年末年始に朝日新聞のまとめ読みをしていて、オピニオンページの「声」欄内に子供の「しつけ」に関する討論コーナーを見つけた。
私自身、娘を一人育てている。
現在22歳だが、今春大学を(娘なりに立派に??)卒業する予定で、4月には職業人として社会へ旅立つまでに成長してくれているが、未だ育て途中とも表現出来よう。
我が娘の場合、出産時のトラブルにより若干の事情を抱えての誕生だったため、その後の教育・指導の道程は母として並大抵のものではなかった。 娘のサリバン先生の立場でこの22年間誠心誠意全力投入し、娘の成長のために我が人生を捧げて来たといっても過言ではない。
だがそれでも、私は娘に対して「しつけ」をしたとの認識はない。 何をしてきたかと言えば、まさにサリバン先生の立場として、娘がこの世を自力で一生に渡り生き抜くべくの「教育・指導」である。
そもそも「しつけ」という言葉自体が、権力者から目下の子供に対する強制力を伴った行為を想定させられるし、教育者側の“傲慢さ”の匂いが漂い、嫌悪感すら抱かされるのだ。
どこの誰が、可愛い子供に対して「独裁者」に成り得るのだ!?
悪い例ではあるが、子供を虐待して傷つけ苦しめる親ほど、この「しつけ」なる言葉を使って自己を正当化したがる社会風潮があるように私は捉えている。
そんな私にとって、「しつけ」をテーマに討論が繰り広げられている朝日新聞「声」欄の“存在自体”こそが違和感を抱かされるものだった。
それでも、世間一般の親達や教育関係者達が、子供を「しつけ」るという事に対して如何なる思想を抱いているのかを把握したく考え、当該「声」欄を読んだ。 以下にその内容の一部を(原左都子なりにアレンジしつつ)要約して紹介しよう。
議論の種を撒いたのは、40代中学教員氏だったようだ。
「しつけとは我慢を教えること」と題し、教員氏は生徒達の外見の乱れ(茶髪、ピアス等々)を殊更取り上げ、親は子供がその行為で迷惑をかけないなら許されると考えている(と勝手に解釈)した後、異議申し立てをしている。 そしていきなり議論が飛躍し、「褒めて伸ばす」「個性の尊重」は悪い事ではないが、それは基本的な「しつけ」があった上での話と結論付け、しつけというのは子供に我慢を強いる事、とまでの私論を提示し、その仕事は親の責任と結論付けている。 さらには、学校内で生徒達のわがままは許されない故に、親は学校での指導が何のために行われているのか冷静に考える必要がある、と締めくくっている。
一旦、原左都子の私論に入ろう。
この中学教員先生、おそらく学校内では良き先生として通っているのであろうと推測する。
ただ、ご自身の投稿内で “論理の破綻”がある事を自らが認識していない安直さを指摘しておきたい。
そもそも生徒の外見と内面は皆それぞれ千差万別であり、必ずや相関するものではない。 外見が乱れていると言うが、要するにこの先生が言わんとすることは「校則」に従っていない事実イコール外見の乱れ、との結論なのだろう。 それは一応認めるとして、何故それら生徒の親達が皆子供をその格好で学校へ行かせる事に“歪んだポリシー”があると決めつけるのだろうか??
これに対しては、このコーナーの下の欄に有識者(とやら)のご意見が掲載されているため、それを紹介しよう。
子供のしつけどころではなく厳しい状況下におかれた家庭も少なくないことを、学校は理解する必要がある。 そのケースの場合、親を責めても仕方ない。
原左都子も全く同感だ。
まさに、産んだ子供を学校へ行かせる事自体が大変な経済的貧困家庭がこの世の片隅に置き去りにされている事実を再認識する事から、公教育現場は出発し直すべきだ。
更に討論対象となっている4つの追加意見が朝日新聞に掲載されているのだが、残念ながら私論とダブる投稿が一つもない。 一部では同調出来るが、どうしても4名が出されている結論が我が私論と食い違うのだ。
どういう風に食い違うのかを以下に説明しよう。
例えば、投稿者である高齢女性のA氏は「学問は学校で しつけは家で」とおっしゃる。
ところが学問を好き好んでいる私としては「学問」こそを私自身が娘に伝授したいし、元々「しつけ」 なる言葉には大いなるアレルギーがある。
次なる32歳高校教員の男性は、「好みを押し付けてはいけない」なるタイトルで、やたらに生徒の外見擁護に偏った論評をしておられる。 原左都子の私論としては、それじゃあ学校教員務まらないよ、と指導したくもなる。 生徒の外見を擁護していいが、教員とはもっと本質的に生徒に伝授せねばならない課題が盛沢山だよ。それが実行出来た後に生徒の外見を擁護しても決して遅くないよ、32歳先生。
最後に紹介されている50代介護福祉士による論評を、朝日新聞としては“まとめ”としたかったのだろうが、私に言わせてもらうならば、残念ながらまったく“まとめ”になっていない単なる狭き視野からの一投書に過ぎない。
要するに、当該投書者は生徒の外見に関してまとめようと志した様子だが、そもそも子供の教育を論評したい者が生徒の外見印象に囚われ過ぎる貧弱な発想しか出来ないとは、一体どうした事なのか!?!
最後に、原左都子の私論でまとめよう。
それ以前の問題として、大変失礼ながら、朝日新聞「声」欄自体が急激にレベルダウンしているような印象を抱かされる。
それには、ネット進化の影響もあるのかもしれない。 今時情報発信側も私のようにネットを利用して自分でHPを作りそこから主体的に発信するのが常であろう。 そんな環境下に於いて、今に及んでわざわざ新聞投稿により自己実現を果たす人間とは少人数となっている事だろう。
子供の教育をテーマに取り上げたい場合、昔ならば、もっと多角的視野を持てたはずだ。
「しつけ」なる用語には、上記に私が明言したように、子供を虐待する親どもが好んで使用する言語である事を朝日新聞は理解しているはずなのだ。
おそらく愛読者の多くが見るであろう年末年始特集に於いて、「声」欄にて取り上げるテーマとしては「しつけ」ではなくもう少し教育一般論として普遍性を持たせるテーマを設定して欲しかった思いも抱く。
たとえそうだとしても、私自身は今まで通り我が娘への教育・指導に於いて、我がサリバンポリシーを貫く予定でいる。
子供の教育・指導とは、決して“上から目線”で独裁的に子供をしつける事ではなく、子供の目線に立ち個性を尊重しつつ、親も努力しながら共に歩む事と捉えて22年間頑張ってきたつもりだ。
なんて言ったって、今となっては還暦過ぎて老いぼれ気味の私のサリバン先生を時々娘が務めてくれている(娘側が私に配慮して共に歩んでくれている)現実に、感謝感激なのだけどね… トホホ…
私自身、娘を一人育てている。
現在22歳だが、今春大学を(娘なりに立派に??)卒業する予定で、4月には職業人として社会へ旅立つまでに成長してくれているが、未だ育て途中とも表現出来よう。
我が娘の場合、出産時のトラブルにより若干の事情を抱えての誕生だったため、その後の教育・指導の道程は母として並大抵のものではなかった。 娘のサリバン先生の立場でこの22年間誠心誠意全力投入し、娘の成長のために我が人生を捧げて来たといっても過言ではない。
だがそれでも、私は娘に対して「しつけ」をしたとの認識はない。 何をしてきたかと言えば、まさにサリバン先生の立場として、娘がこの世を自力で一生に渡り生き抜くべくの「教育・指導」である。
そもそも「しつけ」という言葉自体が、権力者から目下の子供に対する強制力を伴った行為を想定させられるし、教育者側の“傲慢さ”の匂いが漂い、嫌悪感すら抱かされるのだ。
どこの誰が、可愛い子供に対して「独裁者」に成り得るのだ!?
悪い例ではあるが、子供を虐待して傷つけ苦しめる親ほど、この「しつけ」なる言葉を使って自己を正当化したがる社会風潮があるように私は捉えている。
そんな私にとって、「しつけ」をテーマに討論が繰り広げられている朝日新聞「声」欄の“存在自体”こそが違和感を抱かされるものだった。
それでも、世間一般の親達や教育関係者達が、子供を「しつけ」るという事に対して如何なる思想を抱いているのかを把握したく考え、当該「声」欄を読んだ。 以下にその内容の一部を(原左都子なりにアレンジしつつ)要約して紹介しよう。
議論の種を撒いたのは、40代中学教員氏だったようだ。
「しつけとは我慢を教えること」と題し、教員氏は生徒達の外見の乱れ(茶髪、ピアス等々)を殊更取り上げ、親は子供がその行為で迷惑をかけないなら許されると考えている(と勝手に解釈)した後、異議申し立てをしている。 そしていきなり議論が飛躍し、「褒めて伸ばす」「個性の尊重」は悪い事ではないが、それは基本的な「しつけ」があった上での話と結論付け、しつけというのは子供に我慢を強いる事、とまでの私論を提示し、その仕事は親の責任と結論付けている。 さらには、学校内で生徒達のわがままは許されない故に、親は学校での指導が何のために行われているのか冷静に考える必要がある、と締めくくっている。
一旦、原左都子の私論に入ろう。
この中学教員先生、おそらく学校内では良き先生として通っているのであろうと推測する。
ただ、ご自身の投稿内で “論理の破綻”がある事を自らが認識していない安直さを指摘しておきたい。
そもそも生徒の外見と内面は皆それぞれ千差万別であり、必ずや相関するものではない。 外見が乱れていると言うが、要するにこの先生が言わんとすることは「校則」に従っていない事実イコール外見の乱れ、との結論なのだろう。 それは一応認めるとして、何故それら生徒の親達が皆子供をその格好で学校へ行かせる事に“歪んだポリシー”があると決めつけるのだろうか??
これに対しては、このコーナーの下の欄に有識者(とやら)のご意見が掲載されているため、それを紹介しよう。
子供のしつけどころではなく厳しい状況下におかれた家庭も少なくないことを、学校は理解する必要がある。 そのケースの場合、親を責めても仕方ない。
原左都子も全く同感だ。
まさに、産んだ子供を学校へ行かせる事自体が大変な経済的貧困家庭がこの世の片隅に置き去りにされている事実を再認識する事から、公教育現場は出発し直すべきだ。
更に討論対象となっている4つの追加意見が朝日新聞に掲載されているのだが、残念ながら私論とダブる投稿が一つもない。 一部では同調出来るが、どうしても4名が出されている結論が我が私論と食い違うのだ。
どういう風に食い違うのかを以下に説明しよう。
例えば、投稿者である高齢女性のA氏は「学問は学校で しつけは家で」とおっしゃる。
ところが学問を好き好んでいる私としては「学問」こそを私自身が娘に伝授したいし、元々「しつけ」 なる言葉には大いなるアレルギーがある。
次なる32歳高校教員の男性は、「好みを押し付けてはいけない」なるタイトルで、やたらに生徒の外見擁護に偏った論評をしておられる。 原左都子の私論としては、それじゃあ学校教員務まらないよ、と指導したくもなる。 生徒の外見を擁護していいが、教員とはもっと本質的に生徒に伝授せねばならない課題が盛沢山だよ。それが実行出来た後に生徒の外見を擁護しても決して遅くないよ、32歳先生。
最後に紹介されている50代介護福祉士による論評を、朝日新聞としては“まとめ”としたかったのだろうが、私に言わせてもらうならば、残念ながらまったく“まとめ”になっていない単なる狭き視野からの一投書に過ぎない。
要するに、当該投書者は生徒の外見に関してまとめようと志した様子だが、そもそも子供の教育を論評したい者が生徒の外見印象に囚われ過ぎる貧弱な発想しか出来ないとは、一体どうした事なのか!?!
最後に、原左都子の私論でまとめよう。
それ以前の問題として、大変失礼ながら、朝日新聞「声」欄自体が急激にレベルダウンしているような印象を抱かされる。
それには、ネット進化の影響もあるのかもしれない。 今時情報発信側も私のようにネットを利用して自分でHPを作りそこから主体的に発信するのが常であろう。 そんな環境下に於いて、今に及んでわざわざ新聞投稿により自己実現を果たす人間とは少人数となっている事だろう。
子供の教育をテーマに取り上げたい場合、昔ならば、もっと多角的視野を持てたはずだ。
「しつけ」なる用語には、上記に私が明言したように、子供を虐待する親どもが好んで使用する言語である事を朝日新聞は理解しているはずなのだ。
おそらく愛読者の多くが見るであろう年末年始特集に於いて、「声」欄にて取り上げるテーマとしては「しつけ」ではなくもう少し教育一般論として普遍性を持たせるテーマを設定して欲しかった思いも抱く。
たとえそうだとしても、私自身は今まで通り我が娘への教育・指導に於いて、我がサリバンポリシーを貫く予定でいる。
子供の教育・指導とは、決して“上から目線”で独裁的に子供をしつける事ではなく、子供の目線に立ち個性を尊重しつつ、親も努力しながら共に歩む事と捉えて22年間頑張ってきたつもりだ。
なんて言ったって、今となっては還暦過ぎて老いぼれ気味の私のサリバン先生を時々娘が務めてくれている(娘側が私に配慮して共に歩んでくれている)現実に、感謝感激なのだけどね… トホホ…