先程ネット情報にて、昨日発生した東大キャンパス前での「殺人未遂事件」に関する報道を発見した。
以下に、「殺人未遂事件」を起こした男子生徒が通う名古屋の私立高校が発表したコメントを引用しよう。
大学入学共通テストの会場だった東京大学のキャンパス前で、受験生ら3人が切りつけられて負傷した事件で、殺人未遂容疑で逮捕された少年(17)が通う名古屋市の私立高校は16日、コメントを公表した。全文は以下の通り。
本校在籍生徒が事件に関わり、受験生の皆さん、保護者・学校関係者の皆さんにご心配をおかけしたことについて、学校としておわびします。
本校は、もとより勉学だけが高校生活のすべてではないというメッセージを、授業の場のみならず、さまざまな自主活動を通じて、発信してきました。また本校の長い歴史のなかで、そのような校風を培ってきました。
ところが、昨今のコロナ禍のなかで、学校行事の大部分が中止となったこともあり、学校からメッセージが届かず、正反対の受け止めをしている生徒がいることがわかりました。これは私たち教職員にとっても反省すべき点です。
「密」をつくるなという社会風潮のなかで、個々の生徒が分断され、そのなかで孤立感を深めている生徒が存在しているのかもしれません。今回の事件も、事件に関わった本校生徒の身勝手な言動は、孤立感にさいなまれて自分しか見えていない状況のなかで引き起こされたものと思われます。
今後の私たちの課題は、そのような生徒にどのように手を差し伸べていくかということであり、それが根本的な再発防止策であると考えます。
(以上、ネット情報より引用したもの。)
捜査関係者によると、少年は交番に駆け込んできた男性と、共通テストを受験するために訪れた高校3年生の男女計3人を刺した後、「来年、東大を受ける」などと大声で叫んだ。 その後、包丁を投げ捨ててその場に座り込んだという。
更に別情報によれば、この男子生徒は現在高2で、東大医学部入学を目指して受験勉強中との報道もある。
冒頭に引用した、男子生徒が通う名古屋の私立高校が発表したコメントに戻ろう。
あくまでも原左都子の感想だが。
単なる謝罪文ではなく、事件を起こした生徒に対する配慮心も伝わるコメントであると感じる。
ただ、コロナ禍で登校が叶わず自宅にて個別に勉学に励まねばならない立場の生徒一人一人の孤立感に、どこまで学校からの配慮が及んでいたのかが気がかりだ。
「学校からメッセージが届かず、正反対の受け止めをしている生徒がいることがわかりました。これは私たち教職員にとっても反省すべき点です。」と記載されているが。
殺人未遂とまではいかずとて、微妙な年頃の男子生徒の内面心理を教員たちが実際どこまで分析・配慮できていたのか、分かりにくいコメントでもある。
当然この学校に限らず、コロナ禍による生徒の分断状態を救う手立てを教職員たちが如何に取り組んでいたかも不明だ。
とにもかくにも、事件は発生してしまった。
加害者少年の未来の程が見当もつかないが、未だ17歳の高校生少年の今後が、被害者の方々共々大変気がかりだ。
話題を変えよう。
南太平洋のトンガ沖で発生した海底火山の噴火による津波の影響で、太平洋沿岸の幅広い地域の自治体が避難指示を出していることを受け、大学入学共通テストの実施主体である大学入試センターは16日朝、避難指示区域に立地する会場が試験を中止した場合、再試験(30日)の対象とする方針を明らかにした。
受験生の居住地が避難指示エリアにあり、受験できなかった場合も基本的には追試験を認めることにしている。
(以上、ネット情報より引用したもの。)
上記情報内に、この地震被害に遭った受験生には“追試験を認める”とあるが。
受験生本人にとっては、“追試験”でことが済まないのは想像して余りある。
この日のために頑張ってきたのに、また振り出しに戻されて。 大学各部にて実施される本試験に向けての受験に差し障るのは歴然であるし、本人たちのその精神的被害の程を思うといたたまれない気持ちになる。
事は自然災害であり誰を責めるでもないのだが…
最後に、原左都子の大学入学共通テストに関する反論の程を、以下に繰り返そう。
大学入試制度の「公平性」とは、コロナ禍にかかわらずその判定が困難な性質のものではなかろうか?
共通テストが存在しなかった世代の私に言わせてもらえば、それが必要か否かにまで遡って議論したい気もする。
「公平性」の確保のためにそれを実施していると、文科省は言いたいのだろうが。
私の印象によれば、共通テスト制度とは要するに“受験生皆の偏差値を基に進学先の大学を振り分ける制度” と表現する方が正しいと言うべきだろう。
とにかく今の受験を巡る環境は「偏差値第一義主義時代」に移ろいでしまって久しい。
それに受験者本人も小中校の受験生を送り出す組織も、そして親も受験生本人も皆が踊らされてしまっている茶番劇時代であろう。
もしも時代が遠い昔の私の大学受験時のごとく、“自分が目指したい大学のみの受験”で済ませられるのならば。
コロナ禍と大騒ぎせずとて、比較的簡単に本人が目指す大学のみを受験して済んだのではなかろうか。
そのように考察すると。
たとえ世がコロナ禍一色に染まっていようが、大地震が到来しようが、大学受験はもっとシンプルに執り行える気もするのだが。
共通テストが存在しなかった世代の私に言わせてもらえば、それが必要か否かにまで遡って議論したい気もする。
「公平性」の確保のためにそれを実施していると、文科省は言いたいのだろうが。
私の印象によれば、共通テスト制度とは要するに“受験生皆の偏差値を基に進学先の大学を振り分ける制度” と表現する方が正しいと言うべきだろう。
とにかく今の受験を巡る環境は「偏差値第一義主義時代」に移ろいでしまって久しい。
それに受験者本人も小中校の受験生を送り出す組織も、そして親も受験生本人も皆が踊らされてしまっている茶番劇時代であろう。
もしも時代が遠い昔の私の大学受験時のごとく、“自分が目指したい大学のみの受験”で済ませられるのならば。
コロナ禍と大騒ぎせずとて、比較的簡単に本人が目指す大学のみを受験して済んだのではなかろうか。
そのように考察すると。
たとえ世がコロナ禍一色に染まっていようが、大地震が到来しようが、大学受験はもっとシンプルに執り行える気もするのだが。