原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

年老いては自分の外見を客観視しよう。

2013年06月03日 | 自己実現
 今回のエッセイは2日前(6月1日)に公開した 「人は何故『太る』のか?」 の続編の形ともなろうか。

 前回のエッセイにおいて、私は「人は何故太るのか?」に関する私論を述べた。 以下に少しだけ復習させていただく事としよう。

 人は何故太るのか? あるいは何故「太った」体型を元に戻さないのか? 
 その解答とは太っておられる方々がご自身のその体型を「許容」しているか、ないしは「自愛」しているに他ならないと私の過去の経験から捉える。
 人の体型の好みなど多様性があって当然であろう。 私自身は現在の長身スリム体型が自分の好みであるが、決してこの体型を保持するために涙ぐましい努力を日々重ねている訳ではない。 そうではなく、この体型こそが我が人生において数十年来絶対的な幸福をもたらしてくれる事を日々実感出来るからこそ、この体型を嗜好して保持し続けているに他ならない。


 本日のエッセイで少し付け加えると、そもそも私は決して“外見的要因”を我が人生の第一義となど位置付けてはいない。
 ただ、それが私の一趣味であるのは確かだ。 若き時代より、自分が持って生まれた個性である長身スリム体型を最大限活かせるファッションにはこだわり続けている。 そのため着る物や履物が限定される自転車の利用は避け、徒歩及び公的交通機関利用生活を貫いている事に関しても、つい最近のバックナンバーで既述した。

 そんな私も時たま居酒屋等の隣席で同年代位の女性集団が会話しているのに遭遇する機会があるのだが、どういう訳か“外見的要因”を第一義としている熟年女性が数多い現状に辟易とさせられる。 「サプリは何がいい」「アイ(目の周り)クリームにはお金をかけたい」「首筋の皺は年齢がバレるから気をつけるべき」……??
 その会話を何ともくだらないとは感じつつ、それを公共の面前で発言している女性達の「涙ぐましいまでの努力の成果」を観察したりもする意地悪な私だ。  隣席からチラリチラリと観察する女性達の実態とは、「(見た目)美しい人」もいればそうでもない女性もいるのが世の常と言うものであろう……。


 今回のエッセイを綴るきっかけを得たのは、朝日新聞6月1日付「be」“悩みのるつぼ”である。
 早速、20歳女性による「母に外見の現実を分からせたい」と題する相談内容を以下に要約して紹介しよう。
 母子家庭の20歳娘だが、59歳の母が自分の外見を客観視できなくて困っている。 母は裕福な家庭に生まれ周囲から「かわいい」と言われて育った。 普通、ある程度の年齢になればお世辞だと分かるだろうに、それが未だ分からず、田舎の親戚の前で奇抜で趣味の悪い服を見せびらかす。 友人はいなくなり、親戚からも引かれる現状をわきまえず、母より数倍きれいな30代の知人に「私みたいになりたければ、もっと努力しなきゃダメ!」などと言ったらしく、恥ずかしいやら腹が立つやらで放置できない有様だ。 運転免許証の皺だらけの写真を見れば現実が分かると思ったのに、写真を撮った人が悪いと憤慨する始末… 母に現実を分からせ愚行をやめさせたいのだが、どうすればいいか?
 (以上、朝日新聞“悩みのるつぼ”より要約引用。)
 上記相談を読んで、我が身に照らさない訳がない原左都子だ。
 と言うのも、相談者とその母との年齢関係が我が母子の年齢層と酷似している。

 その観点から、私はこの相談者である20歳女性の「母親」観察力の“的確さかつ鋭さ”を大いに評価したいのだ。
 今年20歳を迎える我が娘にも、これ位の“母親批判力”を熟成して欲しかった思いである。 我が娘幼き頃より「お抱え家庭教師」を全うしている私としては、むしろ上記の20歳相談者である娘さんの母親批判力の“育成ぶり”に大いなる羨望を抱かされる相談内容である。

 相談者の母親を実際に見た訳ではないが、いやはやこの相談事例の場合、20歳娘さんのおっしゃる通りと結論付けたい原左都子だ。 
 母子家庭の親である59歳女性は、私の目線からも何ともみっともなく馬鹿な母親との印象しか抱けない。
 少なくとも妙齢20歳の娘さんが自宅に同居しているならば、その“芳しいまでの”若さと美しさを日々身近に堪能できるというものだ。 何故に20歳の娘さんが放つ“真実の美しさ”を、この母親は自分の過去のノスタルジーとしてフラッシュバックしつつ学び返さないのだろうか?? 
 女性も還暦近くなればいくら自分が好む体型をバリバリに維持していると言えども、到底若き女性の“香しいまでの美しさ”と勝負できる訳がないのは歴然だ!
 それを基本的に理解できているからこそ、私は我が「お抱え家庭教師」業の一端として、常に母の立場で我が娘の外見をも褒め称えつつ育てて来ている。(親馬鹿ながら、実際我が娘は私よりも数段美人度が高いのよ!?!)

 
 今回の“悩みのるつぼ”回答者であられる 社会学者 上野千鶴子氏が興味深い回答を述べておられるため、その部分を以下に紹介しよう。

 母が自分を「かわいい」「きれい」と思いたい気持ちを考えましょう。 きっと他にうぬぼれるものが何もなかったんですね。 これが実家の裕福さや頭のよさや学歴を自慢すると仮定すれば、もっと(あなたの母は)嫌な女と思われていたことでしょう。 そう思えば容貌のうぬぼれなどかわいいもんです。

 確かに上野氏がおっしゃる通り、一般女性が自分が「かわいい」「きれい」とうぬぼれていられるうちは、その女性とさほどの接点がない人物にとっては、単に「かわいい」と褒めて済まされるのかもしれない。
 ところが、それを公言して周囲に迷惑をかけているのが還暦近い“実母”ともなると、そんな母と同居せざるを得ず苦しむ20歳との若き娘さんの苦悩の程が、同じ年代の娘を持つ母親の立場として思い知らされる私だ。
 
 こんな母親は思い切って捨て去ればいい!と本気で思いつつ、最後に私論を述べよう。

 表題のごとく、老いては自分の外見を客観視するべきである。

 自分の外見をサプリなり美容液なりエステに頼りつつ磨き上る事に一生涯精進する人生もあり得るのだろう。

 それでも、常に社会全般を見渡す視点を失いたくないと私は思う。 少し視野を広げると、単に外見のみならず実に美しい女性達が年代を問わず周囲に数多く存在する現実だ。
 そんな現状を直視しつつ自分の外見をも磨き続けられるならば、年老いてもおそらく若年層に迷惑がかからない余生を歩めるのかもしれないしね……

人は何故「太る」のか?

2013年06月01日 | 医学・医療・介護
 今回のエッセイテーマは、その文言通り“体格的に太っている人”の深層心理を取り上げようとの趣旨であるのだが、冒頭から表題に対する原左都子の結論を述べよう。

 人は何故太るのか?
 その解答とは、「太っている状態を自らが“許容”している故」 以外にあり得ないと私は結論付ける。
 と言うより、むしろ「太っている自分を肯定し、そんな姿が愛らしい」との自己肯定心理すら内在しているのかと感じたりもする。


 今回のエッセイを綴るきっかけを得たのは、私が日頃通っているスポーツジムで「太っている女性(以下、A子さんと記そう。)」と会話をする機会が何度か得られたためである。
 いつも私がジムへ訪れる時間帯が、ロッカー室にて着替え中のA子さんの帰宅時間と重なるようだ。
 A子さんが私を見て曰く、「何でそんなにスマートなの?? 私も昔は7号の洋服が着れるほどにスマートな時期があったのだけど、子どもが大きくなるにつれ太ってしまって、今じゃこの状態…  少しは体重を抑えたく思ってこのジムへ通っているの。」

 そもそもA子さんの私に対する第一印象は、“20代のギャル”だったとの事だ!?!
 「何をおっしゃいますやら」である。 (まさか還暦近い実年齢は伏せてはいるが…)、今年20歳を迎える娘を持つ母親である事実を告げたとたん、A子さんが「何でそんなにスマートな体型をずっと維持出来ているの~~!??」等々と、驚愕とも表現可能な程に驚いて下さるではないか!! 
 等々といった具合に、A子さんと私とのジムロッカーのお付き合いは毎回10分程の短時間ではあるが、A子さんの「体重」に関する話題で現在も続行中である。

 このA子さんの場合、ジム通いの第一目的が「減量」との明確な目標を掲げられているのは瞭然の事実だ。 
 原左都子に言わせてもらうと、その割にはA子さんのジムにおける“鍛錬”の程が「減量」に繋がるメニューとは到底考察できない程に軟弱である…。 一週間に何度も当該ジムに通い、ご自身が好むプログラムをこなしていらっしゃるとの事だが、私の判断では「減量」メニューとしては一切機能していないと推測する。

 片や、昨日初めてA子さん側から私に「ジムで何をしていらっしゃるのですか?」との質問を受けた。 (何分、現実社会ではあくまでも“聞き役”を全うしている私であるため、見知らぬ人とは常にこういういきさつと相成るのだが…)  屋内走路でランニング練習及びジムで筋トレをして、年間何回か市民ロードレースにもエントリーし出場している事を伝えると、物凄く驚いた様子でA子さんが「そんなに頑張っているのですか! 凄いですね!!」なる感想を述べて下さるではないか。 「いえいえ単に自己実現意欲に駆られ、市民ランニング大会にエントリーして参加しているだけの話ですよ。」
 ロッカー室で人と話している時間こそがもったいない私だが、A子さんが何とも“いい方”でついついA子さんの話に応じてしまうのだ…。


 話題を私事に戻すと、家族を含め我が人間関係環境範囲内には「太った」人は過去現在を通じて存在しないと言えよう。

 そうそう、我が20代の医学関係民間企業勤務時代に「太った」同僚女性と仲良くした経験がある事を思い出した。 
 (この女性をB子さんと名付けるとして)、B子さんは20代の若さにしてご自身が太っている事に何らの後ろめたさも感じていないどころか、誇りを持っている様子だった。 それもそのはず?、B子さんは20代前半の若さにして既に結婚していた。 その旦那様(参考のためご主人は平均的体型であられたのだが)の好みが「太った女性」だったのだ。 日々沢山の手料理をご亭主に振る舞っていた自宅に私もお邪魔して、B子さん手作り料理を幾度かご馳走になったものだ…… (残念ながらB子さんが20代前半に退社して以降、疎遠となっている。)


 A子さんとB子さんの事例を上記に掲げた後に、原左都子が何故“太らないのか”に関する私事と私論を述べよう。

 私の場合、20代前半頃より現在に至るまでずっと、我が理想とするスリム体型を維持してきている。
 この体型を維持するために、何らかの“涙ぐましい”までの努力を重ねたのかと言えば、決してそうではない。
 なのに何故、私がこの現在の体型を数十年来保持できているかに関する私論を述べると、現在のこの体型が自分自身の“お気に入り”であるからに他ならないのだ。

 人の好みとは実にそれぞれであろう。
 B子さんの事例のごとく、もしも恋愛相手が「太った女性が好みだよ」と言ってくれたならば、それに自身の体型を合わせるとの人生の選択肢もあり得るのか!?
 ところが私にはその手の“他力本願思想”が、我が人生に於いて一度たりとて湧き出ない自我と人格にこだわって生きているとも言える。 たとえ私を愛してくれる相手であったとしても、相手の好みに自分の体型を合わせたいなどとの意思が私の場合存在しようもないのだ。

 あるいはA子さんの場合はどうだろうか?
 ご主人にも「太り過ぎ」を指摘され現在ジム通いをしているA子さんであるようだが、その実、A子さんから本気で減量しようとの意思がまったく感じられない私だ。 A子さんからは、現実の生活に満足しつつご主人との仲睦ましい生活を続行するべく、その“余興”でジム通いをされている幸せ感すらが伝わってくる思いだ。


 最後に原左都子の私論でまとめよう。
 
 人は何故「太る」のか?
 さらには、何故「太った」体型を本気で元に戻さないのか??

 それは冒頭で記した通り、「太って」おられる事に関してご自身が「許容」しているからに他ならない。
 上記A子さん、B子さんの事例に関しては本人達が「太って」いる事を“自愛”している様子がお分かりいただける事であろう。

 そうではなく、健康上「メタボ」で苦しんでいる人々が何故本気で体重制限しないのかと言えば、私に言わせてもらうとやはり「自愛」範疇と受け止めざるを得ない。
 この種の人々とは表向きには減量したい云々と公言しつつも、内心は「太っている」自分の姿と人格を許容し、満足しつつ日々を暮らしておられることに間違いない。

 20代前半頃から数十年来、165cm、47㎏(1~2㎏の上下変動はあるが)をキープし続けている原左都子である。
 「何でその体型をずっと保持できるの?」と問われたならば、この体型こそが私に絶対的幸福をもたらしてくれる事を日々実感できるからに他ならない、としか答えようがない。 
 そんな我が持論に基づいて綴った、今回の「太った」人種に関する上記論評である。