◎原ぐらいの人間は只今では無いと思う(山県有朋)
岡義武著の『山県有朋――明治日本の象徴』(岩波新書、一九五八)の内容を、ところどころ紹介している。本日はその二回目。「九 晩年とその死」のうち、昨日、紹介した部分のすぐあとのところを紹介する。
山県は、原〔敬〕内閣の閣僚について、内田〔康哉〕外相、床次〔竹二郎〕内相、中橋〔徳五郎〕文相等の更迭を依然希望し、大正一〇年〔一九二一〕四月には、原にむかって、内閣を改造してつづいて政権を担当してはどうか、というにいたった。山県はこのときの会談の模様を、後に松本〔剛吉〕に次のように語っている。「君(原を指す―著者)は身体が健康であるから、尚ほ続けて遣る方が可【よ】からう。しかし、閣臣中の外務、文部、内務の三大臣抔【など】は如何であらうか」。「他の閣臣も余程疲れた模様と見えて、罷め〈ヤメ〉たいと言ふて居ると云ふ事を【ママ】己の耳に入った。何とか此際処置してはどうだらうと言ふたら、原はいくらか立ち後れした容子〈ヨウス〉の気味でにやりと笑ふて手で顔を撫で、もじやもじや口の中で言ふて、まさか加藤(高明―著者)にも遣らせられますまいと言ふたが、原の意中では何か考へのあるらしいやうに見えた」。なお、原もこのときの会談のことをその日記に記しているが、それによれば、原は山県に対して、内閣の改造は簡単ではなく、自分はむしろ内閣の進退を考えていると述べたところ、これをきいて山県は、それは不可である。後継内閣を組織できる者はいない。奮発して引つづき政局に当れと励ました。そこで、原は、総辞職すれば誰かやる者はあろう。加藤高明ももう少しく思慮があればよいが、しかし、常に他に強いられて動くので困るといったところ、山県は加藤が政権をとり普通選挙をやるようなことがあれば、自分は単独ででも政友会を助けると「勢よく」言い放った、という⑻。
山県は、原が「一蓮托生」を唱えて、内閣改造を好まないことを甚だ不満とした。それにしても、彼が原の政治的能力を依然高く評価していたことは、事実である。第四四議会終了の日に彼は松本剛吉に語って、「今度の議会の遣り方は原は実に立派なものであつた。原位の人間は只今では無いと思ふ」といい、東宮妃問題〔宮中某重大事件〕で提出中の枢密院議長の辞表がかりに聴許されて「一平民になつたら原と力を合せて遣りたいものである。原には経倫が無い、抱負が無いといふ人もあるが、人格と言ひ遣り口と云ひ実に立派なものだ」と激賞した⑼。そして、四月に原が古稀庵〔神奈川県足柄郡小田原町〕に山県を訪ねたとき、松本の日記によると、山県は原の顔をみると「真に貴様は鉄骨だのう。今回の議会の遣り口と君の健康には驚いたと言ひ、首相はいやもう珍説明論(それからもう一つ何か言つたが分らなかつたが―これは山県が松本に語った言葉《著者》)沢山聞かされたが、先づ半分居睡り〈イネムリ〉して聞て居りました。只忙しいので睡眠不足には困ります」といった。〈一八六~一八七ページ〉
⑻ 松本〔剛吉〕、〈政治日誌〉、大正一〇年四月五日。『原敬日記』、第九巻、二六五頁。
⑼ 松本、〈政治日誌〉、大正一〇年三月二七日。
山県有朋は、「原位の人間は只今では無いと思ふ」と言いながら、首相たる原敬(はら・たかし)に対して、大臣三名の更迭を要求している。「宮中某重大事件」の渦中にあって、山県の権勢欲は、いささかも衰えていないことに注意したい。
ところで当ブログでは、二〇一七年一〇月一七日に、「そのとき原敬が一蓮托生という言葉を使った」という記事を載せた。芳賀利輔というアウトローの言葉を、そのまま、記事のタイトルにしたのである。この言葉は、芳賀利輔『暴力団』(飯高書房、一九五六)に出てくる。再度、引用すると、次の通り。
芳 賀 大正の末期か昭和の初めですか、その当時、原敬という人が総理大臣であつた。ところが中橋さんという人が何か失敗をしたわけなんです。そして議会で盛んに攻撃を食つて、内閣はある程度認めるけれども中橋はけしからぬというので辞職を勧告したんです。そのとき原総理大臣は一蓮托生という言葉を使つた有名な話です。大臣はみな、一蓮托生である。各員が失敗したことは、総理大臣みずからが失敗したことである。だからやめるときには彼一人はやめないのだ。全部がやめるんだからどうかさよう御承知願いたい、といつて議会で答弁した。
芳賀利輔は、松本剛吉に師事していた。おそらく、このエピソードについても、松本剛吉から、じかに聞かされていたに違いない。
別件だが、昨日、昼ごろ、アブラゼミの声を聞いた。おそらく今年、最後に聞いた蝉の声となるだろう。