原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

ルネサンス期にフィレンチェを支配したメディチ家

2016年01月13日 | 学問・研究
 2週間後の1月27日より、私はイタリアのローマ・フィレンチェ間を列車にて移動の旅に出る。
 本日のエッセイはその“下調べ”の目的で綴る事を、最初にお断りしておく。

 私は高校・中学「社会」「商業」教職免許を取得し、過去に高校教員経験がある。 とは言え、そもそも教師となった頃の私の専門は「経営法学」(大学院修士課程にて「経営法学修士」を取得)であり、その関連科目の「商業法規」「商業経済」あるいは「現代社会」を中心に授業を担当させてもらったのみだ。
 そんな私はどちらかと言えば、「歴史」(日本史、世界史にかかわらず)は苦手だ。  現在の教職免許取得制度に於いて「社会」は「地歴」「公民」に分類されていると認識しているが、もしも私が「歴史」の授業を持たされたものなら、さぞや苦慮したことであろう。

 私がイタリアを旅するのは、今回2度目だ。
 最初に訪れたのは、1979年我が24歳時である。 ロンドン・パリ・ローマを巡る12日間程の団体旅行に参加し、イタリアはローマのみ訪問している。
 何せ団体旅行との全てにおいて制限がある旅形式であり、要するに名所・旧跡を中心に巡るツアーだった。

 そんな中、ローマで私が一番印象深かったのは、ブランド店を巡り買い物をする都度、私の財布に吊り下げていた“キーホルダー”(おそらく鈴等の和風もの)に若き女性店員氏達が興味を示したことだ。 「それが欲しい!」と店員氏達が訴えてくる。 (へえ、さすがにファッションの都ローマだなあ)などと感心しつつも、それを易々とプレゼントする訳にはいかない。
 そうしたところ、某ブランド店の女性店員氏が 「バックを内緒で値引きするから、どうしても私にそのキーホルダーを譲って欲しい!」と訴えて来た。 これには降参して、その女性にキーホルダーをプレゼントした。
 その時の教訓から、私は今回のイタリア旅行に於いては100円ショップにて“和風キーホルダー”を複数買い求め、イタリアンガールズに配る体制を整えている。 
 と言っても、1970年代以降時代が劇的に変遷した今時、国際競争力に欠けている日本の製品など世界中の誰もが欲しいと思わないのかもね…。
 そうだとして旅とは国内外にかかわりなく現地の人との“一期一会”こそが醍醐味、と私は今でも考えている。


 前置きが長引いたが、そろそろこの辺でフィレンチェの歴史検索の旅へ出よう。
 (以下は、ウィキペディア情報より引用させて頂く事をお断りしておく。)

 メディチ家は、ルネサンス期のイタリア・フィレンツェにおいて銀行家、政治家として台頭。 フィレンツェの実質的な支配者として君臨し、後にトスカーナ大公国の君主となった一族である。 その財力でボッティチェリ、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ヴァザーリ、ブロンツィーノ、アッローリなどの多数の芸術家をパトロンとして支援し、ルネサンスの文化を育てる上で大きな役割を果たしたことでも知られている。
 歴代の当主たちが集めた美術品などはウフィツィ美術館などに残され、また、ピッティ宮殿などのメディチ家を称える建造物も多数フィレンツェに残された。

 「メディチ」は「医師」、「医学」、「医薬」という意味であり、先祖は薬種問屋か医師であったのではないかとされており、13世紀のフィレンツェ政府の評議会議員の記録に既にメディチの名前が残されている。 
 14世紀には銀行家として台頭し、フィレンツェ共和国政府にもメンバーを送りこむまでになった。 その後、下層労働者と新興商人が結んだチョンピの乱では、メディチ一族のサルヴェストロが活躍するが、反対派のアルビッツィ家らに巻き返されて失敗する。 そうした中で後のメディチ一族の基礎を作ったのはヴィエーリ・ディ・カンビオ(1323年 - 1395年)である。 ヴィエーリはローマ教皇庁にもつながりを持って、銀行業で成功した。

 メディチ家は、ジョヴァンニ・ディ・ビッチ(1360年 - 1429年)の代に銀行業で大きな成功を収める。 メディチ銀行はローマやヴェネツィアへ支店網を広げ、1410年にはローマ教皇庁会計院の財務管理者となり、教皇庁の金融業務で優位な立場を得て、莫大な収益を手にすることに成功した。

 ジョヴァンニの息子コジモ(1389年 - 1464年、コジモ・イル・ヴェッキオ)は政敵によって一時追放されるが、1434年にフィレンツェに帰還し、政府の実権を握る(1434年から一時期を除き、1737年までのメディチ家の支配体制の基礎が確立する)。 メディチ家はイタリアだけでなくヨーロッパでも有数の大富豪となった。
 コジモの孫のロレンツォ(1449年 - 1492年)は優れた政治・外交能力を持っていた。イタリア各国の利害を調整する立場として大きな影響力を振るい、信頼を得ていた。 
 ロレンツォが43歳の若さで病死し、長男のピエロが家督を継ぐが、1494年のシャルル8世率いるフランス軍の侵攻に対する対処を誤り、市民の怒りを買ってしまう。 メディチ家はフィレンツェを追放され、メディチ銀行も破綻した。
 1512年、ジョヴァンニを筆頭にしたメディチ家は、ハプスブルク家の援助を得てスペイン軍と共にフィレンツェに復帰し、その支配を再確立した。 1513年、ジョヴァンニは教皇レオ10世として即位し(在位:1513年 - 1521年)、メディチ家はフィレンツェとローマ教皇領を支配する門閥となった。 レオ10世は芸術を愛好し、ローマを中心にルネサンスの文化の最盛期をもたらしたが、多額の浪費を続けて教皇庁の財政逼迫を招き、サン・ピエトロ大聖堂建設のためとして大がかりな贖宥状(いわゆる免罪符)の販売を認めたことで、1517年のマルティン・ルターによる宗教改革運動のきっかけを作った。
   (  中 略  )
 トスカーナ大公国は、フェルディナンド1世(在位:1587年 - 1609年)を最後にしてイタリアの一小国になった。 教皇位もレオ11世が1605年に即位したが、1年もたたずに急死、以降メディチ家は教皇に任命されなかった。
 1737年、第7代トスカーナ大公ジャン・ガストーネが後継者を残さずに死亡した。 トスカーナ大公位は、ロレーヌ家のフランツ・シュテファン(神聖ローマ皇帝フランツ1世)が継承した。 こうして、西ヨーロッパにその名を馳せたメディチ家は断絶した。  この家系は、現在も血脈を保っている。
 (以上、ウィキペディア情報より一部を要約引用。)

 
 何と言ってもフィレンチェ探索とは、メディチ家の歴史を辿る旅物語となりそうだ。

 既に私が訪問先候補として挙げている 「ウフィツィ美術館」 などは、メディチ家コジモ1世の命(めい)により1580年に完成したルネッサンス建築を誇る美術館であるらしい。 ただし海外旅行者に物凄く人気がある美術館であるらしく、予約必須との情報だ。 果たして訪れられるのかどうか… せめて外見のみでも見学して来よう!

 更には、15世紀にピッティ家の邸宅として建てられた宮殿もあるらしく、そこにはラファエロやルーベンスの傑作を収蔵した美術館等があるそうだ。
 フィレンチェ初心者向けとして、「パラディーナ美術館」や「サンマルコ美術館」、「アカデミア美術館」等もあるらしいが、私が調べたところによれば、すべて一人当たり“5~10ユーロ”程の入場料がかかりそうだ。

 庶民の我が身の立場としては、他にもシニョーリア広場やアルノ川沿の中央市場やメルカート(お土産屋)も期待できそうだ。 
 とにもかくにも今回の我が旅行予算に応じた旅を、如何に楽しめるかが一番の課題となろう。