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(冒頭写真は、2023.04.04付朝日新聞「体操服 算数セット 防災ずきん ランドセル 家庭の負担、重すぎない? 小学校準備 全部で10万円も」より転載したもの。)
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同じく、朝日新聞記事より転載したもの。)
60年以上も前に小学校へ入学した原左都子が、当時の入学時と比較しても埒が明かないであろうが…。
今思い出してみるに、私が昭和30年代に公立小学校へ入学した頃には。
ランドセル、教科書にノート、筆箱、鉛筆、色鉛筆、消しゴム、学年が進むと三角定規に分度器。 体操服セット、縦笛、 附属教材とは、そんなものかな???
あっそうそう。 小3頃に、そろばんが必要になった。
これに関しては嫌な思い出がある。
親がどうしても私専用のそろばんを買ってくれず、姉のを借りて使えと言う。
それを親が姉に伝えて、「お姉さんのあなたが、妹の教室までそろばんを持って行ってあげなさい」と指導するのだが。
元々我がままでサービス精神に全く欠ける姉が、「嫌だ! 貸さない!」と言い張る。
それでも親が私専用のそろばんを買ってくれないため、私が姉の教室まで取りに行かねばならない。 性格の悪い姉は私が姉の教室まで取りに行っても貸してくれないため、一人で姉のロッカーを捜してそろばんを持って来た記憶がある。
(子供時代からそんな調子の姉妹で私は苦労の連続だったのだが、ずっと後に私側から姉に絶縁宣言をして現在に至っている。)
話題を朝日新聞記事に戻して、記事の一部を以下に引用しよう。
政府の少子化対策の議論では、子育てや教育にかかるお金を誰が負担するのかが一つの論点になっている。 義務教育である小学校でも、体操服や算数セットなど様々な物を保護者が買いそろえる必要があり、入学時にランドセルと合わせて10万円近くかかる例も。 一方、共有物として公費で買い、保護者の負担を減らしている自治体もある。 (途中大幅略)
学校の中で誰が責任をもってこの問題を改善していくかが明確でないこともあり、見直しが明確でない。 学校の予算も十分でなく、家庭で購入してもらわざるをえない事情もある。 (中略)
某大学教授(貧困・格差論)は、「毎年新品をそろえることは、環境の観点からも問題では」と言う。 (中略) 各自で購入すると、買えない家があったり、買った物に家の経済状況の差が表れたりして子供の世界に影響する可能性もある。 (中略) 「教育現場ではそうした差を見せてはいけないという配慮の視点も必要」と某教授。 「学校で使う物はすべて学校に準備してあり、鉛筆1本も持って行かなくてよいとすることが、シンプルで平等では」
(以下略すが、以上朝日新聞記事より一部を引用したもの。)
全くその通り! と原左都子も最後の某教授氏のご意見に賛同申し上げたい。
勉強(学習・学問も含めて)とは、教材で成すものでは決して無い。
大袈裟に言えば、一冊の本があれば十分な場合も多い。
いやまあ、“そろばん”や“ピアニカ”などはそれが無ければ学習不能だろうが…
極論を言えば、そんなもの義務教育現場で指導せずとて、各自各家庭の自由意思により実行すれば済む話だ。
特に小学校段階の学習に於いて、それ程の教材を児童生徒皆が一斉に揃えねば成立し得ないのか??? に対しては、大いなる疑問ありだ。
参考だが、上記の如く小学校時代に“そろばん”に不自由させられたこの私だが。
30歳を過ぎて再び入学した2度目の大学・大学院時代に「経営法学修士」取得経歴がある。
その際の一学問であった「簿記論」に於いて、周囲の若き学生たちが皆電卓にて計算していたのを尻目に。
私は計算手段として “そろばん”使用で徹底した。 その結果だが、全学一の高得点100点満点を上げるに至っている。
所詮、道具とは道具に他ならない。
学業(学問)の目指すべき真の方向性とは全く異なるところにある、と豪語させて頂きたい。