原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

ホテルは契約締結を“拒否”するべきだった

2009年08月05日 | 時事論評
 この事件、私が一番解せないのは、当初プリンスホテル側は何故に日教組の教研集会の会場として契約締結をしてしまったのか、という点である。

 ホテル業界の雄であるプリンスホテルと“日教組”との組み合わせは、一般人の私が考慮しても“ちぐはぐさ”が否めない。 何故に日教組は“プリンスホテル”で教研集会を開催する必然性があったのか、今なお首を傾げる。
 プリンスホテル側も何もあえて危険を犯さずとて、他の宿泊客に及ぶであろう迷惑の回避を最優先して、当初より契約締結を断固として拒否し“我関せず”で済ませておけばこんな大騒動に巻き込まれずに済んだであろうし、巨大な損失を計上したり、日教組関係者や一部マスメディアからの非難の標的にならずに済んだであろうに。 天下の一流ホテルが、一旦締結した大規模契約を解約するのは相手が日教組でなくとて困難でもあろうに。
 それとも契約当初より、教研集会の契約締結に関して日教組側あるいはその周辺組織から何らかの“圧力”でもあったのか???


 プリンスホテルが日教組(日本教職員組合)の教研集会への会場使用を拒否した問題をめぐる訴訟で、東京地裁は7月28日、日教組側の請求をすべて認め、プリンスホテル側に巨額の賠償金の支払いと謝罪広告の新聞各紙への掲載を命じる判決を言い渡した。
 08年2月に開催の日教組の教研集会の会場としてプリンスホテルが07年10月に契約締結後、同年11月にホテル側が「右翼の街宣などで周囲に迷惑がかかる」として解約を主張し使用を拒否した。 日教組側はホテル使用を認める仮処分を求めたところ、東京高裁は使用予定日の2日前にホテル側の抗告を棄却する決定をしたものの、ホテルは拒否を続けた。このため歴史的に初めて日教組の全体集会が中止される成り行きとなった。 今回の判決で東京高裁は、プリンスホテル側が決定に従わなかったことの違法性は著しいと厳しく非難し、「参加者が集会に参加することは法律上守られる権利だ」としたものである。
(以上、朝日新聞7月29日一面記事より要約引用)

 この判決に対し、同日の朝日新聞社説においてもプリンスホテル側を非難する見解が展開されている。その社説の一部を抜粋要約して以下に紹介しよう。
 右翼の宣伝活動などがあれば宿泊客や周辺の迷惑になるとして契約を一方的に破棄したプリンスホテルに対して、裁判所はきちんと警備すれば大丈夫だという日教組の訴えを認めて会場を使用させるよう命令したが、ホテル側はこれも拒否した。右翼の街宣活動は教研集会のたびに行われてきた。集会を妨害するだけでなく、会場を貸す側にも圧力をかけ開催できなくさせよう意図があったと考えるのが自然であり、それにホテルが屈してしまった。 ホテルが迷惑がる気持ちも分からないではない。ホテル周辺の中学校長からは、おかげで入試が円滑にできたと感謝する手紙がホテルに寄せられたという。 ただ、圧力に屈して自由が引っ込むようなことが続くと、今の日本は自由に集い自由にものを言える社会なのか疑問に思えてくる。


 再び私論を展開しよう。

 やはり、プリンスホテルは“当初より”日教組集会の会場としての契約を締結するべきではなかった。

 日教組集会に右翼の街宣車がつきものであることは既存の事実であるのに、何故にその種の迷惑行為を回避できない集会を開催する会場として、不特定多数の一般人が使用するホテルが選択されねばならないのか、どうしても私は不可解である。しかも今回の場合、世に名高いプリンスホテルである。

 日教組の集会自体は自由に行えばよいのだが、如何なる集会であっても周辺社会に迷惑のかからない配慮は不可欠であろう。 何も世に名高いホテルで全国集会を行わずとも、会場候補は他にもいくらでもあったはずだ。 少なくとも教研集会会場と日教組組合員との宿泊場所を別立てとして、組合員の宿泊場所を分散させる等の措置を取り、なるべく目立たぬような集会にすることで右翼街宣車の集結を最小限に抑え、周囲の迷惑を回避することは可能であろう。

 今年の広島市での教研集会では、警察の取締りにより右翼街宣車の集結を小規模に抑えることが出来たとのことであるが、この警察の動員とて国の財政から賄われる、すなわち国民の血税等から支出されている事実を日教組組合員は認識できているのであろうか。


 もちろん、如何なる集会であれ“朝日新聞社説が仰せの通り”自由に行われるべきであることは今の時代においては自明の理であり、皆が自由にものを言える社会であって欲しいことに関しては国民誰しも異論はないことであろう。
 ただし、その集会を開く事により周辺社会に迷惑がかかるという事態は、その迷惑が自発的ではないとはいえ、主催団体は回避する手段を講じるべきであることに関しても常識の範囲内ではないのだろうか。

 この国において日教組組合員のみが特権階級であるはずもない。
 自分達が所属する集団が今現在、教育を取り巻く社会においてどれ程の貢献を成し得ているのかにつき客観的に分析判断した上で、集団としての良識的行動をとって欲しいものである。
 どうか、子どもの未来を担う教育を担当している教員の一部が組織する日教組集会が、今後はなるべく目立たぬ場所で開催されることにより、周辺社会への迷惑や国家財政の浪費を最小限に留めるべく配慮された上でなされることを、一庶民としては希望したいものである。
      
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「正社員」は結婚の条件だよ

2009年08月02日 | 仕事・就職
 朝日新聞「声」欄投書者男性には申し訳ないが、「正社員」が結婚の条件、のニュアンスに私も同意するのである。

 7月30日(木)朝日新聞「声」欄に掲載された30歳「派遣社員」男性の投書 “えっ「正社員」が結婚の条件!?” を、早速以下に紹介しよう。
 先日会社の先輩から、結婚を考えている知り合いの看護師の女性を紹介され、ありがたいお話だったため会う意思があることを伝えた。 ところが、その女性は「その人は正社員?」とたずねたそうだ。(その女性が)望む人物として、自分と同じだけの収入があって正社員であることは絶対条件との回答だったそうだ。また、出産と子育てを考えると少なくとも2年間は専業主婦として生活していく考えで、その間、今の収支レベルを維持できる収入がないと結婚は考えられない、との返事だった。それを聞いて半ば納得しつつも愕然とした。今は男性、女性共能力や仕事の有無も多様な時代だ。生活資金が必要であれば貯金や節約をしてやり繰りすればいい。男女共同参画社会がいわれる時代に、いささか柔軟性を欠くのではないか。(以上、朝日新聞「声」欄より要約引用)


 早速私論に入ろう。

 この投書者の男性は、今流行(はや)りの“草食系”という奴か??
 何たる考えの甘さ、と呆れるばかりで、この男性の結婚の意図こそが摑めない。

 それに対してこの投書内の看護師の女性は、決して相手に対して“高望み”している訳でなく、自分の背丈で理路整然と子育て期間まで計算の上で結婚後の将来像が描けている。 まるで私の独身時代の考え方と瓜二つであり、将来に渡る自立心が人格的背景に確固としてあることが伺える。恐らくこの女性は、結婚しようがしまいが充実した人生を送れる能力を既に備えているのであろう。

 そもそも、恋愛結婚ではなく見合い結婚を自ら好んで選択する女性とは、結婚後の生活に関するポリシーがある程度出来上がっていて、それに相応する条件の持ち主を選抜したいが故に、あえて“お見合い”という手段を選択していると、私自身の経験からも考えるのだ。 (いや、中には自分の能力不相応に高望みして“玉の輿”を狙う女性もいるのかもしれないが、私の周囲を見渡しても“玉の輿”とは結婚後の苦労が大きく概して幸せになれないもののようだ。)

 私の場合も投書の看護師氏と同様の考えだった。 そもそも結婚願望自体が大してなかった私は、もしも結婚する場合でも、それまで自分が築き上げてきた生活レベルを下げてまでもしようとはさらさら思っていなかった。 加えて自分自身の生活パターンを結婚により大幅に変更する気もなかったため、見合いにおいて、それ相応の条件を提示したものである。

 投書者男性には大変失礼で申し訳ない話だが、特に今のこの不況の時代において「派遣社員」とは相当“劣悪”なお見合い条件ではなかろうか? 明日は亭主の仕事はないものと腹をくくれる勇気ある女性のみしか、そのお見合い条件は受け入れられないであろう。
 「派遣社員」男性さん、今の身分のままで結婚したいのなら、恋愛結婚にした方が将来性があるのかと思うのだけど…。

 
 そもそも、見合いで“条件のよい”女性をゲットしようとは、なんという軟弱さであろうか。 今時の若い男性とはそういう選択をしたがる人種が増えているのだろうか?
 しかも、ここで“男女共同参画”概念を持ち出すのは、ルール違反だぞ。
 今の時代、もちろん“専業主夫”も存在してよいのだが、“産む性”はどうしても女性なのである。これは永遠普遍の事実である。 生んだ子の育児を夫が担当するにしても、産むための体のダメージ等を考慮した場合、女性は一定期間どうしても仕事を中断せざるを得ない。その間の万全なフォロー体制を夫である男性が作り出してくれないことには、安心して出産など出来やしない。 この男性の投書を読んだ限りでは自分の利益ばかりが優先されているように思え、出産に際するフォロー能力があるのかどうか疑問である。
 また、投書者は生活資金が必要ならば貯金や節約をしてやり繰りすればいい、と言うのだが、結婚前から何やら“貧乏臭い”発想であるし、それ以前の問題として、この男性に貯蓄能力や節約能力があるのかどうかも疑わしい。 子育て期間中も収支レベルを維持したいとする看護師女性の考えの方ががよほど建設的に思える。こういう人物こそが、貯蓄や節約能力もあると私は見る。


 表題の“「正社員」は結婚の条件…” の表現は少し語弊があろうが、私が言いたいのは、結婚とは双方の“自立心”や“責任感”が伴っていないことには成立し得えず、たとえ成婚に至ったとしても長続きしないのではないか、ということだ。その“自立心”や“責任感”の一環として、収入源の安定性は欠かせない要素であろう。
 ましてや結婚後子どもを設けるとなると、親である夫婦が責任を持って家計の収支レベルを維持し続けないことには、ゆくゆく子どもの授業料さえ支払えない事態となるやもしれないのだ。

 結婚前の若者に提言したいのだが、如何なる結婚においても収入源の安定性は絶対条件である。 男女共に他力本願ではない収入源を確保できる“自立心”や“責任感”をある程度築いた上で、結婚に臨んで欲しいものである。
     
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