礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

山県は、いつ枢密院議長の辞表を差出すか(大正天皇)

2022-10-17 00:21:49 | コラムと名言

◎山県は、いつ枢密院議長の辞表を差出すか(大正天皇)

 岡義武著の『山県有朋――明治日本の象徴』(岩波新書、一九五八)の内容を、ところどころ紹介している。本日はその七回目(最後)。「八 老い行く権力者の喜憂」のうち、昨日、紹介した部分の少しあとのところを紹介する。

 寺内〔正毅〕内閣の成立をみた年〔一九一六〕の一二月、内大臣大山巌は歿した。さきに大山を内大臣に推した山県は、そこで平田〔東助〕に命じて、当時すでに八〇歳を越える高齢にあった元老松方正義を説かせて、後任内大臣に据え(大正六年〔一九一七〕五月)。山県は、大山と同じく自己と親しくかつ操縦できる松方をこの重職に置き、宮中における彼の足場を引つづき保持しようとはかったのである。ところで、松方のこの内大臣就任前に、〔大正〕天皇は山県を引見の際に山県に対して、いつ枢密院議長の辞表を差出すかとの下問があり、山県は驚愕して直ちに辞表を捧呈した。そして、天皇はその後寺内首相に対して山県は人望を欠くのではないかと尋ねられた。天皇の山県への突然の下問は、寺内が当時想像したように、山県がこれまで度々老齢のため枢密院議長の任に堪えない旨を天皇に述べていたためでもあろう。しかし、天皇が寺内に対してされた前述の下問を合せて考えれば、この挿話的事件もまた大正天皇が山県を好まれなかったことを示すものであろう。ただし、その後寺内、松方の斡旋で天皇から山県に対して引つづき留任するよう御沙汰があり、事は解決をみた。山県は後日原〔敬〕に語って、老齢のため枢密院に出席できないのに議長の地位にあることは職を汚すものと考え、かねてから辞意を天皇に表明していたが、今般辞表却下となったのについては「臣子の分」としてその地位に当分とどまらざるを得ないといい、先帝〔明治天皇〕の御代ならば辞職も差支えないが、今上天皇の下ではそうも行かないなどともいい、その本心においては枢密院議長の地位を去る意志のないことを洩らした。山県はこの前後を通じて老齢を理由に枢密院の会議に出席することは甚だ少かった。しかし、すでに述べたように枢密院は彼の系統のひとびとで固められた観を呈していた。そして、大正六年三月には清浦〔奎吾〕が枢密院副議長に就任し、枢密院おける山県の勢力はいよいよゆるぎないものになった。
 宮内省の仕人【つこうど】であった小川金男は、ほぼこの頃の山県の面影について次のように回想している、「元帥はいつも通常軍服を着ていた。外套を着ている時には、必ずその特別に広い外套の襟を立て、まるで顔をかくすように帽子を眼深か〈マブカ〉にかぶり、両手はぶざまに外套のポケットにつっこんだまゝ長い軍刀をひきずるようにして歩く人であった。これは宮中でもおなじで、うつむきながらほのぐらい宮中の廊下を独り歩いてゆくその様子には、どこか孤独な感じがあった。ある時、私は表御座所〈オモテゴザショ〉の廊下で検番に立っていると、山県元帥が拝謁をおわって出てきた。すると丁度そこへ北白川宮〔成久王〕殿下が、たしか大尉か少佐かの軍服であったと思うが、やはり陛下に拝謁されるためおいでになった。そして、元帥を見かけると、すぐ廊下の隅によけられて直立して敬礼された。元帥はしかしうつむいたまゝで、殿下の方に顔をむけると、ジロリと鋭い一瞥をあたえただけで、そのまゝ通り過ぎて行った。こんなことは実際珍らしいことであった。なぜなら北白川宮は明治天皇の娘婿であって、いかに軍律であるとはいえ、宮中においては殿下を殊さら上にたてなくとも相応に遇するのが普通と思われていたからである⑷」。この一文も、山県が当時の宮中に擁していた巨大な勢威をうかがわせるものであろう。〈一五四~一五六ページ〉

⑷ 小川金男『宮廷』〔日本出版共同〕、昭和二六年、二一七~二一八頁。

 ここに登場する人物のうち、寺内正毅は長州出身だが、松方正義と大山巌は薩州の出身である。平田東助、清浦奎吾、原敬は、それぞれ出羽、肥後、陸奥の出身である。すなわち、山県有朋は、出身地を越えた「山県閥」とも言うべき人脈を形成し、日本の政界を支配していたのである。
「山県を好まれなかった」大正天皇は、山県に、「いつ枢密院議長の辞表を差出すか」と下問し、枢密院議長の辞任を促した。山県はただちに辞表を提出したが、この辞表は、のちに却下された。その間の経緯は不明だが、結果的に見れば、「先帝の御代ならば辞職も差支えないが、今上天皇の下ではそうも行かない」という山県の意向が罷り通った形になった。不遜なり、山県有朋。畏るべし、山県有朋。
 岡義武著の『山県有朋』(岩波新書)については、このほかにも紹介したい箇所がある。山県有朋という人物についても、さらに論じてみたいことがあるが、明日は、いったん、話題を変える。

*このブログの人気記事 2022・10・17(9位の西部邁、10位の東條英機は久しぶり)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする