◎宮中某重大事件と山県有朋
先月の「国葬」以来、山県有朋という明治大正の政治家が、にわかに注目を集めるようになった。山県有朋については、拙著『史疑 幻の家康論』(批評社、一九九四)で言及したことがある。また、このブログでも、過去に何回か取り上げている。しかし、この際なので、もう少し、この人物について見てみたいと思う。
本日以降、岡義武著の『山県有朋――明治日本の象徴』(岩波新書、一九五八)の内容を、ところどころ紹介させていただきたい。本日は、「九 晩年とその死」から、「宮中某重大事件」について論じているところを紹介する。
このような中で、大正九年〔一九二〇〕暮頃から当時「宮中某重大事件」とよばれた事件が起った。これは、皇太子妃にさきに内定をみた久邇宮良子【くにのみやながこ】女王について薩摩の島津家に由来する色盲の血統のあることが判り、この内定を取止めとすべきか否かが問題となった。それが、この事件の内容である。この問題は一般国民に対しては極秘にされ、宮中および改治の上層部において先ず取り上げられた。山県以下の諸元老、中村〔雄次郎〕宮相、平田〔東助〕宮内省御用掛、原〔敬〕首相らはいずれも内定を取消すべきであるとの意見であり、山県は万世一系の皇統に汚れを生ずるものとして、きわめて強硬に取止めを主張したが、山県以外の以上のひとびとの論拠もこれと同様であった。この意見は関係者の間では「純血論」とよばれた。これに対して、久邇宮は一旦内約がなされた以上「綸言【りんげん】汗の如」くであるとなし、久邇宮からむしろ辞退を申し出るべきであるとの論をもしりぞけた。しかも、宮から意見を徴された東宮学問所御用掛杉浦重剛〈スギウラ・ジュウゴウ〉は宮のこの意見を支持して、内定取消しを強硬に訴える山県を非難し、さらに問題を頭山満【とうやまみつる】にも語ったので、右翼団体もここに山県攻撃にむかって動くようになり、その間にあって、薩派も島津家と久邇宮家との幕末以来の縁故の故に、長州出身の山県に対抗する意図の下に策動する有様になった。内約をあくまで維持すべきであるとのこの主張は、関係者の間で「人倫論」とよばれた。山県は久邇宮らの主張に対して憤懣に堪えず、一旦は枢密院議長の辞表を提出するにいたったが、ついで〔大正〕天皇の御沙汰により翻意した。しかし、事が長引くにつれて、内定取消の論は山県らの不忠に出たものであるとの印刷物等が「人倫」派によって政界に散布され、また山県は内定変更の陰謀を弄して〈ロウシテ〉いるとの宣伝も皇族の間にひろがるようになった。
このような中で、平田はやがて軟化して中村宮相に内定不変更の立場で事態を収拾するよう勧告し、中村はついに山県の諒解の下に、自己の責任でこの問題を解決し、そのあと辞職することになった。この頃山県は松本剛吉に対して、「純血論」「人倫論」いずれが結局勝つか知らぬが、自分はあくまで「純血論」で戦うといい、自分は「勤王に出て動王で討死〈ウチジニ〉した」と昂奮しつつ語った。結局〔大正一〇年=一九二一〕二月上旬、東宮妃内定の件は変更ない旨が発表されて、問題は一応落着をみた。原はこの事件について、その日記の中に、「要するに山県久しく権勢を専らにせし為め、到処〈イタルトコロ〉に反感を醸し〈カモシ〉たるは此問題の最大原因なるが如し」と記しているが、それは正当であろう。その後、松方〔正義〕、ついで山県はこの問題で人心を動揺させたことを理由にそれぞれ内大臣、枢密院議長の辞表を提出したが、山県はその際に添えた封事において、「純血論」の所信を述べ、しかも、自分の措置よろしきを得ず世論を騒がせたことを恐懼〈キョウク〉に堪えないとし、一切の官職、栄典を拝辞したい旨を申し出た。しかし、その後天皇から松方および山県に対して慰留の御沙汰があり、決着をみた(大正一〇年五月)。「ひるがへす心のおくの苦しさは人にかたらむ言の葉もなし」。これは、山県が御沙汰を遵奉〈ジュンポウ〉するに際しての歌である。けれども、それから後に西園寺〔公望〕が原に会ったとき、西園寺は松方の内大臣辞任の意向は強いときいていたが、このたび松方に面会したところ彼は留任と決して、内心大満足らしいと語り、原は山県の方も満足のことと思うといい、笑い合った。〈一八四~一八六ページ〉
文中、人倫派によって「印刷物」が散布されたとある。いわゆる「怪文書」のたぐいであろう。当時、国家社会主義者の北一輝が、そうした怪文書に関与していたという。
また、山県は、枢密院議長の辞表を提出する際、「封事」を添えたとある。この封事というのは、「密封して君主に奉る意見書」のことである。