に基づいた虐待思想のみすぼらしさの程に、少しは目覚めるのではあるまいか?