原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

テンションが低くて何が悪い?!?

2013年06月17日 | その他オピニオン
 今回の話題は、平日昼間放送されている NHK総合テレビ番組 「連続クイズホールドオン」 をご覧になっていない方には、特に前半部分が分かりにくい内容であることを最初にお詫びしておく。


 実は原左都子は、そのNHK「連続クイズホールドオン」を本日(6月17日)時点で7連勝中のチャンピオン 鈴木由佳里さんのファンなのだ。  挑戦者として出場された第1回目より一ファンとして勝手に応援させていただいている。

 鈴木由佳里さんの何がいい、って、この方、素晴らしいまでに“テンションが低い”のである。

 そもそもこの番組、NHK近年の番組作り傾向の例外ではなく民放バラエティ番組模倣で“やかましく鬱陶しい”。 
 クイズ番組好きの私だが、クイズに特化してもっと落ち着いた雰囲気で淡々と放送できないものかとその煩さに嫌気がさしつつ、それでもクイズに回答したいがために我慢して見ている。 特に番組前半の挑戦者紹介場面が鬱陶しい。 出演者本人のみならず会場に来ている家族にまでインタビューするのだが、真にクイズ好きな人種としてはそんなものどうでもよく出来れば割愛して欲しい思いだ。
 (個人情報保護法上も如何かと懸念するのだが、その辺をNHKはどのように捉えているのだろうか?  実はこの原左都子も「ホールドオン」出場を狙った時期があるのだが、個人情報をあれ程までに露出する訳にはいかないと判断し、オーディション参加を断念している。)

 そんな中、鈴木由佳里さんは初回挑戦者として登場時点よりテンションが低かった。
 ハンドメイドがご趣味とのことで、2人の女の子のお母上としてお嬢さん達の洋服をいつも手作りされているようだ。 そのお嬢さん2人も一度画面に登場したのだが、お母さんソックリの風貌で私の目には何とも愛らしかった。
 司会者よりの問いかけにもテンション低く応えているうち、4名の出場者中鈴木さんが最高得点を上げてその日のチャンピオン挑戦者と相成った。  それまでのチャンピオン男性も“ストレート勝負”連発で既に6連勝となかなかの強豪との印象だったのに、鈴木さんはこの男性を難なく打ち破った。
 (参考のため、何でこいつがチャンピオンを勝ち取れたの?とのウンザリ印象の出場者も数多い等々、そもそもさほどレベルが高くないクイズ番組である。 4肢選択回答により出場者個々のクイズ回答能力の程が読める番組でもある。 特にチャンピオンたる者は原則として“ストレート”回答で直球勝負するべきだし、そうでないと番組がちっとも面白くないとの印象もある。)

 鈴木さんに話を戻すと、持ち前の“テンションが低い”キャラにして、結構ストレート勝負をかけてくるのだ。  これも私が鈴木さんを贔屓する大きな理由である。 しかも鈴木さんの場合、4肢選択の回答も的を射ている。 要するに「クイズ実力派」と私はみる! 
 本日の司会者山口智充氏からの「クイズは得意ですか?」との問いかけに、「クイズ番組は好きですが、出場したのは今回が初めてですので得意かどうかは分かりません…」とこれまたテンション低くショボショボと応えた姿に、更なる好感を抱いた私だ。

 鈴木由佳里さんの一ファンとして今後共応援していますから、どうか連勝を続けられますように!!


 さてさて、今回の我がエッセイテーマである「テンションが低くて何が悪い?!」の本題に入ろう。

 上記テレビ番組「連続クイズホールドオン」に関して今一度分析してみよう。
 この番組はクイズ番組との形態を採ってはいるが、そもそもそのコンセプトとは庶民の誰もが親しめるバラエティ色を濃厚に打ち出している番組である事には間違いない。 故に司会者として山口智充氏を採用しているとも考えられる。
 そのコンセプトに従うと出場者は出場が叶ったからには“テンション高く”振舞うべき、との命題を背負わされる事態となろう。 それが証拠に、冒頭から「出場者の皆さん、今日もお元気です!!」などとのアナウンサー氏の決まり文句で日々番組が始まる。 
 たかが一テレビ番組が出場者に“テンションの高さ”を期待しているとして、その事自体に一般視聴者からクレームを付けられるはずもなかろう。 ところがこの番組は一般視聴者からのエントリーにより成り立っている事を、NHKは勘案するべきではなかろうか。
 
 そんな中、上記鈴木由佳里さんのごとく“テンションが低い”キャラの出場者がチャンピオンを続けている事を、現在NHKは如何に解釈しているのであろうか?
 もしも番組の趣旨に反して“テンションが低い”鈴木さんを切り落とす目的で、今後無理難題を鈴木さんに出題したならば私は断固として抗議するつもりだ。

 と言うのも、過去に於いてそういう前例が幾度かあったと私は観察しているのだ。 連勝し続けているチャンピオンを切り落とすがごとく、いつものクイズと比較してどう考慮しても無理難題を吹きかけている設問に出会う事を度々経験している。 
 事実上公共放送であるNHKの思惑は理解できるものの、たかが昼間の番組と言えども視聴者の好みとはおそらくNHKの思惑よりもずっと幅が広く個性に満ち溢れている現実を、今一度視野に入れるべきではなかろうか。


 最後に、原左都子の私論で締めくくろう。

 メディアではない現実世界に思いを馳せても、現在の社会とは「テンションの高さ」を求め過ぎている歪んだ思想に出くわす機会が数多い。

 「テンションの高さ」  イコール  「社会の上位ゲット」
 なるくだらないスタンスの下に、現在も都議会選挙の選挙カーが我が住居の周囲にも煩くも鬱陶しく繰り出している始末だ。

 これとて、テンション高く大騒ぎすればなびく庶民がいるとの論理で世を騒がせているだけの話だ。
 選挙カーが大音量で撒き散らす騒音とは、「庶民連中とはどうせ馬鹿どもばかりだから、拡声器を使用して大声で何かを言っている政治家に票を入れるだろうしね~。 なんせ庶民から票をもらわない事には当選出来ないし、我々も大変なのよ~~。 分かっているの!あんた達???」 
 原左都子の耳には、残念ながらそうとしか聞こえて来ないのだが……

 社会に生きる庶民の皆さん、 「クイズホールドオン」6連勝中の“テンションの低い”鈴木由佳里さんをお手本にして、少しテンションを下げようではありませんか。

 真の実力を育めてこそ、この世を勝ち抜ける事を今一度見つめ直すためにも。

トルコ反政府デモの行方を暖かく見守りたい

2013年06月13日 | 時事論評
 アジア、ヨーロッパ、そして中近東と接し、イスラム国でありながら独特の文化を醸し出している国 トルコ で反政府デモが勃発したとのニュースを見聞したのは、先週の事である。

 折りしも、ちょうど知人より9月下旬出発のトルコ・イスタンブールへの旅行に誘われた直後の事だった。
 昼間テレビニュースを見聞していると、まさにそのイスタンブールでのデモ影像が映し出された。 
 「えーー! 9月にイスタンブールへ行く予定なのに!」などとついつい大声を上げてしまった私に身内が応えて曰く、
 「初めて聞いたけど、そんな予定があるの?」

 バレてしまえば仕方がない。
 開き直って事の成り行きを話すと、身内曰く「トルコは観光名所も多いし食べ物も美味しいから行って楽しんでくればいいが、このデモいつまで続くだろうかねえ?」  応えて私曰く、「トルコとて2020年五輪開催に向けてその誘致に精力的であろうから、国民が一致団結するべく短期間でデモは決着するんじゃないかな?」  身内返して「それは考えが甘い。 今回のトルコのデモは、イスラム色の強いエルドアン政権に対する反政府デモとの色彩が強い故に、国民の間には多大な反発がある。 事はそう容易ではない。」


 ここで話を変え原左都子の私論に移るが、私は2020年東京五輪開催反対派である。

 そもそも東京都前知事である石原慎太郎氏が“自己顕示欲の塊”のような人物であったばかりに、東京での五輪開催誘致話が持ち上がったと私は捉えている。 2011年3月に東日本大震災との世界の歴史上類を見ない大規模災害が発生した直後にも、まだ性懲りも無く五輪開催を声高に叫ぶ石原氏には辟易とさせられるばかりだった。
 そんなに東京都の財政が潤っているのならば、その剰余財源を今こそ大震災復興費に当てるべきである。 あるいは都税の見直しを行い、都民の生活こそを補償するべきだ。 であるはずなのに前石原知事はその後も相変わらず我が物顔に振る舞い、都剰余金を“五輪ビジネス”に注ぎ込み、更に剰余金を増やそうとの(私に言わせてもらうと)ギャンブルとも言える“自己野心追究”に走った。 
 都知事が猪瀬氏に代わっても、前石原知事の意向を受け継いでこそ当選が叶った猪瀬氏がこの意向を受け継がないはずもない。 何ともまあ、「イスラム教圏は喧嘩ばかりしている」との信じ難いコメントが世界中でバッシングされた事件は皆さんも記憶に新しい事であろう。

 さすがに世界中からのバッシングで相当痛い思いをしたのか、その後五輪誘致に関して口を閉ざし続けている猪瀬知事である。
 原左都子としては、誰が考察しても浅はかな発言を深い思慮もなく世界に向けて発信した愚かな猪瀬都知事の東京五輪誘致こそを、何が何でも阻止したい思いが増強させられたのだ。

 2020年五輪誘致の最大のライバル都市であるトルコ・イスタンブールで反政府デモが勃発した事に関して、おそらく東京都猪瀬知事は心底“たなぼた”感覚で内心“ヒッヒッ”とほくそ笑んでいる事だろう。

 原左都子としてはこれこそが許し難い。 だからこそ、トルコ・イスタンブールで2020年にはイスラム教国に於いて初の五輪を開催して欲しいのだ!
 既に五輪を3度も開催している我が国が五輪誘致に向けて動く事自体を自粛するべきだ。 今後どうしても我が国で五輪を開催したい場合は、原爆被害県である広島・長崎、あるいは東日本大震災により壊滅的被害を受けた東北地方での開催を、日本国家を挙げて支援する事に期待したい。 


 さてさて、話をトルコ反政府デモに戻そう。

 ウィキペディア情報によると、トルコは1923年にアンカラ政権が共和制を宣言。 翌1934年にオスマン王家のカリフをイスタンブールから追放して、西洋化による近代化を目指すイスラム世界初の世俗主義国家トルコ共和国を建国した、との事だ。
 第二次世界大戦後、ソ連に南接するトルコは反共の防波堤として西側世界に迎えられ、NATO、OECDに加盟。トルコはイスラムの復活を望む人々などの国内の反体制的な勢力を強権的に政治から排除しつつ、西洋化を邁進してきた。 1982年に定められた現行のトルコ憲法では、世俗主義が標榜され三権はほとんど完全に分立している。 ところが西欧化を押し進めてきたトルコでは、政治や経済の混乱に対してしばしば軍によるクーデターが起こった。 
 その後、2010年には、与党が提起した憲法改定案の是非を問う国民投票が実施された。憲法改定案は民主主義を求める国民の声や欧州連合(EU)加盟の条件整備などを踏まえ、司法や軍の政治介入を押さえ、国会や大統領の権限を強めることなどを提起している。国民投票の結果、憲法改正案は58% の支持で承認された。 エルドアン首相は民主主義の勝利だと宣言。欧米諸国もこの改憲国民投票結果を歓迎している。欧州連合(EU) の執行機関欧州委員会は、トルコのEU加盟に向けての一歩だと讃えた。
 (以上、トルコに関するウィキペディア情報の一部を引用)


 ところが上記のごとく、そのエルドアン首相の政治体質に於ける「イスラム色」がここにきて強くなってきたとのことだ。
 5月下旬には、与党が国会に提出した酒類の販売規制強化の法案が可決されたばかりで世俗派の不満が高まっていた、との報道もある。


 原左都子の私事に移るが、私がペンネーム「原左都子」名で登録しているFACEBOOKにも何故かトルコの若き男性達から友達申請を頂戴している。
 一体如何なるルートで「原左都子」を探し当てたのかに関しては不明のままだし、彼らに英語で通信しようと試みても「トルコ語でお願いしたい」との手短な英文返答のため、言語による通信は不能状態だ。 それでも、FACEBOOK 画面で公開されている彼らの画像を拝見すると実にカッコイイ若者達であるし、実生活をエンジョイされている風景が垣間見れて興味深くもある。
 彼らが住んでいる地はトルコでも東部に位置しているようで、おそらく私が9月にイスタンブールを訪問する事になっても実際に面会できる機会などないであろう。 それでも私はFACEBOOKとの媒体を通じて、一時トルコに住む彼らに見果てぬ地の興味を煽られたことには間違いない。


 最後に私論に入ろう。

 現在トルコに於いて反政府デモに参加している若手民衆達の思想とは、過去にトルコ政権が築き上げてきた西洋化政策(すなわち民主化政策)を、現エルドアン首相がイスラム教主義に後戻りさせようと目論んでいる事態に、断固として闘っている闘争と理解した。

 当初私としては、2020年東京五輪開催誘致を阻止したい思想と、9月にはイスタンブールを訪れたい希望等々、恥ずかしいまでの我が身息災視線でトルコ反政府デモが短期間で終結する事をメディアを通して観察して来た。
 
 ところが、我が思いは大幅に変化した。
 そんな一外国人の身勝手な思惑よりも、トルコ市民達よ、未来に渡る民主生活をエルドアン政権より是非共勝ち取って欲しい思いだ! 

「プリンセス雅子さま」論

2013年06月10日 | 時事論評
 一般庶民が皇室に関する身勝手な論評を公開する事など、この上ない「タブー」と心得つつ、今回は勇気を持って現在皇太子妃である雅子さまに関する私論エッセイを展開させていただこう。


 実は私は雅子さまが皇太子とご結婚される以前より、雅子さま(当時は未だ“小和田雅子さん”でおられたが)に少なからぬ興味を抱いていた。

 何分、一女性にして類稀な経歴をお持ちのスーパーレディであられる方だ。 そのご経歴の一部を以下にウィキペディアより引用しよう。
 1963年に外務省職員小和田氏ご夫妻の長女として東京都で誕生した後、父の仕事の関係で幼少期をソビエト連邦・スイス連邦で過ごす。 1971年(昭和46年)目黒区立原町小学校第1学年に編入後、1972年から田園調布雙葉小学校に編入して卒業。その後同中学校を経て同高校に進学するも、父の仕事の関係で米国ボストンへ移住。 米国ハイスクールを卒業後、 1985年6月、ハーバード大学経済学部を卒業。 86年帰国後4月に東京大学法学部に外部学士入学するが、同年10月に外務公務員採用I種試験に合格し外務省入省が決定。この際、女性初のキャリア官僚スーパールーキーと話題になる。 87年東京大学を中退し外務省へ入省。 経済局国際機関第二課に配属された。 88年から外務省の研修留学として、オックスフォード大学ベリオール・カレッジに留学後90年帰国、7月1日付で北米二課に配属。
 徳仁親王との馴れ初めは、1986年に来日したスペインのエレナ王女の歓迎レセプションに出席した際である。 研修留学からの帰国後には皇太子となった皇太子徳仁親王の御妃候補として報道され、大きな話題となった。 
 1992年に、皇太子徳仁親王からの求婚を受諾している。
 (以上、ウィキペディア情報より一部を引用)


 小和田雅子さんが皇太子妃候補としてメディア上で話題となっていた頃、私は高校教員をしていた。
 皇太子の弟君である秋篠宮殿下のご結婚にずい分と遅れをとっていた皇太子を心配してか、当時所属高校の女子高生が教員である私によく冗談を言って来たものだ。 「先生もまだ独身なんだから、皇太子の奥さんになってあげたらどう??」 (顰蹙は承知だが)この女子高生達の反応の程が何とも可愛らしく可笑しくて、「じゃあ、そうするよ♪」などと笑いながら返していたものだ。

 その裏で私は、小和田雅子さんを皇太子妃候補に祭り上げる事に関して“国政の貴重な人材観点”から何とも“もったいない”感覚を当時抱き続けていた。 
 とにかく生育環境に恵まれ、(もしかしたら父親のコネかもしれないが)類稀な才能と特権を活かし世界規模で活躍し、今後国家を第一線で支えていく「官僚」として立派にその地位を築き上げていた小和田雅子氏である。
 何故、この人物が皇太子妃であらねばならないの?? 私はそう思い続けたものだ。
 女子高生じゃないが、何もそんな才能溢れる人材を皇太子妃になどする必要はないはずだ。(確かに皇太子妃とは“英語力及び語学力”及び“淑女力”は欠かせない要件だろうが…)  女子高生が言うように私が皇太子妃にでもなってあげた方が、小和田雅子さんとの類稀な能力を紡いで生きている女性の今後の人生が犠牲にならずに済むのではあるまいか??? 


 それまでの皇室の歴史に於いても、皇室妃殿下候補の選定に当たってはそれに“相応しい”人物を選定して来たのではなかったのか。
 美智子皇后に関しては、初めて民間から迎えられた(実に素晴らしい)妃殿下であられた。
 秋篠宮妃である紀子さまに関しては、弟君の好みと紀子さま側ご家族の意向が合致して結婚が即決したと私は捉えている。

 これらの事例と比較して、明らかに皇太子が小和田雅子さんと婚姻に至るまでの道程は多難を極めたと私は理解している。
 それでも、どうやら皇太子の一番の「好み」が小和田雅子さんであったようだ。 周囲皇室要人が他の皇太子妃候補女性をいくら勧めても、どうしても皇太子は雅子さんにこだわり続けた印象を私は持っている。
 そして、20年前の1993年6月にご両人はご成婚に至られた。


 皇太子殿下ご成婚後20年が経過した現時点で、巷ではこの話題に関して“言いたい放題”のメディア情報が満ち溢れている。

 例えば、平成16年5月10日、皇太子さまが訪欧前の記者会見で述べられた、「人格否定発言」である。
 「雅子のキャリアや、そのことに基づいた雅子の人格を否定するような動きがあったことも事実です」  当時皇太子さまは44歳、皇太子妃雅子さまは40歳。 雅子さまのキャリアや人格を否定する動きとは、何だったのか。“お世継ぎ”を求めるプレッシャーや、外国訪問をなかなかさせない宮内庁への批判だと受け取られたが、皇太子さまが具体的に説明されることはなかった。(以上、メディア情報より引用)

 原左都子の私論だが、皇太子殿下のこの発言は私も今尚鮮明に記憶している。
 私の解釈としては、皇太子殿下自身が「好んで」選択した妃殿下である雅子さまの経歴について外部のメディアが誹謗中傷する事態に耐えられず、思い余って発言された内容と理解している。
 それ故、私としてはこの皇太子殿下の発言に、雅子さまへの愛情を感じさせていただけたものだ。


 最後に原左都子の私論に入ろう。

 今から遡る事20年前に、小和田雅子さんとの一女性が皇太子妃となられる決断をした時点で、一生に渡るどれだけの損失を我が身に振りかぶる覚悟をされた事であろう。
 そんな思いが庶民の皆さんに理解可能であろうか??

 小和田雅子さんの人生に於ける一番の失敗は、皇室と交流できる程の家庭に生まれ育っている中で、その交流を阻止できなかった事であると原左都子は捉える。  
 そもそも皇太子と出会える“超特権パーティ”になど出向かなければ、小和田雅子氏はその後一生一民間人として国家の官僚を続行できたはずだ。
 ところが、小和田雅子氏は若かりし時代にそれに出向いてしまった。 それがどうしてなのかに関しては、あくまで庶民でしかない私には計り知れない……

 それでも私には、現在心身面での「適応障害」に悩まれつつご公務が限定されている「プリンセス雅子さま」をバッシング申し上げようの発想は一切ない。
 雅子さまこそが時代の犠牲者との感覚を抱きながら、聡明な小和田雅子さんが何故そんな“過酷な運命”を回避できなかったのかに関して問い続けつつ、一生涯庶民を貫ける事を幸せと感じている原左都子である……

中学生を叱るのは、やはり私も怖い…

2013年06月08日 | 教育・学校
 集合住宅内にある我が家の住戸の南側に、片側一車線の公道がある。 
 その道路は町内のメインストリートとも言えるのだが、そもそも住宅地域であるため車両をはじめとする通行者はさほど多くはなく、普段は比較的静かな環境下にある。


 この公道は、近くに存在する公立中学校の通学路ともなっている。
 
 学校が新学期を向かえて少し経過した1ヶ月程前から、この“メインストリート”が中学帰宅時に“大騒ぎ”をしでかす男子中学生軍団の“溜まり場”と化しているようだ。
 ちょうど中学生の帰宅の午後3時過ぎ頃から夕方近い時間帯に、当該「原左都子エッセイ集」をパソコンに向かって執筆する機会が多い私だ。 5月に入り夏日を経験するようになって以降南側ベランダの大窓を解放している我が家だが、近頃南側の公道で繰り広げられる男子中学生どもの“大喧騒”にエッセイ執筆の集中力を妨げられる事この上ないのだ。

 いえいえ、原左都子自身に高校教員経験があるため、中高生ぐらいの子どもの中には今時人前で“普通に”騒ぎ散らす人種も存在する事など重々承知している。 単なる“おちゃらけ”等々大抵の事ならば許容範囲とも心得ているつもりだ。
 ところが、どうも我が家前の公道上の男子中学生軍団からは「いじめ」と表現するべきニュアンスの会話も聞き取れるのだ。 しかも日々聞き取るその音声から、“いじめ側”と“いじめられ側”が既に固定化している実態も私は嗅ぎ取った。 ここは元教員でもある私が住居階下へ降りて公道へ出向き、一言注意しようかとも一瞬考えた。 (結果としては残念ながらそれを断念した理由に関しては後に述べよう。)

 一昨日の事だが、上記男子中学生軍団の人数が普段より大幅に増大していた様子だ。
 いつものごとく「原左都子エッセイ集」を綴る我が家の南ベランダ側道路より、男子中学生軍団の馬鹿騒ぎ音声に加えて、車のクラクションも数多く聞こえてくる。 
 (一体、何の騒ぎだ!?)と思いつつベランダに出た私は唖然とした。
 何と、男子中学生軍団20名程が片側一車線道路を横列で塞いで、訳が分からない暴言を吐きつつ大行進しているではないか!!  そこをたまたま通りかかった車が通行妨害をしている中学生軍団にクラクションを鳴らしていたとの実態だ。
 こういう場合、車の運転手氏が「お前ら、迷惑だから集団で車道を歩くとの馬鹿な行動をやめろ!!」とでも説教すればいいのかとも思いつつ、クラクションを鳴らす事しか打つ手立てが無いことにも同情せねばならないのであろう。 
 と言うのも、集合住宅上階ベランダに出てひとまず(何やってんだ、お前らは!!)と公道に向かって叫びたかった私も、その異様な風景を一見するなり一瞬にしてひるんでしまったからだ……  ましてや、階下に降りて20人程の男子中学生軍団相手に「説教」する勇気など皆無だったことを恥じ入るしかない…… 


 そんな身勝手な原左都子が、過去において自宅集合住宅内で幾度か小学生男児集団を叱った経験がある事に関して、2011年5月バックナンバー 「他人の子の“悪さ”をどう叱る?」 とのエッセイにおいて公開している。
 少しだけ、反復させていただこう。
 私が住む集合住宅は公立小学校のすぐ近くに位置している。 周辺は閑静な低層住宅地で一戸建て住居がほとんどという環境の中、我が集合住宅敷地内の駐車場やエントランス、通路空間等々共用持分施設が、公立小学校放課後の児童達にとって“恰好の溜まり場、遊び場”と化しているのだ。
 この住居に入居以来、小学校の下校時間である14時頃から夕方5時半頃(夏季は6時頃)まで、日々児童達の歓声が絶えない運命にある。 共用施設で遊んでいる児童グループとは決まって男の子達である。 
 原左都子とて、何も好き好んで近隣住民であろう男子児童達を叱りたい訳ではない。 むしろ出来ればこんな場面は避けたい思いが強い。 と言うのも、今の時代においては下手をすると子供と言えども“刃物”を持っていたりするとの情報もある。 相手は小学生といえども体格が立派な子もいるし、そんな場面で華奢な私が打ち勝てるはずもないという“我が身息災”の危険性の観点が大きいものがあるのは事実だ。 
 そして子供を叱った後にはいつも“後味の悪さ”が残り、その自己嫌悪感にしばらく苦しめられるのも実に不快なものである。 しかも子供とは、幼い日に“叱られた”経験が将来に渡ってトラウマとなるやもしれないのだ。 叱った相手が親等の保護者であるならば家庭内においてそのフォローがいくらでも可能であろうが、見知らぬ相手に突然叱られた場合の子どもが受ける後々の“トラウマ”を慮って余りある原左都子である。
 今の大都会においては人間関係の希薄化現象が蔓延している。 こんな環境下で他人の子供を叱る行為とは、ひと昔前とは大いにその意味が異なっている事に叱る側の大人は留意するべきとも心得ているのだ。
 ただし子供達を本気で叱ってやらないと、最悪の場合子供達が「死」に至る場面もあることを大人は是非共認識するべきである。 そんな事件・事故が数多く勃発している現状でもある。
 (以上、「原左都子エッセイ集」バックナンバーより要約引用)


 本日私がこのテーマエッセイを展開したのは、朝日新聞本日(6月8日)別刷「be」“悩みのるつぼ”を一見したからに他ならない。
 今回の相談女性とは、(私に言わせてもらうと“単に”説教好きな)“何か社会にお役に立ちたい”意向の60代女性との事だ。
 
 その相談内容は割愛させていただくが、今回の“悩みのるつぼ”回答者であられる三輪明宏氏が「危険には近づかない方がいい」との適時適合的回答を述べておられるので、その結論部分のみを少しだけ紹介しよう。
 相談者が生きてきた時代とは現在はまったく様変わりしてしまっている。 それをわきまえず、人に説教する事には危険が伴う事を自覚するべきだ。 この相談者が命を失ってもいいとの覚悟まであるなら、見知らぬ相手に説教してもよいのかもしれない。
 もっとも、他者に悪意が無く知らずに間違いを犯している場合には注意ではなく「忠告」をしてあげましょう。 また小学生までの小さな子どもは危険が少ないので、他人がアドバイスをしてあげると良いでしょう。 中学生になると逆恨みもするし、小型ナイフを持っているような場面もありますからやめておきましょう。 相手に注意をしたいのなら、その辺の危険性を見分ける感覚を持っている必要があります。


 朝日新聞“悩みのるつぼ”の回答者であられる三輪明宏さん、的確なご指導を本当にありがとうございます。 
 自宅近くで大騒ぎして市民に迷惑をかける男子中学生連中にはほとほと嫌気がさしていた私である。 それでもその指導を回避したことに関して、三輪氏の回答により肯定して頂けた気分だ。

 そうだとして、この男子生徒団体の公道での悪行を私が当該公立中学に摘発するとの手段もあるのか?
 いや、それを実行したとてその成果の程が期待薄であることは既に経験済みである。 
 現在の公立学校の教育実態を慮ると、在籍生徒の保護者に対してすら対話の機会を持とうとせず、「モンスター」なる危険用語を持ち出して頭から撃退しようとの公教育現場である。
 ましてや保護者でもない一庶民の摘発になど一切関与しない公立学校の体質を、悲しいかな見据えてしまえる私だ…  せめても当該公立中学校内でもしも男子がいじめ自殺でも図った時に、その証言者の一人になってあげられる事くらいしか近隣庶民には残されていない現実なのであろう…

80年代後半バブル期に、あなたは何をしてた??

2013年06月06日 | 時事論評
 自民党政権が現在実行中のいわゆる「アベノミクス」経済政策を“バブル”と解釈するか否かに関しては、評価の分かれるところであろう。

 これに関する原左都子の私論は、5本前2013年5月のバックナンバー「イージー・マネーで世を撹乱した“イージー・アベノミクス”」との表題にて既に公開している。
 少し復習させていただこう。
 「イージー・マネー」とは日本語にすると「楽に儲かるカネ」の意味合いがある。あるいは、「不正に儲けたカネ」「悪銭」「あぶく銭」「泡銭」等々…の意味合いもあるようだ……。  日銀黒田総裁は少し前にメディア上の記者会見に応答して、「今回の金融緩和政策は決して“バブル経済”の再来ではない!」と言い切っていた事を私はメディア画面を通して記憶している。
 私に言わせてもらうと、「イージー・マネー」を最前線に呼び込む経済政策など“バブル”でしかあり得えないにもかかわらず、何故国民相手に「イージー・マネー」の投入を煽ったのか??  これこそが、今後の「アベノミクス」経済政策の限界を示す指標と私は捉える。 
 「アベノミクス」は、日本国内に於けるほんの一部の富裕層(これとて所詮庶民の範疇であり大してリッチでない層と私は捉えるが)を煽る事による“階級制度”を末端世界で築きたいのか? 今後益々多くの国民を更に貧困層に落とし入れ不幸にしないためにも、「イージー・マネー政策」は即刻辞めにするべきだ。 バブル銭にしか頼れない財務・経済政策など、原左都子に言わせてもらうと「イージー・アベノミクス」としか表現できないよ。
 (以上、「原左都子エッセイ集」バックナンバーより私論部分を引用。)


 このアベノミクスが現在引き起こしている株価乱高下現象を受けて、朝日新聞5月28日オピニオンページに興味深い記事が掲載されていた。
 現在のアベノミクス経済状況を“バブル”と捉えるか? この現況下において20年前のバブル期を反省する人、あるいは早めに株や土地に手を出そうとする人等々、経験者が本音を語っている。
 以下に要約して紹介しよう。

 まず、「踊った人」の例から。

 ジュリアナ東京が開店した1991年にちょうど20歳だったという女性荒木氏は、そのお立ち台で羽根扇を振りながら下々の人を見下ろし、何かの教祖になった気になって踊っていたらしい。 会場の熱気の中みんながトランス状態で、欲とか虚栄心とか人間のドロドロしたものが一つの大きな「気」になってそこに存在していた、と荒木氏は言う。 バブルに気付かずお金をばかばか使う残党がいて、今振り返るとおっかしいんじゃねえの、とも思うそうだ。 それでも、荒木氏自身は当時コンパニオンもして、会期が終わったらブランド衣装も全部もらえたし、打ち上げは船上パーティ。 「節度」という言葉を忘れているような雰囲気があったと思うとも語っている。

 原左都子の私事と私論に入ろう。
 バブル期以前の70年代に、上記荒木氏と同様“ディスコ狂”とも言える青春時代を踊り狂って過ごした私だが、その時代背景が全く異なる。 
 1991年と言えば、私は既に30代後半。 学問に驀進して大学院を修了しちょうど「修士」を取得した頃である。
 趣味として音楽もダンスもずっと愛好していたが、ジュリアナ東京を訪れる機会は一度たりとてなかった。 影像で見るあの場は下劣で低俗で“馬鹿が集まる場”とのイメージしか抱けず、あえて避けて通ったとも言える。
 コンパニオン(パーコン)もアルバイトの一環として経験した私だが、確かに“バブル期”だからこその職種だったことだろう。 私の場合、会期後の「打ち上げ」になど出席している時間がもったいなくて一切参加していないが、お陰で短時間で高給が稼げ学業に励む時間が確保できた事に感謝している。 今時“コンパニオン”なる言葉自体が死語化しているとも捉えている。 

 次に「こりごりな人」の例であるが、48年生まれの末井氏は朝日新聞紙面で以下のように語っている。

 小豆の先物取引や金、不動産にギャンブル、バブル期はいろんなものに手を出した。 ただただお金を増やす事が快感で、減ると落ち込む、それだけだった。 不動産は元より、しまいに郊外の栗林まで買ったため、結局大暴落して3億円の借金が残った。 これを競馬の大勝負で返そうと本気で考える程に、正常な思考が出来なくなっていた。 その後銀行と話し合って借金の一部をチャラにしてもらったが、今もまだ4千万円程をちょぼちょぼ返している。 といういきさつで、現在はアベノミクスに乗って一発当てようとの発想はない。

 再び原左都子の私事と私論に入ろう。
 こういう奴、一番迷惑だよなあ。 
 “バブル期”に少しばかりの小金を持っていたこの手の軽薄野郎どもが大量発生し、我が物顔で“イージーマネー”を世にバラ撒いた80年代後半の時代である。 その後バブル崩壊と共に大損失を計上した挙句の果てに、自分らの借金を銀行等との癒着でチャラになどしたからこそ、その後の不況期が長引いていることを肝に銘じさせるべきだよ。 
 軽薄志向のあんたらがチャラにした借金をその後我々庶民が血税の形で肩代わりし続けている事実に関して、現政権こそが今一度省みるべきであるし、その手の奴らには一生懺悔しながら生きるべく指導する責任があるというものだ。

 私など、バブル期直前にそれまでの定職だった医学専門職を退き自らの意思で学業に励む選択をしたがために、80年代後半のバブル期とは実に厳しい時代であった。 ただ、その時代の苦労の程が現在の我が人格を創り上げてくれたとも思う貴重な“華の時代”の印象もある。
 一番苦労させられたのは、バブル期直前に購入した自宅住居である不動産物件のローンが高金利だった事だ。 当時の我が家の住宅ローンはなんと!8%で借入れた記憶がある。 それでも、私はこのローンを独身のうちにその後7年間で自力完済した。

 朝日新聞記事3例目は1934年生まれの男性による 「再び(バブルを)期待する人」 とのテーマだが、原左都子の私論としてはこの題目のみを一見して判断しても到底受け入れ難いため、割愛する事にしよう。


 80年代後半の“経済バブル時期”に、単なる偶然ではあるが原左都子自身がちょうど次なる自己実現意欲に燃えていた事を摩訶不思議にすら感じる現在だ。

 もしも、当時私が勤務していた医学関連企業の勤務を続行していたならば、もしかしたらバブルの波に乗りその後“東証一部上場”を果している当該企業で相当の活躍ぶりを発揮していたのだろうか??

 ところが、やはりそうではないであろうと私は結論付ける。
 当時の私には私なりの確固たる夢が描けていた。
 一民間企業との組織内で我が人生を犠牲にし続けるよりも、まだまだ30歳手前の私には、とにもかくにも更なる学業を全うしたい!との次なる人生に繋がる明確な目標が燦然と存在したのだ。

 その我が夢を叶えてくれたのも、当時の時代が“経済バブル期”だったからこそと感謝しつつ、今回のエッセイを締めくくる事としよう。