礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

田中耕太郎が敗戦直前に発表した国民道徳論

2022-10-30 04:14:23 | コラムと名言

◎田中耕太郎が敗戦直前に発表した国民道徳論

 最近、必要があって、田中耕太郎の文章をいくつか読んだ。田中耕太郎(一八九〇~一九七四)は、東京帝国大学法学部長、文部省学校教育局長、文部大臣、貴族院議員、参議院議員、最高裁判所長官を務めた商法学者、法哲学者である。
 毀誉褒貶の激しい人物であるが、学者としては傑出しており、『世界法の研究』(一九三二~一九三四)、『教育基本法の理論』などの業績がある。
 本日は、田中が、敗戦直前の一九四五年七月一二日の「大学新聞」に発表した「国民教育と道徳の内面化に就て」という文章を紹介してみたい。出典は、田中耕太郎『教育と政治』(好学社、一九四六年一一月)の一五一~一五七ページ。

  国民教育と道徳の内面化に就て

      一
 戦争自体が道義に立脚しなければならぬのは当然であるが、有効に戦争を遂行するためにあらゆる階層の国民が道義心とその実践において微底してゐなければならぬことは、総力戦たる現戦争が実証してゐるところである。国家が個人の全天分の発揮及び個人に対する大犠牲を要求すること戦争に如く〈シク〉ものはないのである。それは最も崇高な道徳的行為でもなければならぬ。
 ところで我々は従来の戦争と同じく今次の戦争においても一つの矛盾に逢着〈ホウチャク〉した。それは一方前線における各種の多数の英雄的愛国的行動に関する報道が日々の新聞紙面を満してゐるに拘らず、他方銃後の日常生活の各方面に於て利己、怠慢、不作法、不誠実、無責任、更に刑辟〈ケイヘキ〉に触れるやうな反社会的(病理的)現象が跡を絶たないのみか、世間の識者をして公然慨嘆せしむる位増加してゐる事実である。道義に基かなければならず、道義に依つて遂行せられ得る戦争が国民の道徳的水準を低下せしむることが果してあり得るであらうか。若しこれ有りとするならば、我々は深く其の原因について反省しなければならない。
      二
 かやうな病理的現象が他の戦争当事国に比較して特に多いか少いかは私の知るところでない。
 我が国民としては、学校に於て又社会生活に於てあらゆる機会に国家思想と愛国心の涵養のため異常の努力が為政者に依つて払はれ来つたこと世界に類例を見ないところである。近年の國體明徴運動や個人主義自由主義の排撃も必ずや国民道徳の水準の向上を来さなければならぬ筈である。ところでかやうな努力が実を結んだとするならば、今日屢々国民の道徳的水準に就て批判や慨嘆の声を聞くことはまとに異としなければならない。若し批判や慨嘆が理由ありとするならば、我々は深く其の原因に就て省察〈セイサツ〉しなければならないのである。
      三
 我々は従来の愛国運動や精神主義の昂揚が単な〔る〕抽象的口頭禅に終りはしなかつたか、又真に国民個人個人の内面的生活に対し更生的効果を持つてゐたか否かを疑ふものである。今や国民の道徳的教育が全体に亘つて反省せられなければならぬ。我々々は教育勅語に宣明せられてゐる人倫と国民道徳の大本〈タイホン〉を具体的に如何にして実践するかにつき、果して従来の如き文教政策で十分であつたかどうかを謙虚な態度で検討しなければならぬ時期に直面してゐる。歴史の教育は国民を民族の美点に陶酔せしめ、その欠点に対し盲目にするものであつてはならない。愛国心の昂揚は他国民を敵視軽侮し、彼等の長所を学ぶ態度を排斥するものであつてはならない。
 就中〈ナカンズク〉最も警戒するを要するものは道徳生活め形骸化である。あらゆる善美も若し対世間的の動機に起因するものならば、法律的判断は別論として道徳的に無価値であり、その価値は内心の純潔にかかるといふこと―換言すれば良心の権威―が国民教育に於て特に等閑に委せ〈マカセ〉られるやうになつたことが、正に病弊の根源である。
 かう考へるときに我々は明治以来の実証主義が内心の純潔を強調する宗教から教育を切り離したことを最も重大な禍根と認めざるを得ない。然るに一部極端論者は良心を鋭くすることに役立つところの諸宗教、諸思想例へば儒教カント哲学、基督教更に仏教すらも、それ等が単に外来のもの日本的乃至東洋的ならざるものなる理由を以て排斥し或は白眼視してゐるのである。
      四
 国民道徳の向上には国民に対し最も影響力大なる為政者や各方面の指導者階級の覚醒垂範が必要である。国民は彼等の一部の言動、態度に対〔し〕て内心疑惑を懐きつつも批判を敢てし得ない状況にある。特に国民が彼等から要望するのは強き責任感と思想的節操とである。戦局が現在の重大段階に直面するに至つたのについては、時局担当者の努力に拘らず、善意の失策や誤算が決してなかつたとはいへないであらう。楽観的見込でさへあれば、それにつき確信がなくとも、又はそれに就て後日反対の事実が実現せられても、事柄が重大な場合には決して不問に附せられるべきものではないはずだ。又責任者が責任を感ずる以上は、その責任感を具体的に実現しなければならない。昔の武士は彼等の仕方においてそれを実現したのだ。然るに既往十数年来の熾烈〈シレツ〉な日本精神や愛国運動に拘らず、この重大時局に於てなほ責任の転嫁と国民の健忘性に乗ずる厚顔者流の橫行が跡を絶たない。若しそれが指導者層にありとせば、それこそ国民思想に及ぼす害毒恐るべきものがある。
 時に我々は操弧者〔文筆家〕流を警戒しなければならぬ。我々は綿羊と山羊とを見分けなればならぬ。彼等が過去に於て思想的節操を有してゐたかどうか、時勢迎合の徒であつたかどうかを十分検討し、抽象的愛国主義の言辞に眩惑されてはならない。
【一行アキ】
 あらゆる困難を克服し焦土の上に潑剌たる祖国を再建設する業は国民道徳の内面化を離れては行はれ得ない。それは先づ良心的、自主的な人格の所有者に日本人を作り上げることから発足しなければならない。人格の協調が個人主義自由主義思想として排撃せられたことに従来の病弊が存する。道徳の内面化によつて初めて従来日本精神運動や愛国運動が正しき軌道上に置かれ、完成の緒に就き得るのである。
 識者は私がかやうな自明なことを今更力説するのを片腹痛く感じられるかもしれないが、当然のことが必ずしも適用しない点に現時世相の特徴が存することを考へ合して諒とせられたい。  (二〇・七・一二)

【一行アキ】のところに、「五」とあってもよかったと思うが、原文のままにしておいた。その「五」に相当するところに、「焦土の上に潑剌たる祖国を再建設する」とある。田中が、すでに敗戦を意識していることは明白である。
『教育と政治』の「序」によれば、田中は、一九四五年(昭和二〇)の春、「今日あるを薄々予知」したという。

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