原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

受け手側の気持ち次第で“ハラスメント”が成立してしまうのか?

2018年03月17日 | 人間関係
 (写真は、本日2018.03.17付朝日新聞別刷「be」の漫画 「部きっ長さん」を転載したもの。)


 今の世の中、何でもかんでも “ハラスメント” “ハラスメント” と実に世知辛い時代と成り果ててしまっている。
 この“ハラスメント”概念こそが、現世の「人間関係の希薄化」現象に大いに拍車をかけている元凶と言っても大袈裟ではなかろう。
 本エッセイ集バックナンバーに於いて、このハラスメント概念がもたらす“弊害”に関して幾度が取り上げてきている。


 冒頭から私事の事例を挙げよう。

 来る4月から社会人3年目に突入せんとしている我が娘が、昨年春頃、職場の上司より“服装”に関する注意を受けたらしい。
 それには、そもそもの事情がある。 娘は現在自分の勤務先より大手企業へ出向している身分だ。 当該大手企業の女子職員は全員制服着用が義務づけられているのに対し、出向者である娘は私服で業務に当たっている。 このちくはぐ状況下に於いて、どうしても少数派の私服女子職員が“目立ってしまう”ようだ。
 
 それはそうとして、何もあえて事を大袈裟にせずとてよかったものを、わざわざ娘の大元の勤務先より女性先輩が出向先へ訪れ、娘に服装指導をしたのだと言う。 
 何故ならば…。  出向先上司・先輩が皆男性であり、若き娘に対して“服装指導”をするとの行為が“セクハラ”に当たる事を恐れた様子だ。
 娘は別室に呼び出されその女性先輩より服装指導を受けた訳だが、当初(一体私が何をしたのか!?)と実際とてつもなく怯えたらしい。
 単に一言、男性上司が「服装が華美にならないように」と指導すれば済んだ話であろうに。
 それ程までに、現在の職場とは男性側が“セクハラ”を筆頭とした“ハラスメント概念”に神経質になっている様子だ。
 
 
 上記写真の、漫画「部きっ長さん」に話題を戻そう。

 どうやら、世に発生した「Me too事件」を受けて、漫画主人公の部きっ長さんがセクハラ委員に任命されたが。
 結論として導かれたのは、「セクハラになるかどうかはすべて受け取る人の気持ち次第!」との結末のようだ。

 ここで、私見だが。

 確かに、そういう事なのだろう。
 受け手が「これはセクハラだ」「これはパワハラだ」「これはマタハラだ」「これはソーハラだ」と受取り、それを主張すれば事案のすべてが“ハラスメント”として成立してしまう現世である感を抱かされる。 
 (参考だが、アルコールを受け付けない相手にそれを強要する種の“アルコールハラスメント”のみは別枠で考察したいのが私論だ。 何故ならばこの種のアルハラの場合、個々人が持って生まれたDNAに由来する資質が絶大故だ。 命をも失いかねないアルハラのみは、絶対的に撲滅するべきだ!

 ただ私が現役社会人だった時代は、今よりもずっと人間関係が潤っていた記憶がある。
 我が職場にも、何だかんだ色々とちょっかいを出してくる男性陣が必ずや存在した。 少なくともこの私は、その男性陣の言動を“ハラスメント”と受け取った事はただの一度も無い。 むしろ、その“ちょっかい”こそがきっかけとなって人間関係を発展させ、ひいては職場関係を充実させていたようにさえ振り返る。
 要するに、元々職場内での人間関係が成り立っていたのだろう。 たとえ職場であれ、多少セクハラっぽい言動であろうと、それが許容されるがごとくの皆が“人間としてのかかわり”を楽しめた時代背景だったという事であろう。


 1ヶ月程前になるが、私は“とある朝日新聞記事”が大いに気にかかり、そのスクラップを保存していた。
 2018.02.17付朝日新聞記事「わたしの紙面批評」ページより、東工大准教授 西田亮介氏による「Me Too運動 型にはまった男性的紙面打ち壊して」と題する記述より、一部を要約して以下に紹介しよう。

 リベラルな風潮で知られるハリウッドにおいてさえ、非対称的な権力関係の前に沈黙を強いられる女性達と苦悩の存在が浮かび上がった。 「Me too」運動だ。 日本にも広がった「Me too」運動は、朝日新聞記事等により、日本社会の随所に非対称的な関係性に依存したハラスメントが現存する事が突き付けられる。 これらの記事を「気分良く読み通した」という男性読者は筆者を含め多いとは思えない。 女性が同席する場所で何の気なしに性的表現を含んだ軽口をたたいたことはなかったか? どんな冗談を発したかさえ思い出せない飲み会はなかったか? もしも背後に、それに対して気分を害したり、我慢している人がいたりする事実はあっと言う間に忘れてしまいがちで、やましさを一切抱えない聖人君子のような男性はそれほど多くはあるまい。
 他者に不愉快な思いをさせたり、他者の権利を侵害したりしないという至極当然の配慮が自明視される時代になった。
 「細かいことを気にせずに済んだ昔は良かった」とはいかない。 二度とそういう時代が戻ってくることもないはずだ。 そのことを認めつつ、ポスト平成生まれ世代が形成した男性的ステレオタイプを打ち崩したり、揺さぶったりする企画と紙面を(朝日新聞には)作り続けて欲しい。
 (以上、朝日新聞2月の記事より要約引用したもの。)


 最後に、原左都子の私論でまとめよう。

 東京工業大学准教授の西田亮介さん。
 貴方のような若手大学教官が現世に存在する事実に、私は安堵させて頂ける気がする。
 とりあえずは若き年代にして、「Me too」運動に参加している女性陣にお詫びの言葉を述べておられる事実を評価させて頂くべきだろう。

 ただ貴方が真に指摘したかったのは、歪み切ったまでの“セクハラ概念”に対する反論ではなかろうかと、私は受け取らせていただいたのだが、どうだろうか?…
 中年域に差し掛かりつつある貴方が、酒の場に於いてすら性的発言により女性が不快な思いを抱かざるを得ない事態に関して、男性の立場で何故それ程までに神経をすり減らさねばならないのだろう?? と私は大いに気にかかる。

 私は女性の立場として、今現在に於いて“不必要なまでに”男性陣から受けた行為に対し“セクハラ”概念を過剰に抱く若き世代の女性達の心理こそが理解出来ないでいる身だ。

 それはまさに上記西田准教授が指摘されているがごとく、「昭和生まれ世代が形成した男性的ステレオタイプ」に迎合した一女としてこの世で男女関係を謳歌した我が身に特異的な現象なのだろうか??

 そうだとしても私は断じて“セクハラ”など受けた経験は一切無く、常にこの世を男どもと対等に渡って来ていると、今現在言い切れるのだけど…