原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

我が子がこの子でよかった、とつくづく思う…

2018年07月31日 | 人間関係
 我が最愛の娘が、ここのところ体調を崩している。

 出産時のトラブルにより多少の不具合を抱えて産まれざるを得なかった我が子は、幼少の頃より“奇病”のデパートだった。

 一番手こずったのが「不明熱」だ。
 幼稚園卒園頃から中学1年まで、定期的に発病した。 特に小学校低学年の頃はその発病頻度が高く、2週間毎に高熱(41℃程度)を繰り返した。 娘の場合、解熱するまで3日間と短く(参考だが当時の小児医学では不明熱は5日以上の発熱と定義されていたようだが)、4日目からはケロリと平熱に戻るのが特徴だったため、学校からは「仮病」を疑われたりもして保護者としては実に難儀させられた。
 
 「抜毛性脱毛症」も小6時に罹患し、現在も一部所にて続行中だ。
 これにも困惑させられた。 脱毛部位が眉と前頭部のため、どうしても外見的に目立ってしまう。 前頭部に関してはヘアスタイルでカバーしたが、眉に関しては皮膚科医の指示により眉墨でカバーした。
 これに関し、私立中学在校中に「指導」を受けるはめとなったのだ。 “化粧は一切禁止!”と容赦ない。
 本人に説明能力が未だ無かったため、保護者の私がそれに代わって学校側へ説明をした。 それを文書にて実行しつつ、本人も保護者もその病に罹患している事自体に苦しめられているのに、その苦しみに上塗りをする学校の指導が実にやるせなかったものだ。 

 「側彎症」の定期受診にも何年間か同行した。 
 ただ、これは本人が持って生まれた奇病というよりも、DNAによるものだ。 私も実母(娘にとっては祖母)も側彎症である故に、そのように判断している。

 そして、「アレルギー体質」。
 まあこれもDNAによるのだが、娘のその体質は私よりもずっと重症だ。
 今回娘が体調を崩しているのは、この「アレルギー体質」によるものと判断している。 小6時と中2(だったか?)に同じ症状を訴えて病院へ連れて行ったものだ。


 ここから、大幅に話題を変えよう。

 昨日の我がエッセイ集 popular entries の上位に、2008.08.29公開バックナンバー 「人間は『明るく』あるべきか?」 がエントリーしていた。
 2008年8月と言えば、当エッセイ集公開後わずか1年に満たない頃に公開したエッセイだ。
 このエッセイに我が娘が抱えている事情の一部を取り上げたのだが、今現在母親の立場で読み返しても実に感慨深いため、手前味噌ながら以下に今一度繰り返させていただこう。

 自宅での昼食時間に、NHKの天気予報とニュースを見る流れで連続テレビ小説を見ているが、このドラマに最近「境野涼子さん」という役名の中1の少女が登場している。
 この「境野さん」の持つ雰囲気が、我が家の中学生の娘に瓜二つなのだ。 とても他人とは思えない私は「境野さん」の母になった心境で、毎日行く末を見守っている。
 「境野さん」は、寡黙で引っ込み思案で自己表現が下手なところがあるため、周囲から“暗い”イメージを持たれている、との設定だ。 この“暗い”「境野さん」を何とか“明るく”しようと(私に言わせてもらうと“余計な”)お節介をブラウン管の中で周囲が焼いている最中だ。
 主人公の「瞳」はヒップホップダンスを習っているのだが、中学校のダンス校友会で「境野さん」ら女子中学生のダンス指導をすることになる。 そのダンス指導を通じて「境野さん」は少しずつ“明るく”なっていくというような、よくある陳腐なパターンのドラマの流れである。
 ここで、どうしても私は「待った!」をかけたい。
 「境野さん」は“明るく”ならなければいけなのか? そもそも「境野さん」は“暗い”のか??  私の目には当初登場した時消え入りそうな小さい声で「(愛読書は)ドストエフスキー…」と答えた時のそのままで、「境野さん」は十分過ぎる位いいお嬢さんであったのだが…。
 「境野さん」風の我が子を持つ親としては、軽はずみなドラマ造りは勘弁願いたいものである。
 学校等の集団内において、個性を尊重するどころか、小さい頃から「境野さん」同様に寡黙さや自己表現の下手さを一方的に指摘され続けている娘を持つ親としては、他者の性格や特質に関する軽はずみでひとりよがりの判断や誤解のなきよう、周囲にもう少し冷静な思考を望みたいところである。
 では、少し分析してみよう。
 まず“明るい”とは一体何であるのか。
 結論を先に言うと、これは他者の価値基準による主観的な虚像である。
 “明るい”とはすなわち、受け手としての自分に対して笑顔を振りまいて欲しい、楽しくさせて欲しい、あるいは気分が高揚するような情報を与えて欲しい。 少し前進して、できれば楽しいひと時を共有したい。 そういう個人的欲求を満たしてくれるような相手の性質を“明るい”と呼ぶのであろう。
 では、“暗い”とは何なのか。
 それは上記の“明るい”の逆なのであろう。 すなわち、あくまで受身である相手方にとって、そのような影響力をもたらさない性質を指すのではなかろうか。
 このように、人間の性質を表現するとされている“明るい”“暗い”という価値基準は、あくまでも複数の人間集団の中での受身の観点からの主観的な表現でしかない。
 そうなると当然ながら好みの問題もかかわってくる。 価値観が多様化している現在、皆が皆“明るさ”を好むとも思われない。
 “暗い”という言葉はいかにもマイナーな表現であり一種の差別感も読み取れるため好まないが、例えば、人間関係において“落ち着き”だとか“静けさ”を好む人種も増えているのではなかろうか。 私など、まさにそうだ。 だから、テレビのバラエティ番組等の低俗でくだらない造られた“明るさ”を毛嫌いしているのだ。 
 大した意味もないのに大声を出して笑ってみたり、わざとらしい作り笑いをしてみたり、“明るく”あることに悲壮感さえ漂っているような場面にすら出くわすことが多い時代である。 なぜそのように、人間集団において“明るく”あることが義務化されてしまったのであろうか。 人間関係の希薄化がもたらしている、心の歪み、ひずみ現象の一端であるのかもしれない。
 人間は自然体が一番よい。 持って生まれた性質や特質等の“自分らしさ”を大切に育んでいきたいものだ。
 「境野さん」も我が娘も、そのままでありのままで十分に素敵な女の子だよ! 
 (以上、長くなったが我がエッセイ集バックナンバーのほとんどを再掲載したもの。)


 話題を、娘の現在の体調不良に戻そう。
 
 娘の相変わらずの寡黙さ故、(と言うより娘が大人に至って後の方が、母親である私に対する寡黙度が増しているとの懸念感すらあるのだが…  これを分析するに、娘も実際大人になり子供時代の無邪気さが自然と消え失せようとしているのだろう。) その事態を心得つつ、口数少ない娘に敢えて「問診」に挑んだ母の私だ!
 その結果、要するに娘が現在訴える症状とは冒頭に記した「アレルギー体質」の一症状が出現したものと私は推測した。 娘小6時点で受診した医師の診断によれば、“軽い喘息症状”との診断結果だったが、これが再発していると判断した。
 そうだとしても、日々真面目に仕事に励む娘に平日は病院受診時間が取れない。 ただ、娘のそのアレルギー症状がここのところ安定している事もあり、週末に医師診断を受ける事を指南し、今現在は娘の病状を見守っている。


 本日昼間にNHK連ドラ再放送を視聴したところ、偶然にも現在の我が意と重なるセリフが主人公の母親から発せられた。

 これを、今回のまとまりのない我がエッセイの結論とさせていただこう。

 「子供を持つこととは、自分よりも大事なものが出来てしまう、という事……」

 それを娘を通していつまでも実感し続ける事が叶っている私は、世にも恵まれた母親なのだろう。
 と、高齢域に達しようとしている我が身の”幸運”を振り返ったりもする……