原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

絵むすび(朝日新聞2014.10.4編)

2014年10月06日 | 自己実現
 (写真は、朝日新聞10月4日別刷「be」パズル 「絵むすび」 に原左都子が解答したもの。)


 朝日新聞「絵むずび」ファンの皆様、お待たせ致しました。


 昨夜「原左都子エッセイ集」編集画面にて検索元を確認すると、「絵むすび」ワードが急上昇しているではありませんか!
 これは朝日新聞がパズル欄で「絵むすび」を公開した直後に、我がエッセイ集に連動して生じるいつもの現象です。 
 早速新聞を開いて確認したところ、案の定「絵むすび」が掲載されていました。

 ところが大変残念ながら昨夜は所用の後に飲酒の上帰宅した事が主因なのか、どうも解答能力が低下している私でした。 酔っ払いにも“悔しさ”観念はあるものですが、早々に解答をギブアップして就寝した次第です。

 今朝午前中に、再度「原左都子エッセイ集」編集画面を確認したところ、「絵むすび」に関連するバックナンバーに200PV近い閲覧数を頂いている事を確認し、早速再度、朝日新聞「絵むすび」課題に取り組む事と相成りました。



 結論を申し上げると、今回10月4日版「絵むすび」は“レベル3”との記載があるものの、私にとっては今まで解答した中で一番困難な課題だった。
 要するに朝日新聞「絵むすび」も、読者の皆様からの反応に相対するべく少しずつレベルを上げているとの事なのだろう。

 参考のため原左都子の場合、一旦解答に行き詰ればすぐに解答から離れる事を心掛けている。
 他の事に取り組み時間を経た後改めて設問を見直した方が、我が頭がフレッシュな頭脳に蘇っている事をいつも実感出来るからだ。


 今回の「絵むすび」課題もその手法を採った。

 そうしたところ、私にとって今まで一番の最難題課題である 2014.10.04「絵むすび」 の全体像が見通せるがごとく、我が頭が冴えて来るではないか!

 そんな冴えた(?)頭で大正方形内の全体像を再確認すると、交錯しそうな「対象物」を如何に交錯させずに道を譲り合わせるかが一目瞭然なのだ。
 今回の課題の場合、「もみじ」と「帽子」との交錯、更には「ポスト」と「手紙」との交錯を如何に扱うかが難儀だったのではあるまいか?
 ところがそれら全体像が見渡せた時点で、「絵むすび」とは容易に解答が叶うパズルの一つでもあろう。



 大幅に話題を変えるが、現在ネット上では膨大な「無料パズル」が世に溢れ出ている現状だ。

 原左都子は以前から主張し続けているが、「パズル」とは“制作する側”こそが大いなる達成感を得られる事象に過ぎないであろう。
 解答者側がそれに解答出来て達成感を得られるレベルの力を得たとて、所詮“時間つぶし”と私は心得ている。

 それでも、自分自身が「パズル制作者」側になる必要性は無いのかもしれない。 庶民とはあくまでも趣味として、無料パズルを有効利用しつつ一時の脳内活性化を図れば済む話と認識する。

 
 ただ何度も言うが、パズル制作者側の出題意図側面に立ててこそ「パズル解答」が叶う事など、私は幼稚園児の頃に初めて“知能検査”を受けた時より理解出来ていたような気がする…
  
 庶民の皆さん、朝日新聞の「絵むすび」に解答する事も確かに“一種の”脳活性化に結びつく行為であろうと私も認める。(だからこそ、私も解答し続けている。)

 それはよしとして、特に高齢者の皆様方、後進者育成のためにはもう少し“実生活に直面する”事象で主体的前進志向を開化させ、自分なりの達成感を得られる事象にチャレンジするべく人生もあるのではないかと、未だ若輩者の原左都子からアドバイスしたい気もするのだが…。

 (要するにこのパズルに解答出来たとて所詮自己満足に過ぎず、大して世の中は変わらないと言うべきか…)

救急車を呼ぶタイミング

2014年10月04日 | 医学・医療・介護
 本日(10月4日)夜中の1時半頃、私はあわや「救急車を呼ぶべきか!?!」との切羽詰まった事態に直面した。

 別室で寝ている身内の息遣いが尋常ではないのだ。

 定年退職前の現役時代より夜中に「無呼吸症状」がたまに出現する身内であり、それに類似した呼吸症状を夜中に呈する事はよくある。  ただ今までそれが元で大事に至った経験は一度もない。 本人自身も普段よりその体質を重々自覚していて主体的に喫煙を全面的に取りやめ、定年退職後は飲酒もせいぜい360mlビール1本程度に抑えている。

 昨夜身内の息遣いが尋常ではない事に気付き目が覚めた私は、いきなり身内の部屋へ訪れる事は避け(むしろ驚かせる事態となる事を配慮したのだが)少しその息遣いの様子を自分の布団の中で分析した。
 私の分析では、どうやら気管支・肺症状が出現しているのではないかと勘ぐった。 と言うのも、身内は最近肺の異常症状を訴え、専門医の下で精密検査を実施したばかりだからである。 その結果、特段の異常が見つからなかったものの、相変わらず肺症状を私に訴えてくるのが気にかかっていた。 ただ私の診断では、身内の特質を考慮しておそらく精神的な要因から来ている症状であろうと捉えていた。


 その時、過去の出来事が脳裏に過った。

 我が実父が郷里の実家で急性心筋梗塞により突然死したのが、ちょうど夜中の1時半頃から始まった発作によるものと実母から聞かされている。(母が発作後直ぐに主治医を呼んだものの、1時間程で父は死に至ったらしいが…。)

 何だか悪い予感がした。
 同じ真夜中の時間帯に我が身内が、(発作とは言えないまでも)異常な息遣いを繰り返している。 これはやはり、本人を叩き起こしてでも様子を聞くしかない! 
 そしてデジタル目覚まし時計が1:38を掲示した時、私は懐中電灯を伴って身内の寝室に向かい「苦しそうだけど、どうしたの!?!」と問い詰めた。 ところが(幸いと言うべきか?)身内は私の問いかけに気付かない程に熟睡している。 しばらく身内の熟睡の様子を観察して、これは大丈夫かと一旦判断し自分の部屋に戻った。

 ところが、身内の異常息遣いはその後も続く。
 眠れやしない…。  その息遣いを聞きつつ私の脳裏に浮かんだのは、「未必の故意」との法的責任概念である。
 ここで「未必の故意」に関して簡単に説明しよう。 例えば家庭内身内が死にそうなまでに苦しがっている。それを承知していながら“このまま死んでも仕方ない”と思い放置した結果実際死に至った場合、家族にこの法的責任が問われかねないのだ。
 そんな法的責任発想すら真夜中に脳裏に浮かびつつ、まだ続く身内の異常息遣いを放置しておく訳にはいかないと結論付けた私は、再び身内の寝室へ向かう。 その時間はデジタル時計によれば、2:24。
 そして、今度は身内の体を揺さぶり目覚めさせる行動に出た。  相当大声で「苦しそうな息遣いをしているけど、大丈夫なの!?」と問う私。  それに気付いた身内。 まだ睡眠中だったようだが、私が寝室まで様子を伺いに来た事にうすらうすら安堵した様子でもある。 「大丈夫ならばいいけど、もし調子が悪くなるようなら私に言って。」と言い残して私は自室の布団に戻った。 

 翌朝(本日の朝だが)、身内は普通に起きて来て私に言う。 「ちょっと風邪をひいているようで…」 
 (真夜中に「未必の故意」責任が我が脳裏に過った事はひた隠しつつ)、「そうだね、風邪をひいてるね」で昨夜の騒動をすべて“おじゃん”にした私である。
 ただどうやら我が身内にとっては、夜中に私が助け船を出しに行った事態が嬉しかった様子だ。
 そうだろうなあ。 定年退職後自宅での生活が基盤である男性にとって、“まさか”の時に助けてもらえるのは「奥方」しかいない現状であろう。


 ご亭主側としてはそれで事が済むのかもしれないが、病院に急送するべく立場の奥方側から言わせてもらうならば、それこそ大仕事だ。

 いつ何時、救急車を呼ぶべきかの判断こそが奥方に課せられる。
 特に身内が重篤な症状である場合、奥方は救急車に同乗せねばならない宿命にあろう。 それが真夜中であった場合など、まさかパジャマ姿で救急車に同乗出来る訳があるはずもない。 その場合、如何なる着替えをするべきかなる課題こそが奥方側にとって切実だ! 一体全体、救急車とは奥方が着替えをする時間を確保してくれるのか??
 昨夜の私は正直言って身内の体調よりも、(顰蹙は承知の上だが)救急車に同乗せねばならない場合に自分が何を着ていくかこそが一番の関心事であり、本気で夜も寝れなかった程だ。

 それに加え例えば身内が救急搬送された事態を想定し、最悪結果に至ったとすれば、奥方として喪主の立場にある場合は直ぐに葬儀の手配をもせねばなるまい。 もしも夜中に身内が緊急搬送された先の病院で死に至った場合、奥方は直ぐにその手続きに入らねばならない事であろう。
 その際、奥方として少し落ち着くために一旦自宅に戻り休ませて欲しいなる嘆願が叶うのか否か、ご経験者に是非共お聞きしたいものだ。


 我が義父が存命の頃、義母から聞いた話がある。

 義父とは何度も救急車を呼ばなければならないがごとく、義母に迷惑をかけた人物らしい。
 そんな義母のアドバイスとは、「たとえ救急車に同乗するとて、その後の病院内での対応等を鑑みた場合、奥方とはある程度の服装をしておかねば事が運ばない。 私は最初に我が身を整えて後に救急車を呼んだものだ。」
 それにあやかりたいものの、まだまだ若輩者の自分を実感させられる… 

発達障害児指導教育の困難さを改めて実感する

2014年10月02日 | 教育・学校
 「原左都子エッセイ集」2014年7月16日バックナンバー 「可愛い子供の声が“騒音”となる場合もあり得る」 の中で、私は以下の記述をしている。

 どういう訳か我が家の集合住宅の前が入居当初より“私立幼稚園バス”のバス停となっている。 恐らく安全性に基づいて“バス停”場所の判断が下されたのであろうが、これが日々大騒音事態だ! 
 毎朝毎朝9時頃より30間程、幼稚園児達の大騒ぎ音声に苛まれる。 集合住宅前に公道があるのだが、この道を通行する車両が少ない事を親達が安堵しているのか、幼稚園児達を公道で遊ばせつつ日々親達は自分達の会話に夢中だ。 たまに車が来ると「あっ、危ないから気を付けて!」なる声をかけるものの、公道を我が子の遊び場とする事自体を禁止する親がいない事に辟易とさせられる日々だ。  ここは元教育者でもある私が現地に出向いて、親達こそを説諭したい思いに駆られる。  ただ、そんな事をしたところで“おかしなおばさん”の異名を取るだけの結末となる事など承知の上で、諦めているのだが… 


 その後、夏休み期間が過ぎ去り幼稚園が2学期に入ったと思しき頃より、この騒音が更にエスカレートしている現実に日々耐え偲んでいる。

 そんな日々を送る中、元教育者でもある私はある事実に気付いた。
 どうも今年の幼稚園児達は例年に比し、騒ぎ方が半端ではなく極端であるとの事実に。
 
 それとなく室内から騒音の詳細を探る等様子を聞いていた私は、どうやら一人の男児が騒音の元凶となっている事を発見した。
 (仮にこの男児を「Aくん」と名付けるとして)、Aくんが馬鹿騒ぎを始めると未だ幼き周囲の男児を中心とした皆が“右に倣え”をしている図式が読み取れるのだ。
 Aくんの母親らしき女性も、(私が上記バックナンバーで記載したごとく)決してAくんを放ったらかして母達との会話にずっと夢中になっている訳ではなく、その都度比較的冷静な音声でAくんをなだめている様子だ。 それにもかかわらずAくんの暴言暴動は絶え間なく続き、それに周囲男児が同調している現状が見て取れる。

 それにしてもAくんの暴言暴動の程は、一般常識から鑑みて尋常ではない。
 恐らくAくんとは幼稚園バスを待つ時のみではなく、日がな一日常に“奇声”を挙げ、走り回るとの暴動を繰り返しているのであろう。  それが証拠に、Aくんが挙げる大声がかすれている事実が少し痛々しくもある。 おそらく自分の内面から湧き出てくる衝動を自力で抑えきれない幼いAくんは、自分の体を犠牲にしてまでも衝動を表面に出すしか方策が取れないのではなかろうか…

 

 ここで一旦、原左都子の私論に入ろう。

 皆さんは「ADHD」なる教育用語をご存知だろうか。

 以下に、ウィキペディア情報の一部を参照しつつ、ADHDに関して説明しよう。
 注意欠陥・多動性障害( attention deficit hyperactivity disorder、ADHD)は、多動性、不注意、衝動性を症状の特徴とする発達障害もしくは行動障害である。 ICD-10における多動性障害(英: hyperkinetic disorder)もほぼ同一の概念である。
 ADHDは多動性、不注意、衝動性などの症状を特徴とする発達障害の一つと言われているが、じっとしている等の社会的ルールが増加する小学校入学前後に発見される場合が多い。 注意力を維持しにくい、時間感覚がずれている、様々な情報をまとめることが苦手などの特徴がある。 日常生活に大きな支障をもたらすが、適切な治療と環境を整えることによって症状を緩和することも可能である。 脳障害の側面が強いとされ、しつけや本人の努力だけで症状などに対処するのは困難であることが多い。
 症状としては、集中困難・過活動・不注意などの症状が通常7歳までに確認されるが、過活動が顕著でない不注意優勢型の場合、幼少期には周囲が気付かない場合も多い。 
 (以上、ウィキペディア情報より引用。)

 何故原左都子が上記Aくんを「ADHD」と診断するかと言うと、ADHDを含めた「発達障害児」教育研究所で、我が娘が過去の幼き時期に一時お世話になったからに他ならない。(参考のため我が娘には決してADHD症状はなく、それとはまったく別症状が表出していたため研究所に通ったのだが…)
 その教育研究所にて、私はAくん同様の症状を呈する男児達に複数接している。 その経験から言うならば、自分の子の“異常さ”に早期に気付き、専門教育研究機関を頼る事が叶った家庭はまだしも恵まれているのであろう。
 
 それに比し、幼稚園バスを待つAくんの親御さんは、果たしてAくんの現状を如何に捉えておられるのか大いに気にかかるのだ。
 Aくんのお母上が朝の一時バスを待つ時間帯に“比較的冷静に”Aくんに対応出来ている事実を鑑みると、もしかしたら既にAくんが持って生まれている特質を見抜いて、ケアするべく行動出来ているのかもしれない。

 それにしても、Aくんの暴言暴動に日々巻き込まれる周囲の母親達の心配の程とは如何なものであろうか?
 いい子に育てようと日々努力しているのに、こんな多動性を抱えた異常男児といつも一緒に行動せねばならないのなら、いっそ幼稚園を転園させてでも息子が育つ環境を整えたいとの願望もあろうか。

 はてさて暴言暴動を繰り返す男児を抱える私立幼稚園側は、日々如何に対応しているのであろうか? 
 小学校以上の公教育現場に於いては、ADHD等周囲に迷惑を及ぼす発達障害児童生徒の指導に関して別枠で対応しているとの情報は把握している。


 私自身が「サリバン先生」として娘の最大限の成長を願いつつ、今尚精進する日々である。 (母としての贔屓目に過ぎないが、おそらく一般女子に引けを取らないレベルで立派に成長している我が娘だが…)

 我が家の前で幼稚園バスを待つ Aくん との特異的な男児を産んだお母上の心情を思い、綴った今回のエッセイである…