礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

「𡈽」という字は、どの辞書を見てもない(山田孝雄)

2022-10-02 01:52:24 | コラムと名言

◎「𡈽」という字は、どの辞書を見てもない(山田孝雄)

 山田孝雄の『古事記講話』(有本書店、一九四四年一月)の紹介に戻る。本日は、その一三回目。本日、紹介するのは二か所だが、いずれも、「第五 古事記序文第一段」の一部である。

「儛」といふ字は人扁があつても無くてもよいのであります。これは事実から申しますと、神武天皇様が忍坂【オサカ】の大室に於いて、多くの賊に御馳走せられ舞を舞はせられた話があります。その歌の合図で今まで接待係をしてゐた者や料理を作つてゐたものが一斉に起つて賊を亡してしまつたといふあの話であります。その事柄をこゝに書いてをる訳であります。これは余計なことでありますが、「仇【アタ】」を「仇【アダ】」といふ人がありますが、これは濁つて読まないのであります。「アダ」といふのは無駄に日を過すなどいふことであります。「伏仇」といふのは敵を征服したといふことでありまして、極めて分り切つたことでありますが、たゞそれだけの事を言つてをるのではないのであります。もう少し深い意味がある。この時に久米部といふ軍隊がゐて賊を討ち亡したのでありますが、その時の歌、これは神武天皇がお作りになつたといふことですが、その歌は古事記にも日本書紀にもありまして、久米歌〈クメウタ〉と申してをるのであります。こゝはその久米歌の説明をしてをるのであります。久米歌が今日伝はつてゐるのは神武天皇が賊を討伐された時の歌、つまりその当時の軍歌であり、それを舞つたのが久米舞〈クメマイ〉であります。昔から日本では大きな事があつた場合はそのお祝ひとしてこの久米歌、久米舞が行はれるのであります。歌を奏し儛〈マイ〉を舞ふのであります。宮中で紀元節の御宴会が行はれる時にこの久米歌、久米舞を用ひられてゐます。これは実に神武天皇様が日本を平定せられた時に奏せられた歌であり、舞であるといふ事を同時に物語つてゐるのであります。〈一四〇~一四二ページ〉

 かやうに形をいろいろ変へつゝしかも同じ字を示すやうにするのが手腕のある人であるとする、かういふ考へ方で日本および支那は二千年、三千年の間やつて来たのでありますが、明治になつてからは四洋流の考へ方で、ちよつとでも違ふといけないといふやうになつた。さういふ訳で支那人や日本人は棒の一本ぐらゐ増したり減じたりしてゐる。あつても構はぬ、無くても宜しい、これが書家の憲法であります。例へば「土【ツチ】」といふ字はよく「𡈽」といふ風に点を打つが、これはどの辞書を見てもない。ところが昔は「士【サムラヒ】」といふ字とまぎらはしいといふので点を打つた、「士」といふ字をで下手〈ヘタ〉に書くと「土」といふ字になる、そこでかかういふ習慣が出来たのであります。それを明治以後になつて来ると昔からの習慣、いばゆる「弊習」を打破すると言つて何の関係もない西洋の考へ方で漢字を論じて来てをるのであります。それが今日どれだけの弊害を及ぼしてをるか分らない。教育上にどれだけの弊を及ぼしてをることか。ところで棒の一本や二本は何でもないといつても、一百円の借金がいつの間にやら二百円になつてゐたといふのでは困りますが、これはさういふことではない、間違の起るやうな場合は頗るやかましいが、間違さへ起らなければ少しぐらゐのこと喧しく言はないのが、昔からの東洋人の心の豊かさであります。〈一四九ページ〉

 小学校時代、同級生にヒジカタ君という子がいたが、漢字では、「𡈽方」と書いていたと記憶する。土=𡈽を「ひじ」と読むのは、土≒泥(ひじ・ヒヂ)からの連想であろう。

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