原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

被災者に我慢を強いる避難所のあり方、改善不能なものか?

2018年07月17日 | 時事論評
 2011.03.11に勃発した「東日本大震災」の半月後に、私は以下のエッセイを公開している。

 2011.03.28 公開バックナンバー 「避難生活能力のない私」と題するエッセイの一部を要約して、以下に紹介させていただこう。

 東日本大震災における避難者は昨日時点で未だ24万人を超過しているようであるが、震災発生より半月余りが経過して、尚先々の見通しが立たず不便な避難生活を余儀なくされているご苦悩を推し量って余りある。 
 当エッセイ集のバックナンバー「大震災被災者支援強化に向けての一提案」において、原左都子は、震災の影響がないかあるいは影響が少ない地域こそが、今こそ避難者を受け入れるべきだとの提案をした。
 日本各地の自治体とて思いは同じだったようで、その後全国各地で避難者受入れ体制が整い、多くの避難者が既に各自治体の避難所で生活を始めているようだ。 被災地の自治体丸ごと県外避難をしている地域もあると聞く。
 ただ、中には被災地域内でのつながりを尊重したり、あるいは受入先への気兼ねや不安から県外移転に踏み切れない避難市民も多く存在するとの報道である。 そのお気持ちも重々察する事は可能だ。 それ故に、災害を受けた地の安全性を確保した上での「仮設住宅」の建設も急いで欲しい思いだ。
 私が何故に自宅を離れて不自由な日々を送る避難者の皆さんを慮るのかと言うと、それはどう考察しても、私自身が避難生活を送れる“キャパシティ”がないと判断しているためである。
 今回の東日本大震災のごとくの歴史的大震災にかかわらず、過去における災害に於いて日本各地の市民の皆さんが何処かに避難を余儀なくされているとの報道を見聞するにつけ、「私は自宅で留まって死を覚悟する方がいい」などと家族に宣言している程だ。??
 それ程に私は、避難生活とは過酷であることが既に想像できている。
 私の場合、過去における癌罹患の置き土産である“頭の傷痕”の問題もある。 普段外出する時にはウィッグを使用しているが、自宅では当然ながらそんなものは使用せずガーゼで覆って頭皮をごまかしている。 その“ガーゼ頭”のままでは一歩も人前に出られないことは承知しているが、まさか緊急時にウィッグを被る余裕はないであろう。 奇跡的にウィッグを装着できる時間があったとしても、まさか避難所でそれを被り続けたものなら夜も熟睡できないであろうし、それよりも頭皮が不衛生状態を余儀なくされる。  そんな不自由な思いを半月余りも耐え続けねばならないならば、私はいっそ自宅で“美しく”?? 死に遂げた方がましかとも普段考えているのだが…   ところが、我が家族の誰もがこんな私の“苦悩美談”に耳を傾けないのは、“どうせあいつは家族を捨て置いてでも自分の傷頭を振り乱しつつ一目散に逃げるに決まっているぞ!” と判断しているからなのか???
 冗談はさて置き、それ以前の問題として私には避難所生活の適性はないと言い切れる。
 元々集団行動が苦手である。 それに加えて人に世話を焼かれる事に関しても多いなる抵抗感がある。 もしも避難所において、どなたかが何らかの“歪んだ”指導をし始めたものなら、それに食って掛かかりそうな気質でもある。 その種の感情を押さえ込んで指導者に迎合する気が一切ない私は、どう考察しても避難所生活は不能である。 
 そんな私は、今回の東日本大震災において避難を余儀なくされている避難者の皆さんの長い期間に渡る不自由や苦悩、そして精神的忍耐力の程を察して余りあるのだ。
 (以上、長くなったが、本エッセイ集バックナンバーより一部を要約引用したもの。)


 話題を現在に移そう。

 西日本豪雨災害の発生から既に10日が経過している。
 被災地では猛暑にも苛まれ、被災者皆様が過酷な環境に置かれている現実だ。
 水道こそ少しづつ復旧し、物資も全国から届き始めつつあるとの情報だが、未だ電気・ガスは復旧されないままとのニュース報道だ。

 そんな中、テレビニュース映像で映し出される各地の避難所の様子を垣間見るに、旧態依然として「雑魚寝」状態…。 避難生活能力のない我が身としては、あの場でしばらく暮らさざるを得ない被災者皆様の苦悩の程を思って余りある。

 昨日2018.07.16付朝日新聞“社説”のテーマは、「避難所の環境 脱『雑魚寝」を急ごう」だったのだが、その内容を以下に要約して紹介しよう。
 我が国は、何度も自然災害に見舞われてきていながら、驚く事に、避難所の光景は半世紀以上あまり変わっていない。 無意識のうちに「避難所とはああいうもの」と思い込んでいないだろうか。
 今回、変化の兆しが生まれている。 事前の生産業者との防災協定に基づいて、岡山県倉敷市は、避難者全員分の段ボールベッド配給を要求した。 これを期に避難所のあり方の「標準」を変えていきたい。
 避難所の環境を改善することは、大切な問題だ。 混雑している発災直後はやむを得ないとして、体育館などの床で横になる生活を続けていると、エコノミークラス症候群になる恐れが大きい。 泥やほこりを吸いやすく、呼吸器障害も懸念される。 内閣府もこうした点を踏まえ16年に定めたガイドラインで「継続的な避難者には簡易ベッドの確保を」と促している。
 しかしその後も、都道府県が協定を結んでいることを被災市町村が知らずに支給を要請しない例や、現地に届いているのに「日本人は床で寝るものだ」とお蔵入りさせてしまうケースがあったという。
 政府は今回の西日本豪雨被害に於て、被災地からの要請を待たない「プッシュ型」支援の対象物資に段ボールベッドを加えた。 引き続き、政府は避難所環境の底上げに旗を振って欲しい。 ベッドだけでなく、被災者の「我慢」を当たり前といない避難所にしていくべきだ。
 (以上、朝日新聞“社説”より一部を引用したもの。)


 最後に、原左都子の私論でまとめよう。

 まさに、上記朝日新聞 “社説” に記されている結論通りであろう。
 政府は今回の西日本豪雨被害を受けて、「プッシュ型」支援体制を採用したとの事実のようだが。
 災害現地での「プッシュ型支援体制」実施状況や、被災者皆様からの反応の実態を随時調査する作業こそを、政府は是非共怠らないで欲しいものだ。 
 
 そして被災地の、特に「避難所」にて生活せざるを得ない市民の皆様も、如何なる厳しい環境下に於いてもご自身が市民・国民として最低限の“生きる権利”を有している事実を思い起こしていただきたい。

 そのための前提として、役所側こそが「日本人は床で寝るものだ」なる旧態依然とした“馬鹿げた”発想を捨て去ることから始めるべきだろう。

 避難所で過ごす能力にはやはり欠けていそうな私だが……

 避難所で暮らさざるを得ない被災者の皆様がほんの少しでも快適に暮らせ、その人権が守られる事を祈る次第である。