8月1日(土)朝日新聞夕刊 “Say! Yes! No!”のコーナーの今回のテーマは「通知表の絶対評価に賛成?」と題して、その Yes No 解答を読者に問うものであった。
いきなり極論であるが、小学校に絞って考察すると、絶対評価、相対評価云々…以前の問題として “「通知表」自体が不必要” と考えるのが私論である。
と言うのも、我が家の場合多少の特殊事情があるためとも言える。
我が子の教育に関しては、子どもを公教育に通わせる傍ら、3歳時より中2の途中頃まで、学習面を含め教育全般を母である私が“お抱え家庭教師”として指導を担当し、その到達度も詳細に把握し続けてきているためである。
学校から子どもが持ち帰る「通知表」に関しては、義務教育の期間は保護者欄にコメントを記載せねばならない事情もあるため、もちろん一見はするのだが、我が家にとってはそれは参考程度の位置づけでしかなかったものである。
子ども本人にしてみれば、絶対評価であれ相対評価であれ、通知表の評価が良いのがうれしいに決まっている様子で、良い評価が記載されていると単純に喜んでいたようだ。 そんな幼心を尊重してやりつつ、個人指導担当の母(私のことだが)としては必ず通知表に書かれている各方面の評価に注釈や異論を述べつつ、その学期の我が子の学習到達度等を母子二人で話し合う時間を設け、今後の学習への取り組みにつき親子で合意を図ってきている。
そういう意味では、我が家の場合学校から渡される「通知表」を“有効利用”しているとも言えるのだが、特段それがなくとも差し支えはなかったというのが本音である。
通知表に関して困惑するのは、学業成績はともかく、担任の一方的なコメントの書き込みである。
我が子の場合は、持ち前の素直さ温順さ等の性質が幸いしていたためか、あるいは現在の公教育においては“プラス評価”が基本とされているためか、今までのところ、担任教員の“主観”が露出したようなコメントの記載はなく保護者としては“命拾い”している。(なぜ“命拾い”なのかと言うと、そういう類の主観的コメントが記載された場合、保護者としてはその後の担任教員対応に困惑させられるためである。)
私自身の通知表をこの機会に振り返ってみると、この私も一応当時は周囲には迷惑にならない子どもだったため、我が親など私が学校から通知表を持ち帰ることをいつも楽しみにしていた様子である。
一方で私本人は、担任による主観的コメント記載ばかりが今尚脳裏に刻みつけられている。 私もよくまあ、そんなことまで憶えているものだと自分ながら“根に持つタイプ”を実感なのだが、担任の「通知表」のコメントとは幼心にトラウマとして残り得ることを痛感させられるのである。
例えば、小学1年生の通知表に担任からの私の“鼻水”に関する記載があった。その担任の記載によると、「授業中に鼻水をたらすのは“だらしない”ので、たらさないように家庭で指導しなさい」とあったのだ。 (健気に頑張る小学生になったばかりの私には、このコメントは幼心に実に辛かったものである…)
この通知表の記載を心にトラウマとして持ち続けていた私は、医学関係の知識を得た後々、この担任に対しその無知さ加減に大いなる不信感を抱いたものである。 (後で考察すればの話だが)私には幼い頃から“鼻アレルギー”の症状があったことは事実であるが、この症状は本人自身が息苦しくて一番辛いのである。ところが当時の学校と言えば、授業中に「ちーん!」と紙で鼻水をかむと、教員から「静かにしなさい!行儀が悪い!」と叱咤される時代である。 それ故に、息苦しいのを耐え忍んで鼻水をたらさざるを得ないのだ。 しかも小1の私とて、鼻水をたらすのは我がプライドに反する感覚はその時既にあった。
私が小学1年生だった当時は、この日本もまだまだ戦後復興期で後進国から這い上がろうとしていた頃で、特に教育においては至って未熟な時代だったとも言える。 それにしても、担任の一時の安直な感想を「通知表」に書いて保護者までをも指導しようとする教員の“独裁”ぶりに、私は当時から既に反発心を抱いていたとも言えるのだ。
現在に至っては、公教育現場においても学校指定の健診医を配備する等、専門役割分担を図っている様子で一応は安心している。 (この現状に関しても、元医学関係者である私に言わせてもらうと、素人である親子にやたらと医療機関受診をあおる等の落とし穴があると判断するのだが、また別の機会に論評することにしよう。)
話が横道にずれたが、ここで私論をまとめよう。
公教育において担任教員が「通知表」を作成する手間と時間を、保護者との「個人面談」にもっと費やしては如何であろうか?
実はこの私は、我が子が公立小学校在学中より子どもの担任の先生に個人的に「個人面談」を申し出てその機会を設けてもらうことが何度かあった。 もちろん、これを拒否する担任も一部ではあるが存在した。 だが、一保護者の要望に沿って時間を割いてこの「個人面談」を受け入れて下さった担任の下で、我が子が大きく羽ばたけたことも事実なのである。 それは何故かというと、担任である教員と保護者(私のことだが)の信頼関係がこの面談により多少なりとも築け、我が子の教育に関する両者の合意が得られたからに他ならない。
そういう面談をむしろ苦手とする保護者が今や大多数であり、また、教員側も保護者との接触の鬱陶しさを回避したい時代へと急激に突入しているのであろうか??
とにもかくにも、生身の人間同士の“対話”を好まない人種が増殖している時代の到来を実感させられる今日この頃ではある。
それにしても学校の教員とて、今の時代の保護者達がどの程度見ているのかもしれない「通知表」の記載を、自らが一度も会話したこともなくその特質を十分に把握し得てもいないクラスの生徒も存在する中で、その一人ひとりの生徒に対してその場を取り繕うことのみを目的に「通知表」の作成を行うのは虚しいだけなのではなかろうか?
それよりも、せめて毎学期末に子どもも含めた三者面談を実施して、教員と保護者が一気に双方向で思う存分の話し合いを持つことにより、学校と家庭双方で子どもの成長の評価を述べ合うのが理想ではないかと、私など本気で考えているのだが。