原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

「シュレディンガーの猫」展、行きたかったなあ…

2018年02月24日 | 学問・研究
 (写真は、先だって旅をした箱根ラリック美術館内に置かれていた美術展パンフレットを持ち帰り転載したもの。)


 上記美術展のパンフレットを一見して、私は「シュレディンガーの猫」のタイトルに惹きつけられた。
 何故ならば、2度目の大学・大学院(「経営法学修士」を取得した)時代に、本来の専門である経営法学以外に一番没頭したのが「科学哲学」であるからだ。
 専門必修科目ではなかったが、教職選択科目として選択可能だったため積極的に履修した。
 
 その「科学哲学」の授業の中で特に思い入れがあったのが「プラトンのイデア論」、そして「量子力学的実在論」だった。 (「プラトンのイデア論」に関しては、後にこの世に生まれ出た我が娘の命名に引用し、その娘を伴ってギリシャ・アテネ(アテナイ)までアカデメイア見学旅行にも出かけた。)


 さて、そんな私が当「原左都子エッセイ集」開設直後期の2007.11.15に「量子力学的実在論の特異性」と題するエッセイを綴り公開している。

 早速、そのエッセイ全文を以下に再度掲載させていただこう。

 古典物理学の世界の中では、我々は世界を割り切って見ることに慣れてしまっている。何事であれ存在するか存在しないかのどちらかだと我々は思い込んでいる。ところが、量子力学の世界では物事の存在の解釈はそう単純ではない。
 「シュレーディンガーの猫」という有名な実験仮説がある。箱の中に毒ガス装置をつけておく。この装置から毒ガスが出るか出ないかはランダムな事態によって決まる。この装置の中に猫を入れる。毒ガスが出れば猫は死に、出なければ猫は生きているという状況が作られている。 
 古典力学によれば、箱を覗いたときに猫が死んでいるか生きているかのどちらかでしかなく、観測者がそれを確認すればよいだけの話である。
 一方、量子力学によると事はそう単純ではない。観測するまでに猫が死んでいる確率と生きている確率は共に50%であり、どっちつかずの状態であるはずだ。ところが観測者が観測したとたんに死んでいるか生きているかのどちらかになってしまう。これを“波束の収縮”と呼ぶ。
 量子力学では、何をもって観測というのかが問題となる。すなわち、どのプロセスで突然ジャンプしこの“波束の収縮”が起こるのかが議論の対象となる。 フォン・ノイマンは“波束の収縮”がどこで起ころうが結果は変わらず、何を観測とみてもよいことを数学的に証明した。 これに対し、観測は「意識」される時におかれると解釈する研究者は多い。この考え方には難点がある。それは「意識」が物理的に記述できないことである。 第一に、いったい誰の「意識」なのかが問題となる。予定調和、すなわち神が元々世界をつじつまが合うように組み立てているという思想を持ち出す手もあるが、科学的にはナンセンスである。 最初の観測者の意識とすることもできるが、特殊相対性理論の「同時相対性」の考えでは複数の観測者のどちらが先であるかは相対的であり、決定できない。 第二に、「意識」を常に持っているのかについても疑わしい。“私”に「意識」があるとしても、これを“他人”に拡張できるのか、“動物”に拡張できるのかという問題点がある。シュレーディンガーの猫の場合、当該猫に「意識」を持たせることが可能であるならば最初に観測するのは当該猫であるため、この猫が“波束の収縮”をもたらすと結論付けることができる。ただ、これもナンセンスな考え方である。結果として観測に「意識」の概念を持ち出すことは問題が多いと言わざるを得ない。
 そもそもこの“波束の収縮”は起こらないと考えるのが「多世界説」である。この説では、観測とは“観測者の分岐”であるとする。すなわち、観測者が生きている猫を観測した状態と死んでいる猫を観測した状態に分岐する、と考える。経験的には観測者はひとりしかいないため常識からかけ離れた奇妙な説ではあるが、この説によると「意識」を持ち出す必要がないため、量子力学内で解決可能である。「多世界説」によれば存在するものすべてが量子力学で説明できるが、欠点は世界(分岐)が無数に増えてしまうことであり、シリアス性を欠いているという批判もある。
 「シュレーディンガーの猫」の実験仮説を元に、量子力学的実在についてほんの少しだけ考察してきた。ここで紹介しなかった他学説もまだまだたくさん存在する。 
 古典力学は、ただひとつの世界、あるがままの世界が存在していることを我々に教えてくれたが、量子力学はそれだけではない可能性を考慮する余地を我々に与えてくれる。合理的思考の限界を超えている量子力学的実在の世界に私は昔からはまっている。今回は、その一端を語らせていただいた。
 (以上、「原左都子エッセイ集」開設当初期の学問・研究カテゴリーエッセイを引用したもの。)

 今となっては当時の記憶がやや薄れているが、それでもこの学問に励んだ事実が今現在の我が思考回路や人生観を作り上げている感覚には揺るぎないものがある。


 さて、冒頭写真の「シュレディンガーの猫」美術展に話題を移そう。

 東京・上野の「東京都美術館」にて現在まさに開催中。 しかも、入場無料!
 当該美術館へは幾度も訪れている。 自宅から電車で気軽に行ける場所だ。
 昨日までは、行こう!と考えていた。 ただ、ここのところハードスケジュール続きで多少体調を崩している。
 もう少し開催期間が長ければ少し先にでも行けたが、残念だが今回は見送る事にした。

 その代わりと言っては何だが、この美術展のコンセプトが素晴らしいため、以下にパンフレットよりその一部を引用して紹介させていただこう。
 美術展開催キュレーターは、京都造形美術大学大学院芸術研究科教授の片岡真実氏。

 いま、芸術大学の危機が叫ばれている。 いや、芸術大学どころか、大学教育全体の危機と呼べるかもしれない。 私立大学の約4割が定員を充足できておらず、芸術大学でも同様だ。 それはつまり、大学で学ぶことの意義、芸術を大学で学ぶ意義が社会から問われていると言って過言でない。
 不確実性を帯びる現代世界に巣立って行く芸術大学学生達が高次の意識を備え、複数の価値感が共生する社会と向き合っていってこそ、その社会的役割を果たすことが出来るといえよう。 ところが、多くの芸術大学の卒業制作展では、学生の個人的な興味・関心の中から生まれる、一方的なメッセージの提案に留まった作品ばかりが溢れているのが現状だ。
 当美術展ではそうした現状を踏まえて、改めて芸術教育およびその成果である卒業・修了制作展のあり方を問い直し、本展覧会を企画した。
 本展では、「シュレディンガーの猫」論の中におけるアルファ粒子発生のような“多層的で不確実な曖昧さ”を、現代世界の社会、経済、政治、文化あるいは歴史観などにおける複層性、不確実の隠喩として捉えている。 そのような主旨から、最終系形としての成果物のみを展示するのではなく、複層的なリサーチのプロセスを重視し、作家の思考のプロセスを展示物に昇華させることを目指している。
 (以上、「シュレディンガーの猫」展パンフレットより当該展覧会のコンセプトを紹介した。)


 最後に、原左都子の私事と私論でまとめよう。

 我が娘が高2の2月まで美大受験を目指し、夜間は美大予備校に通いつつ精進してきた歴史がある。(結果としては美大予備校のデッサンにつまずき美大受験をギブアップし、大幅に進路変更して現在に至っているのだが…
 そのため娘中3時より娘に付き添い、首都圏に位置する複数の芸術大学のオープンキャンパスに足繁く通ったサリバンの私だ。
 一大学に付き年間3度程度、総数にしておそらく4,50回程芸術大学のオープンキャンパスに通った計算となろう。

 その間、現場の学生達や講師先生と語り合わせて頂いたこともある。
 素晴らしいポリシーの下に作品制作に励む学生氏とも出会った。
 あるいは、「子どもを美大などに入れて、将来どうやって食っていかせる気なのか?」なる、究極正直なご意見を私にぶつける教官氏も存在した。
 (両者共に、本エッセイ集バックナンバーにて公開済。 後者の教官とのやりとり現場では、“それ程馬鹿な親ではないつもりだ”なる我が反論意見も正直に申し上げ、長々と議論させていだだいた記憶がある。)

 確かに不確実性が究極に高まった現代世界に於いて、芸術大学とは最高の“不確実性”を抱えた教育現場であるのかもしれない。
 そんな環境下で、果たして学生達は如何なる複層的なアプローチをしつつ、自身の作品を展示物として昇華させたのか。
 やはり現地で実際に拝見して、そして学生達に直に質問して確認したかったものだが… 

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